天使のような寝顔をいつまでも眺めていたい気持ちだったが、はレオンを起こさぬように気を付けながら、ふかふかの寝台を抜け出した。メイド服を身に着けて、乱れた髪の毛を手櫛で整える。
 眠るレオンの髪をさらりと撫でて、はそっと部屋を後にした。

「昨夜はお楽しみだったようだな」

 びくっ、と肩が跳ねる。
 腕組みをしたゼロが、待ち構えていたかのように壁に背を預けている。揶揄する台詞に反して、その顔にはにやついた笑みはなかった。
 よろけるの腰に褐色の手が伸びて、やけに密着して身体を支えてくれる。

「ありがとう……」

 は小さく言って距離を取ろうとするが、ゼロの手ががっちりと腰を掴んで離さない。戸惑うの首元に伸びた指先が襟を寛げて、ゼロが舌打ちする。

「レオン様もヤってくれる」
「な、なに?」
「いいや、こっちの話だ。お前は気にするな」

 ゼロが呆れたように小さく肩をすくめる。
 いつもなら突き飛ばしている距離なのだが、思うように身体が動かせず、はゼロの腕の中で身じろぎする。ふふ、とゼロが囁くように笑った。

「その嫌そうな顔、たまんないね」
「……からかわないで」

 む、と唇を尖らせて、はゼロを睨む。可笑しそうに唇の端を上げて、ゼロが顔を寄せてくる。

「なんだ、お前の男は教えてくれなかったのか? そういう顔は、男を煽るだけだってな……」
「ゼロ、あなたね……嫌がらせはやめたんじゃなかったの?」
「嫌がらせ? まさか、可愛がってヤってるだけだろう? お前にえげつないことはもうしてないさ」

 どうだか、とは顔を背ける。しかし、めげずにゼロの指が顎をすくって、しかめた顔など気にも留めない様子で唇を頬に押し付けた。

「ちょ……」
「レオン様に飽きたら、俺が相手してやるよ」

 ぺろ、と舌先が頬を掠めて、我慢ならずにはゼロを突き飛ばした。鳩尾を押さえてゼロがよろめき、支えをなくしてがへたり込む。それとほぼ同時に、私室からレオンが飛び出てきた。

……!」
「は、はいっ」

 は座り込んだまま、びくりと小さく飛び上がる。
 よほど急いでいたのか、レオンの格好は半裸だった。を見てほっと息を吐くと、レオンが拗ねた顔をしてじろりと見下す。

「何も言わずにいなくなるなんて、薄情が過ぎるんじゃない?」
「す、すみません。お疲れかと思いまして……」

 手を取って、立ち上がらせてくれたレオンがため息を吐く。「疲れているのはだろ」との指摘には、ぐうの音も出ない。

を疲れさせたのは、レオン様でしょうに」
「……ゼロ」

 まだ痛むのか鳩尾をさすりながら、ゼロがやたらとレオンと距離を詰めて、囁く。
 レオンの低い声音で名を呼ばれ、肩をすくめる仕草は先ほどに向けたものと何ら変わりがない。レオンから離れていく間際、ゼロの指先が剥き出しの背中をなぞっていく。
 思わず、身を震わせたはぎゅっとレオンにしがみついてしまう。

?」

 レオンが不思議そうに顔を覗き込んでくるが、頬が熱を持つのがわかって俯いた顔をなかなか上げられなかった。

「……今日は一日暇を与える」
「えっ」
「とりあえず、僕の部屋で休みなよ。ほら、入って」
「あ、ちょ、レオン様……」

 無理やり部屋の中へと身体を押し込まれ、そのまま扉を閉められてしまう。レオンとゼロはまだ何か話しているらしく、扉の向こう側からぼそぼそと声が聞こえてくる。

 仕方なくは部屋の奥へと足を進める。
 ソファに身を沈めると、は小さく息を吐いて、頬に手を当てた。
 ゼロのちょっかいにすら反応してしまうなんて、まだ昨夜の熱が燻ぶっているのだろうか。ぶる、と身体に震えが走る。顔に集まった熱は、なかなか去ってくれそうになかった。






 夜伽に関しては、あの夜以来、声がかかることはなかった。
 に不手際があったのかもしれない、という不安がなくはなかったが、それ以上にもうレオンとああいったことをしなくてもいいという安堵のほうが大きかった。正直言って、このまま身体を重ねていって、レオンに対して変わらない気持ちをもって仕えられる自信がなかった。
 恋に落ちる、とい感覚ではない。ただ、戻ることのできない深みに嵌るような、漠然とした恐怖があった。

「レオン様、御召し物のご用意が出来ました」
「ああ、うん。ありがとう」

 手元の書物に視線を落としながら、レオンがぞんざいに答える。
 こうやって他に意識を向けながら着替えてしまうから、法衣を裏返しに着てしまうことがあるのだ──と、思いながら、はレオンの腕に袖を通す。

 カムイの元に足を運ぶとき、レオンの様子は嬉しそうにも、憂鬱そうにも見える。兄に目をかけられ、姉に寵愛され、妹に慕われる暗夜王国第二王女カムイに対して、には推し量ることのできない複雑な思いを抱いているのだろう。
 ふと、レオンの視線がの瞳を捉えた。

「どうなさいました?」

 手は止めないまま、はレオンを見上げた。
 うん、と生返事をしてレオンが書物を置き、その手がの身体に巻きつく。は自然にレオンの背に手を回して、抱きしめ返した。きっと、身体を重ね続付けていたら、こんなふうには応えられない。

「……レオン様、遅れてしまいますよ」

 何だかんだ言ったって、カムイと顔を合わせることを楽しみにしていることを、は知っている。促せば、レオンの身体は離れていった。ふ、と眦を下げて、少しだけ困ったようにレオンが笑みをこぼした。

「遅れたら、エリーゼに怒られるな」



 北の城塞は、王族が住まうとは到底思えないところである。けれども、そこに幽閉されているといっても差し支えのないカムイは、いつだって笑顔でレオンたち王城に住むきょうだいを迎えてくれる。

「レオンさん、さんも! 来てくれたんですね」

 嬉しそうに駆け寄ってくるカムイの傍らには、当たり前だがジョーカーが控えている。夜を共にして以降初めて顔を合わせるので、は内心で緊張していた。

「実は今日、マークス兄さんが新しい臣下の方を連れてきてくださっているんです」
「……へえ、そうなんだ」

 そう答えるレオンの顔には笑みが浮かんでいたが、その瞳は冷え冷えとしていた。自分の元に来たオーディンを思い出したに違いない。随分癖の強い魔導士に、レオンもゼロも苦い思いをしている。
 マークスの新しい臣下──ぎくりと不自然に強張った身体を無理やり動かして、はレオンのあとに続く。ちら、とジョーカーが一瞥をくれたような気がして、ますます身が強張る。

「初めまして、カムイ様。僕はラズワルド」

 にこにこと笑うラズワルドを直視できずに、は足元に視線を落とす。幸い、ラズワルドがこちらに気づいた様子はないので、は隠れるように給仕に専念した。腕が立つというラズワルドとカムイの手合わせが始まり、こちらに意識が向くことはないだろうとは気をゆるめた。
 対して、珍しくジョーカーの気がそぞろで、手元が覚束ない。カムイが怪我の一つでも負ってしまわないかと気が気でないのだろう。

「執事長、こちらはわたしに任せていただいても……」
「はあ?」
「す、すみません。あの、カムイ様がご心配なら、お傍にいらっしゃったほうがよろしいかと思っただけです」

 ジョーカーが眉間に皺を刻んで、を振り返る。
 後方で、何かが割れる音が聞こえる。びく、とは肩を跳ねたが、ジョーカーはといえば眉間の皺をより一層深くしただけだ。

「余計な気遣いはいらん。フェリシアがいる限り、手はいくらあっても足りないくらいだ」

 城塞にはジョーカーに加え、二人もメイドがいるというのに、いつも忙しない。不思議としか言いようがないが、フェリシアの不器用さは仕事を増やしていくばかりだという。

「わかったら手を動かせ」
「は、はい」
「……だが、まあ、有難くはある。気持ちだけは受け取ってやる」

 思わぬ言葉に手が止まってしまい、は叱責を受ける前に慌てて指先を動かす。胸が詰まって、すぐには言葉が出てこなかった。

「……し、執事長、」

 緊張のあまり、声は掠れて上擦る。動かす手はそのままに、ジョーカーが顔を上げた。

「あ、あの……その、一つお願いしても、よろしいですか?」
「……なんだ」

 ジョーカーが怪訝そうに眉をひそめる。
 はぎゅっとエプロンを握りしめ意を決し、俯きがちだった顔を上げてジョーカーを見つめる。

「あ、頭を、撫でてもらえませんか」

 ジョーカーが手を止める。呆れたようにため息を一つ吐いて、その手がの頭を軽く叩いた。

「寝ぼけたこと言ってないで、手を動かせ」
「は、はい!」

 撫でる、とは少し違っていたが、はジョーカーが触れたところを手で押さえた。思わず、口元がにやける。こんなふうに触れ合えるだけでも、十分に胸が満たされる自分は、とんだ幸せ者である。
 いつの間にか手が止まってしまっていたようで、ジョーカーの指が強めにの額を小突いた。
 その痛みすらもが愛おしくて、ふふ、と笑い声が漏れた。

星喰の暗い朝に

(暗くても、もう夜は明けました)