(拍手お礼SS「やさしさひとつまみ」続き)


















 足が地面に縫い付けられたように動かなかった。
 姿が見えなくなってしまったレオンをようやく見つけて安堵したのも束の間、はまた別の意味で泣きそうになっていた。盗み聞きのような真似をしてしまって、万が一これがバレたらどのような叱責を受けるのか想像するだけで身が竦んで震えあがる。
 有能で切れ者。同じ使用人として尊敬している。お前がいると心強い。
 決して褒めたわけではないとジョーカーは言ったが、それらは確かに称賛に値する言葉であり、に向けられることは決してないだろう。つい先刻、主を見失ってめそめそする姿を見せてしまったばかりである。

 は己の至らなさに恥ずかしさを覚える。そして、その言葉をもらったフローラに対して、羨望の気持ちが芽生えてしまう。彼女と自分は比にならない。それはわかっている。
 そして、フローラのジョーカーに対する態度は──
 ぽん、とふいに肩を叩かれて、は飛び上がる。寸でのところで悲鳴を飲み込んで、は口元を両手で押さえて背後を振り返った。弓なり細められた隻眼が、ひどく近い位置でを見下ろす。

 しー、と浅黒い人差し指が、唇の前にたてられる。そして、ゼロがと同じように身を潜めながら、ジョーカーを見やる。ふと、ジョーカーが深いため息を吐いた。

「もう……俺はだめだ……この世の終わりだ……死んだほうがましだ…………」

 思わず、はゼロと顔を見合わせる。これほどまでに落ち込むジョーカーを、はかつて見たことがない。心配に顔を曇らせるに反して、ゼロがにやついた笑みを浮かべる。

「あいつをここまで苦しめるとは。さすがにナニがあったか気になるな」

 言うが否や、ゼロが気安くジョーカーに声をかける。
 は物陰からそっと様子を窺うが、二人のやりとりに次第に顔を青ざめていった。

 カムイのために買ったという紅茶を人質に、ジョーカーがゼロに弄ばれている。

「やめてください! お願いします……」

 ジョーカーの焦った声が聞こえて、は耐えきれずに飛び出した。そして、ゼロの手から紅茶を奪い取って、ジョーカーに手渡す。は怒りに震えながら、ゼロを睨み付けた。

「ゼロ……執事長にこんな真似して、許さない!」
「おいおい、ちょっとした冗談だろう? ナニも本気で紅茶を燃やそうだなんて、考えちゃいないさ」

 ゼロが肩を竦めるが、は暗器を手に取った。

? おい、まさか……」

 ゼロの余裕の笑みが引きつる。「目がイっちまってるな」と、素早く身を翻したゼロの外套を、の放った暗器が切り裂いた。

「ふっ。そんなに顔を真っ赤にして……悪くないが、痛めつけられるのは趣味じゃない」

 じゃあな、とゼロが素早く退散する。威嚇のために暗器を構えるが、「もういい」とジョーカーに手首を取られる。

「すみません、執事長。ゼロには絶対に謝罪させます」
、てめぇいつから見ていた」
「えっ」

 呆けた声を上げてから、ははっとして身を強張らせた。その反応で大方理解したのだろう、ジョーカーが綺麗に微笑む。その額には青筋が浮かんでいる。
 ジョーカーの籠手越しの指が、の顎を掴む。

「盗み聞きとは、随分いい趣味を持っているな?」

 ジョーカーから称賛されるなんて、には夢のまた夢だ。




 はあ、と自然とため息が漏れた。カボチャをかぶったノスフェラトゥを倒して、暗夜祭は再開された。用意された可愛らしいうさ耳の仮装を着てみても、全然気分が晴れない。
 皆、思い思いに祭りを楽しんでいる。レオンの楽しそうな横顔を見ながら、はそっとため息をこぼす。
 ぴょんと跳ねるうさ耳を、横から伸びた指がつまむ。

「おや、可愛いウサギちゃんはご機嫌斜めのようだな」

 にやにやと笑うゼロの頭には小さな角がついている。ちら、とそれを一瞥して、はすぐに顔を背けた。しかし、ゼロの指はから離れずに、今度は顎先に触れた。

「赤くなってるな。ジョーカーにお仕置きされたか?」
「……ほっといてよ」

 はゼロの手を振り払って、ぷいとそっぽを向く。ゼロがわざとらしく肩をすくめて見せる。

はジョーカーのことが苦手なんだとばかり思っていたが、意外とアツい想いをそのふくよかな胸に抱いていたのか」

 ふくよかな胸、と言われて、は自然と胸元を手で隠した。「今度ジョーカー様に失礼なことしたら、本当に許さないから」と、はきつくゼロを睨んだ。

「はいはい」
「ちゃんと謝って」
「はいはい」
「ゼロ!」
「わかってるって。それより、お前こそ謝って許してもらったのか?」

 う、とは言葉を詰まらせる。
 ゼロの指がやたらといやらしい動きで、うさ耳の縁をなぞって、ぴんと弾く。ゼロの唇がの耳朶に触れた。「ほぅら、ジョーカーとイイコトして来いよ」ふっと息を吹き込まれて、は小さな悲鳴とともにゼロから素早く距離を取った。
 よろめいたの身体を支えたのは、怪物の仮装姿のジョーカーだった。首に太い螺子のようなものが突き刺さっていて、は思わず悲鳴を上げる。

「ジョーカー様、」
「なんだ、この姿が恐ろしいのか?」
「い、いえ、あの」

 はジョーカーを上から下まで見やって「随分、本格的な仮装ですね」と、感想を述べた。

「当然だ。カムイ様を楽しませるためだ」

 成程と納得するとともに、はただ衣装を着ただけの自分が恥ずかしくなる。そんな心持ちで仮装をしていなかった。は頭上のうさ耳を両手で押さえつけた。

「……わたしは、なんて至らない使用人なんでしょう……」

 そのままは地面にうずくまり、小さくなる。穴があったら入りたい。
 はあ、とジョーカーのため息が降ってくる。

「お前が至らないことなんてわかりきっている。落ち込む必要はない」
「……心が抉られます」

 じわ、と涙がにじむ。
 だって、だって、フローラさんは、
 羨ましい気持ちが、胸の内で悲鳴を上げている。はうさぎの耳を押さえ付けながら、これが本物の耳で言葉が聞こえなくなってしまえばいいと思った。ジョーカーの辛辣な言葉はいつものことだが、いまはひどく辛い。

「死んだほうがましなのは、わたしのほうです……」

 ジョーカーとイイコト、なんて、冗談にもならない。思わずゼロを恨む。

「だったら、一生そこで縮こまってろ」

 顔を上げられないまま、はじっとジョーカーのつま先を見つめる。しかし、いつまでたってもそこにあり続けるジョーカーの靴に不思議に思って、は恐る恐る顔を上げた。
 縫い目の化粧を施したジョーカーの顔が、近くに迫る。

「……真っ赤な眼をして、本当に兎のようだな」

 ジョーカーの指が、目尻を拭う。籠手をしていない素手の感触だ。

「ゼロから紅茶を取り戻してくれたことには感謝してる」
「……」
「カムイ様のための茶葉だが、特別に……そうだな、一度くらいお前に飲ませてやってもいい」

 は瞳を瞬く。ぽろりと落ちた涙を、ジョーカーの指が拭った。「執事長がやさしい」と呟いても、額を小突かれることはなかった。

「……たまには優しくしてやらないと、愛想をつかされるかもしれんからな」

 ふ、とジョーカーが笑みをこぼした。「そんなことあり得ません」と答えたの顔は、真っ赤だった。恥ずかしさで俯いた顔を、顎を掴む指で無理やり視線を合わせられる。
 称賛なんて、いらないかもしれなかった。

やさしさ大さじ一杯

(罵倒でもなんでも、声をかけてくれるだけで、)