ちっ、と舌打ちをひとつ。
 喜色にまみれていた顔が、途端に色を失っていくのがわかった。「執事長、」と震える声が、ひどく頼りなくぽつりと落ちる。これのどこが英雄だというのだろう。もっと英雄と呼ぶにふさわしい人物は、数多といるはずだ。
 もっとも、それはジョーカーにも言えることかもしれなかった。ただの執事とメイドが、英雄として異世界に召喚されるなどとは、場違い甚だしい。

「カムイ様はいらっしゃらないのか」

 ため息交じりに問えば、がびくりと肩を揺らして「はい」と頷く。ジョーカーを見つめる瞳は不安に満ちている。しかし、なにかを期待するようにじっと見つめられ、ジョーカーは眉をひそめた。

「なんだ」
「……あの、……ジョーカー様…………」
「だから、なんだ?」

 がさっと視線を逸らす。言うか言わまいか迷うように唇が震えて、結ばれる。

「言いたいことがあるならさっさと言え」

 ぎゅう、とがエプロンを握りしめる。「執事長が、来てくださって、うれしいです」言葉の割りには、あまり明るい顔をしていなかった。むしろ、泣きそうになっているようだった。
 ジョーカーはため息をこぼす。

「情けない面をするな」
「……はい」

 がうつむく。ぽろ、と涙が落ちたのが見えて、ジョーカーは思わず息を呑んだ。

?」
「……あ、は、はい」
「…………」

 一拍遅れて顔を上げたその瞳に涙はない。しかし、睫毛はしっとりと水分を含んでいるようだ。かけるべき優しい言葉など、ジョーカーは持ち合わせていない。
 不安が払拭されたようには見えなかったが、それ以上なにかを言うこともないとジョーカーは踵を返す。
 が立ち尽くしているのはわかっていた。ジョーカーは一瞥するだけで、彼女の名を呼ぶことも、手を引くこともしなかった。レオンがいなければカムイもいない、この異世界でがどう過ごしてきたかなど、ジョーカーには興味のないことだ。




 妙に馴れ馴れしかったり、かと思えば余所余所しかったり、の態度は可笑しいところが多々あった。その理由に気がついたのは、主たるカムイが召喚された際だった。「カムイ様じゃない」とが震える声で呟いた。
 随分と寝ぼけたことを抜かす。ちっ、とジョーカーは鋭く舌打ちする。

「……カムイ、様……なのですか?」

 の問いかけにカムイが瞳を瞬いた。


「やっぱり……」

 が力なく首を振る。「ジョーカー様は」と、その消え入りそうな声はそこで途切れる。
 ジョーカーもまた「そうか」と小さく呟く。多くの異界が存在するということは、似て非なる世界があったとしても不思議ではない。そして、恐らくそこでの己は──ジョーカーはを見やった。
 狼狽えながらも、が腰を折った。

「……カムイ様。わたしはあなたの知るとは、恐らく違います」
「え? でも……」
「わたしの知っているカムイ様は、レオン様の姉君でいらっしゃいます」
「……ええっ! そ、そうなの?」

 不思議だね、とそれほど気にした様子もなくカムイが呟いた。







 そうして、彼女はいなくなった。召喚士の力で元の世界に帰ったのだ。帰れるのなら、カムイともども帰してもらいたいところだが、エクラが首を横に振るのでジョーカーはまだここに留まっている。主と共にいられるのなら構わないし、カムイ本人がこの状況を受け入れているのだから従うまでだ。

 ふとした瞬間、ジョーカーはのことを思い出す。
 泣きそうな顔。触れようとして、届かなかった手。ふいに見せた甘えと、自制して堪える姿。
 なにも言わなかったのではなく、言えなかったのだろうか。の気持ちはとうに気づいている。彼女と共に過ごした己は、きっとその気持ちに応えていた。

「……うぜぇな」

 なにがあったのか、推し量ることもできない。それなのに、ジョーカーの胸の内にしこりを残していった。ジョーカーの心を占めるのはカムイひとりで構わないのに、そこに入り込んでくる。
 ジョーカーはひとつ、舌打ちをした。

「ん?」

 召喚を行っていたはずのエクラが、ひどく慌てた様子で走ってくる。運動神経が悪いのか、ローブが重すぎるのかもたついた動きだ。

が!」


 ぽつりと立っているが振り向く。「執事長?」不思議そうな顔と声に、ジョーカーは怪訝に眉をひそめる。

「あの、一体……ここは……」
「……てめえ、か」
「え? も、もちろんです」
「カムイ様は暗夜王国第二王子であらせられるな」

 がきょとんと瞳を瞬く。

「はい、もちろんです」

 そうか、と頷いたジョーカーはを抱きしめた。の身体は緊張と驚きで硬直している。「し、執事長!? どうされた……んぎゅ」ぐっと腕の力を強めれば、カエルがつぶれたような声がする。

「黙れ」

 ──帰りたい、と泣いた彼女ではない。
 そのことにひどく安堵したということを、ジョーカーは認めざるを得ない。

「……やっと会えた」

 逢いたいと焦がれていたのは自分も、ということも。

アイム、ノット、ロンリー

(あなたさえいればこそ)