「どうした」
ジョーカーの声にはっとして、は握りしめる杖を慌てて掲げた。はジョーカーの姿をまともに見ていれなくて視線を逸らしたまま、彼の傷がすっかり癒えたことを確認する。
ほっと息を吐いたと同時に、ぐいと顎を掴まれる。
「どうした、と聞いている」
「あ……、そ、その…………」
ジョーカーに顔を覗き込まれてなお、目を合わせることができなくて、は視線を彷徨わせる。そうすると、今しがた傷のあった部分の肌が露出しているのが目に入ってきて、ますますはどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
この世界における自分たちは、チェスの駒のようなものだ。
戦いは熾烈を極める。英雄として召喚された自分たちはいくら傷ついても死ぬことはない。だからというわけではないが、時にはぼろ雑巾のように手酷くやられてしまうこともある。
元々前線で戦うのは得意ではないのだから、なおさら。
しかし、召喚士であるエクラがその“駒”がやられてしまう度に心を痛めていることを知っているからこそ、無関係というほかないこの戦いにたちは協力しているのだ。
「──し、執事長、服が」
ジョーカーが軽く瞠目する。
はその反応を見て、ひどく居たたまれなくなる。かあっ、と頬が熱を持つのがわかった。
「す、すみません……」
「くだらねぇ」
「っひ……は、はい……」
はうつむきながら、ジョーカーの剥き出しになった肌を見ないようにした。「はあ…くだらねぇ戦いだな」と、ジョーカーが低く呟きながら手の内で暗器をくるりと弄ぶ。
ここには。
──カムイも、レオンもいない。
は顔を上げた。ジョーカーにとって、それは生きる意味を失ったようなものではないのだろうか。
視線に気づいたジョーカーが、眉をひそめる。
「……確かに、カムイ様の前ではこんなみっともない姿は見せられんな」
ふむ、とジョーカーが手を顎に当てる。「いや、カムイ様がここに呼ばれてしまうほうが問題か」彼の思考が主に支配されるのを、は寂しくも安堵する。
ここでは、暗器よりも杖を握る手であってよかった。
そして、
「執事長がいてくれてよかった……」
主であるレオンには悪いけれど、そう思わずにはいられない。
「ほらそこ、イチャイチャしない! 戻るわよー!」
「……えっ」
「…………」
アンナの声が飛んできて、とジョーカーは顔を見合わせる。にこり、とジョーカーが微笑んだ。は反射的に身を竦めた。
「勘違いもここまでくると、いっそ清々しいな」
そっけない一瞥をくれて、さっさと歩きだすジョーカーの背を見ながら、は視線を地面へと落とした。薄々気がついてはいるのだ。ただ、それを認めるのが怖い。
「……ジョーカー様、……」
──あなたは、わたしの手を握ってくれない。
目の前にある背中が急速に遠ざかっていく気がした。そして、召喚されてからはじめてジョーカーを見つけたときの安堵感と絶望感がよみがえってくる。
カムイに忠実な執事である彼は確かにジョーカーであるのに、の知っているジョーカーではないのかもしれなかった。
「おい、さっさと歩け」
にべもなく言い放たれ、はうつむいたまま「はい」と答えた。
「カムイ様」
恭しく腰を折ったジョーカーを見て、はようやく自分の知る彼とはちがうのだと確信した。何故なら、新たに召喚されたというカムイの姿は、には全く見覚えのないものだったのにジョーカーが当然のように声をかけたからだ。
銀の髪、緋色の瞳──は“彼”を知らない。
「ジョーカー。も」
聞いたことのない声だった。呆然とするに気づいて、ジョーカーが舌打ちする。
はびくりと肩を揺らして後ずさった。ちがう、と叫び出したい衝動を抑えて、は震える唇を無理やり動かす。
「……カムイ、様……なのですか?」
の知るカムイは、レオンの“姉”であった。
「エクラ様」
フードを深くかぶった顔が、振り向く。
「わたしを、元の世界に、帰してください……」
気がついたら、は召喚士に泣いて縋っていた。エクラの困惑する気配を感じても、顔があげられなくて、はぎゅっとローブを握りしめる。
──ここには、誰もいない。
「ジョーカー様に逢いたい……」
その思いばかりが募って、どうしようもない。