「クロードくん、一体何したの?」

 ヒルダが胡乱な目をクロードに向けてくる。「はてさて、何のことやら」と、戯けてみたものの、ヒルダはにこりともしないどころか眉をひそめてクロードを睨みつける。

ちゃんに決まってるでしょ? クロードくんのこと、露骨に避けまくりじゃない」
「ああ、あれなぁ……さすがの俺も傷つくよ」

 クロードは肩を竦めた。
 「嘘っぽいなー」と、ヒルダがあっけらかんと言って視線を外す。それ以上、責め立てるつもりはないようだった。
 これ幸いと、クロードはさっさとヒルダと別れることにした。普段はやる気のないふりをしているヒルダだが、兄の名に恥じぬ実力を有しているとクロードは踏んでいる。万が一、とのやりとりが露見しては堪らない。

 教室を出たクロードは、どこに行こうかとゆったりとした足取りで歩く。書庫で調べ物の続きか、自室に戻って調合に勤しむのも悪くない。
 しかし、やはりの態度が気にかかってどれも集中できそうにない。

「ふむ……」

 気になることをそのままにしておくのは、クロードの性に合わない。


 珍しく、はひとりだった。
 ガルグ=マクをあちこち探しても見つからず、諦めて敷地外へ散策に出たところに、その姿はあった。おや、と思ったのは、が弓を手にしていたからだ。
 背筋を伸ばして弓を引き絞る姿は、なかなか様になっている。

 ふいに、クロードは先日触れた手の感触を思い出す。左手の親指の付け根──矢枕を怪我していた。弓を始めたばかりの初心者がやりがちな手癖による負傷だろう。
 スパン、と小気味良い音を立てて、の放った矢は木の幹に突き刺さった。

「お見事!」

 パチパチと手を叩きながら、クロードはに近寄っていく。が振り向きもせずに弓を下ろすと、帰り支度を始めた。落ちた矢を拾って矢筒に戻していく。
 クロードは慌ててその背を追いかけた。

「待ってくれ、

 幹に刺さった矢にかけた手を掴む。ようやくがクロードを見上げ、視線が合った。
 けれどもすぐに顔を伏せて「いやです」と、逃げるそぶりを見せる。

「おっと」

 クロードは掴んだ手をそのままに、片手を幹に付いて身を寄せ、行く手を阻む。の顔は俯いたまま、つま先を見つめている。

「これでも悪かったと思ってるんだ。顔を見て、謝らせてくれないか?」

 返事はなかった。しかし、おもむろにの顔が持ち上がって、躊躇いがちに瞳にクロードを映す。
 いつも真っ直ぐ過ぎるほどの視線を向けていたくせに、猫を剥いだはまともに目も合わせてくれやしない。クロードは苦笑を漏らす。

「心配しなくても、取って食ったりしないさ」
「そんなふうには……」


 視線が落ちるのを、名を呼ぶことで防ぐ。クロードを見つめる瞳が揺らぐ。

「不躾な真似をして悪かった。すまない、この通りだ」

 クロードは一度距離を取り、頭を下げる。小さく息を呑んだが、慌ててクロードの肩を掴んだ。

「やめてください! クロードさんが謝ることなんて、ありません」
「失礼なことを言った。それに、泣かせちまっただろ」
「そんなこと……クロードさんが気に病むことじゃありません」

 が力なくかぶりを振る。肩から離れていく手を掴み、クロードは俯いたの顔を下から覗き込んだ。の視線はクロードを見ようとしない。
 ぎゅっと瞑られた瞳の目尻に、涙が滲んでいた。クロードはの左手の甲側、親指の根元に指を這わせる。以前触れたときと変わらずに、擦り傷を負っている。痛みのせいか、他の理由か、の身体が途端に強張る。

「弓はいつから始めたんだ?」

 士官学校の生徒である以上、戦いと無縁ではいられない。とはいえ、極力戦わない選択も不可能ではない。
 が得意としているのは白魔法のはずだ。

「嫁入り前の身体に傷なんて作ったら、“お母様”がお冠だろ?」
「……っ、」

 クロードはの手を口元に持っていき、じわりと血の滲む傷口をぺろりと舐める。弾かれたように、が顔を上げる。

「な、にして……」
「ん? 消毒」
「や、やめっ……クロードさん、やめてくださいっ」

 の声は悲鳴交じりで、ほとんど泣いていた。そして、クロードの手を振り解こうと暴れる。
 ぱっと何の前触れもなく解放された身体が、勢い余ってクロードのほうへと倒れ込んでくる。クロードはを受け止め、そのまま腕の中に閉じ込めてしまう。

「やっぱり、俺は今のお前のほうが好きだよ」

 クロードを押し返そうとしていたが、大人しくなる。

「泣いたり怒ったり、それが自然ってもんさ。俺はお前の、大口開けて笑う顔が見たいね」

 おもむろに、が顔を上げた。

「……クロードさんは変わってます」

 涙を残した目尻をやわらかく細めて、ふにゃりと笑う。いつもの綺麗すぎる微笑よりもずっと好ましい。

「そうか? 俺だけじゃなくヒルダや先生だって、本当のお前を気にいると思うぞ?」
「そう、かな……でも、あなたがそう言ってくれるなら、すこしだけ自分を好きになれそうです」
「そいつはよかった。ついでに、俺のことも好きになってくれるといいんだが」

 クロードはの目尻をやさしく拭い、片目をぱちりと瞑ってみせる。


「……もう、十分すきです」


 がぽつりと告げた。
 クロードとしたことが、すぐには反応できなかった。慌てふためく顔が見れるかと思ったのだが──
 頬に熱が集まるのがわかって、クロードは思わず顔を背けた。

「弓を射るときの眼差しを、わたしにも向けてほしいと思いました。わたしが弓矢を始めたのは、あなたのようになりたくて、あなたに近づきたくて」
「……ちょっと、待ってくれ」

 クロードは手のひらをに向け、言葉を遮った。

 揶揄っているのかと思うがクロードじゃあるまいし、何より顔は真剣そのもので、かつ耳まで真っ赤だ。下唇を噛み締めて、わずかに潤んだ瞳をクロードに向けている。
 紛れもないの本心である、とクロードは判断して、尚更らしくもなく狼狽した。

「ごめんなさ」
「謝るな。前言撤回してくれるなよ?」
「でも、」
「だったら、こっちから行くまでだ。やられっぱなしは性に合わないんでね」

 不安げに見上げるをじっと見つめる。頬の熱が引く気配はなかったが、仕方あるまい。

「好きだ。勿論、そのままのが好きだ」

 クロードは背を屈めて、こつりと額を合わせた。が恥ずかしそうに目を伏せる。
 視界がぼやける距離で、クロードはその様を見つめた。
 
「今度は冗談なしに、お前のお眼鏡に適うといいんだが……」

 ふ、とが小さく笑う。「すぐに茶化すんだから」と、笑いを含んだ声が文句を言う。

「でも、十分うれしいです」

 がはにかむ。
 クロードはを抱きしめ、無意識のうちに力んでいた肩の力を抜いた。の手がそろりと背中に回される。
 石鹸と汗のにおいが、首筋から香る。ちゅ、と悪戯心に口付ければ、が慌てて身体を離す。真っ赤な顔と涙目が、クロードを責めるように見る。

「取って食ったりしないって……!」
「うん? ちょっと唇が触れただけだろ、何を想像したんだ?」

 の慌てっぷりに余裕を取り戻し、クロードはにやりと笑った。かあっ、と更に顔を紅潮させて、がふいっとそっぽを向いた。
 まだもう少しだけ、の本性を知るのは自分だけでいてほしい。そう思いながら、クロードはの頬へ唇を寄せた。

(懸命に被った猫も、あなたの前では意味がない)