くだらない話をしていたヒルダが、ふいに「あっ」と声を上げた。クロードはヒルダの視線の先を追って、目を細めた。もはや見慣れた光景なので、クロードは特に何かを思うこともないのだが、ヒルダのほうは不満げに唇を尖らせる。

「も~またぁ? ちゃんってば……」
「べつに好きにさせてやったらどうだ? 悪い男に騙された、なんて話は聞かないしな」
「うーん、それもそうなんだけど……なぁんかほっとけないのよね」

 ヒルダが自身も不可解そうに小首を傾げる。二つに括られた桃色の髪が、ぴょこんと動きに合わせて揺れた。

「ふーん……」

 異性と同性では、感じ方も違うのだろう。
 いつものようにお茶や食事にでも誘われて、ホイホイついていくのだと思ったが、クロードの予想に反してが逃げるようにこちらに向かってくる。「残念、また今度!」と、シルヴァンがかける声にも珍しく愛想笑いを返すのみだ。

 心なし、の表情がいつもより硬い。クロードはの肩越しに、シルヴァンに視線を向ける。ひらひらと手を振っていたが、すぐに他の女生徒に声をかけている。不誠実と軽薄を着たような男である。

「珍しい~シルヴァンくんは、ちゃんのお眼鏡に適わなかった?」

 ヒルダが目を丸くする。顔を覗き込まれたが、困ったように眉尻を下げて微笑む。口元に添えた指先が、ひどくたおやかだ。
 の顔立ちはヒルダと比べると華やかさに欠けるが、楚々とした雰囲気がある。貴族然とした上品な仕草や丁寧な言葉遣いは、ローレンツのような貴族の子息に好まれ、学級の垣根を越えて引く手数多だ。

「おいおい、相手はあのゴーティエの次期当主だぞ?」
「そうは言っても、シルヴァンくんだもん。ちょっと軽すぎるのよね~」
「軽い、ねえ……」

 相手の好意を知りながら、八方美人の如く誰でも受け入れるもまた、軽薄みたいなものだとクロードは思う。

「先生との先約がありますので、お断りさせていただいたんです」

 なーんだ、とヒルダがつまんなそうに呟く。けれど、その瞳はあきらかに安堵の色をしていて、クロードは気づかれないように小さく笑った。
 が丁寧にお辞儀をして「それでは、失礼いたします」と、去っていく。
 ふわっとの髪がなびくと同時に、石鹸のような香りが鼻をかすめた。香水はつけていないらしい、とクロードの脳にの情報が刻まれる。

「あっ、先生。ちゃんならさっきまでここに居ましたよ~」

 ヒルダがべレスに向かって手を振るが、不思議そうに瞳が瞬かれるばかりだった。




 西日の差し込む教室には、の姿しかなかった。自分の席について目を伏せたが、戸口に立つクロードに気づく様子はない。
 クロードは隣の椅子を引いて、腰を下ろした。

「クロードさん」

 どうやら手紙を読んでいたらしく、クロードの目に触れぬように素早く仕舞われる。慌てる様子はなかった。

「いやぁ、この前はすっかり騙されたよ」
「なんのことですか?」
「ほら、シルヴァンの誘いを断ってただろ? まさか、お前が先生を出しに使うとはなあ」

 クロードはじっとを見つめるが、怪訝そうな顔に緊張や焦りが走ることはなかった。
 納得したとばかりに頷いて「そんなこともありましたね」と、が穏やかに笑う。クロードが予想する以上に、したたかなのかもしれない。

 クロードは頬杖をついて、無遠慮にを観察する。
 痛みのない綺麗な髪、薄く化粧の施された顔、よく磨かれた爪──座り姿ひとつとっても、絵になりそうなくらいだ。が見つめ返してくるので、クロードは目を細めて口角を上げた。

「なあ、。お前がみんなに何て呼ばれているか知ってるか?」
「皆様に?」

 が驚いたように目を瞠って、唇に指を添える。

「深窓の令嬢……の、皮を被った女狐」

 みんなとは言ったが、一部の女子の間だけである。それも、多くは妬み嫉みからくるものだ。

 まあ、とが小さく呟く。傷ついたふうでも、怒ったふうでもない。
 あまり期待した反応が得られずに、クロードはため息をこぼす。

「なんだかな……これだけ手応えがないと、肩透かしを喰らった気分だ」
「……」
「まあいい。話を続けよう」

 が申し訳なさそうに顔を曇らせるので、開かれた口から謝罪が飛び出す前に、クロードは慌てて告げる。が唇を結んだ。

「俺には女狐じゃなく、猫に見える。そう、猫被りだ……なあ、お前の本性を見せてくれよ」

 クロードはにやりと笑って、の瞳を覗き込んだ。感情の機微を見逃すまいと思ったが、の瞳はゆっくりと瞬きをしてクロードを映すだけだ。
 もっと揺さぶりをかけるべきか。
 手紙を押さえたまま机に置かれたの手を包み込む。ぴくり、と指先が跳ねた。

「リーガン家の跡継ぎに興味は?」
「クロードさんは、わたしにご興味がおありですか?」
「ああ、お前の猫を引っぺがしてやりたいよ」

 が小さく息を吐いて、瞳を伏せた。が視線を外したのは、目を合わせてから初めてのことだった。

「わたしの、本性なんて、つまらないですよ」

 そう笑った顔は、泣きそうだった。


 いつも気持ちがいいくらいに伸びていた背筋がすこしだけ丸まって、ぴたりと閉じていた足が崩れる。わずかに俯いた顔は、どこか自信なさげに見えた。

「……おいおい、それが本性か? 待ってくれ、なあ、俺が思っていたのと全然違うんだが」

 清純を装い、虎視眈々と結婚相手を物色しているのだとばかり思っていたのだが、目の前にいるのは狐でも猫でもない、震える小動物のようだった。
 途端に、ひどく悪いことをしているような気分になって、クロードは額に手を当てて天を仰いだ。違うのだ、これは本意では──いや、意地の悪い言葉をぶつけたのは変えようのない事実である。だからこそ、胸が痛んで仕方がない。

「ごめんなさい。やっぱり、がっかりしますよね」
「いや、そうじゃなくてだな……予想が外れて、正直驚いてる」

 が吹き出すように小さく笑った。猫を被っていたときには、決してしなかった笑い方だ。よく言えば庶民的で、悪く言えば品のない仕草だったが、クロードには好ましく思えた。

「へえ? そういう笑い方もできるんだな」

 がはっとして口元を押さえる。クロードはその手を退かすと、机に縫い付けた。丸められた手紙が机の端に転がっていく。辛うじて落ちなかったそれを、の視線が無感動に追いかけた。
 クロードは意識を自分に向けるため、指を絡めてみる。が顔を上げた。

「それで、俺はのお眼鏡に適うかな?」
「やめてください。わたしなんか、畏れ多いにも程があります」
「シルヴァンも同じ理由か」

 小さく息を飲んだが、ゆっくりとかぶりを振った。

「……あの方の、幼馴染だから」

 痛みを堪えるような顔をして、震える声が告げた。
 シルヴァンの幼馴染みと言えば、ディミトリとフェリクス、そしてイングリットである。クロードは視線だけで先を促す。の瞳が不安げに揺れて、開かれた唇からはすぐに言葉は出てこなかった。

「フェリクス=ユーゴ=フラルダリウス」

 囁くように小さな声だった。

「わたしの、婚約者だった方です」
「だった? いや……そういえば、お前は王国出身だったか」

 金鹿の学級に身を置いているが、ヒルダから聞いた話では数年前に同盟領に来たばかりだと言う。詳しい事情は知らないが、王国貴族の父を亡くして、母親の生家に身を寄せたはずだとクロードは思い出す。
 が頷いた。そして、ぎゅっと絡まった指先に力を込める。

「一方的に婚約を破棄されて、理由を聞いてもロドリグ様は倅が至らないばかりに申し訳ないとしか仰ってくださらないばかりか、フェリクス様は会うことすらしてくださらない」

 フェリクスに婚約者がいたことも驚いたが、あまりの身勝手さに言葉が出ない。「笑ってください」と、が力なく言った。

「……笑い話に、したいんですけどね」

 吐息のように笑うので、クロードは腹が立った。「馬鹿言え」苛立ちながら、馬鹿は自分自身だと自責する。をこんなふうに笑わせたのは、クロードだ。
 が睫毛を伏せて、視線を落とす。

「わたし自身もすごく落ち込んだんですが、あのフラルダリウスですから、家族の落胆も大きくて。だから、わたしは猫を被ってでも、貴族の方に見初められなければならないんです」
「……やめろよ、そんなこと。俺は、今目の前にいるお前のほうが、ずっと好きだ」

 の視線は下を向いたままだ。

「わたしは嫌いです! こんなわたしは、誰にも好かれない!」

 が声を荒げるのは、クロードの知る限り初めてである。呆気にとられるクロードを涙目で睨みつけると、が繋がった指を乱暴に解いて立ち上がる。
 机から転がり落ちた手紙を、の足が踏み潰した。

「お母様の言いなりで、フェリクス様がいると知っても話しかける勇気もなくて、みんなと上辺だけの付き合いしかできなくて」

 ぎゅっとが目を瞑る。涙が弾けるように落ちた。

「大っ嫌い」

 踏みつけた手紙をそのままに、が教室を走り去る。追いかけようと腰を浮かしてしかし、クロードはため息と共に椅子に戻る。

「何やってんだ、俺は」

 ぐしゃぐしゃになった手紙を拾い上げる。ふと目を落とした先に見つけた一文に、クロードは顔をしかめた。

 ガルグ=マクで素敵な出会いがあるように願っています。
 それは、何のための願いなのだろう。クロードは、深いため息を吐いて机に突っ伏した。