長いローブが足に絡みつくようだった。ぜいぜいと息が切れて、日ごろの運動不足や体力のなさを自覚せざるを得ない。分厚い戦術書がずしりと重く感じるが、は力を振り絞ってそれを頭上へと持ち上げる。
に気づいたウィルが「さん?」と不思議そうに首を傾げた。
なんて迂闊な。
呑気で緊張感のない顔でを見つめるウィルの背後に、敵兵が迫っている。どうかノーコンじゃありませんように、と祈りながらは大きく振りかぶった。それなりの重量があったことが幸いして、それはそこそこの勢いで敵兵にぶつかる。
は息つく間もなく、右手を高く掲げた。そろそろラスが射程範囲に来るだろう。想定した通り、怯んだ敵兵に向かって弓矢が真っすぐ射られる。
「へ?」
ウィルがきょとんと呆けている。
万が一、こういったことがないように、ウィルをラスと組ませていたのに──すこし距離を開けすぎてしまったし、アーチャーに敵兵をここまで近づけさせてしまった。
敵兵が地に伏してようやく、は大きく息を吐いた。「よかった……」と、呟く声は掠れていた。
「わっ! えっ、いつの間に……」
ウィルが今さらながら慌てた声を上げる。そうして、足元に転がっていた戦術書を拾い上げる。
「いやあ、まさかさんに助けられるなんて」
「……」
「っていうか、これも案外武器になるんですね! なんつって……」
ウィルが軽口を叩きながら、戦術書を差し出してくる。窺うような視線を受けて、は思わずため息を吐いた。それを怒りと捉えたのか、ウィルが焦った顔をする。
キアラン騎士となっても変わらない。それはをほっとさせると同時に、肝を冷やさせる。
陽気で抜けていて、憎めない。
アーチャーとしての腕は申し分がない。それは“リンディス傭兵団”の頃からよく知っている。遠距離武器の使い手として重宝してきた。けれど、いまいち気配を読む能力に欠ける。
「さん、大丈夫? めっちゃ息切れてるけど」
言われなくてもわかっている。土に汚れた背表紙を叩きながら、はようやく息を整える。
「えーと、ありがとう、さん。でも、こんなの危ないよ」
「わかってます」
はぎゅっと戦術書を腕に抱える。
そうだ。それも言われなくてもわかっている。軍師である自分がするような真似ではなかった。それでも、胸の内が軋んで、身体は動く──
ぞっとした感覚がよみがえって、背筋が冷たくなる。震える肩にウィルの手が触れた。
「さん?」
ウィルが顔を覗き込んでくる。「泣いてるの?」けれど、瞳は乾いたまま、ウィルを見つめ返した。
「指示を」
いやに冷静な声が落ちて、はびくっと肩を揺らした。近づく馬の蹄音に遅れて気がつく。いつの間にか、ラスが傍まで来ていたようだ。
「あ、ラスさん! 助かりましたっ」
「……礼はいい」
ウィルの手が離れていく。
はふう、と息を吐いて心を落ち着かせる。冷静になれ。自分は軍師だ。目を閉じて、何度も言い聞かせる。そして、は前を見据えた。
ひょい、と伸びた手が戦術書を持ち上げた。
「わ、やっぱこれ、思ったより重いな~」
のんびりとしたウィルの声に、は先日の失態を思い出し、気まずさを覚える。「返してください」と、そっけなく言ってしまってから、はっとして手で口元を押さえる。悪態をつきたいわけではなかった。
の棘のある物言いに気にした様子もなく、ウィルが向かいの席に腰を下ろした。
「まだ寝ないの?」
「ウィルこそ、夜更かしなんて珍しいですね」
「ひっでぇ、おれだってたまには眠れない夜だってあるって」
たぶん、と付け足して、ウィルがあっけらかんと笑う。
「さんは、いつもこんな夜遅くまで勉強してるの?」
食事時を過ぎた食堂に人はいない。テーブルに乱雑に置かれた戦術書を、ウィルが興味深げに見つめては、気まぐれにページをめくる。は慌ててその手を止めた。使い込んだ戦術書は脆くなっているし、なにより血や泥で汚れている。
「いつもではありません」
「へえ、そうなんだ。知らなかったな」
ウィルがひとつ、欠伸をする。は時間の流れを知って、途端に身体が疲労を訴えてくるような気がした。そろそろ眠らなければ明日に響く。
「ホットミルクでもいかがですか?」
「いる!」
子どものように瞳を輝かせるものだから、は思わずくすりと笑った。
ふうふうと息を吹きかけながらマグカップに口を付けたのに、それでも熱そうにウィルが舌を出す。はカップを手で包んで、その温かさをじんわりと手のひらに染みこませる。
「ねえ、さん」
ウィルがすこしだけ躊躇うように、一度口を噤んだ。
「危険だってわかっていたなら、なんでおれのこと、助けてくれたの?」
理由なんてひどく簡単で単純なことだった。臆病な自分は、それを口にすることができない。
じっと見つめるウィルの瞳から逃れるように、視線を伏せる。「それは、」は吐息交じりに言葉を紡ぐ。適当な言葉を並べてはぐらかすことは、いくらでもできる。軍師として口八丁はお手の物だ。
「おれ、期待しちゃうよ」
へにゃっと力が抜けたように、ウィルが照れくさそうに笑った。
軍師であることを選んだのは紛れもない自分であり、辛いだとか苦しいだとかそんな風に思ったことは、一度としてない。けれども、ふいに、軍師ではない己の顔がどこかから覗くのだ。
「さん?」
俯いたの顔を、ウィルが覗き込む。「泣いてるの?」いつかと同じ台詞を口にしながら、ウィルの指先が目尻に触れた。湿り気の“し”の字ほども感じられない目元をなぞって、ウィルの手が優しくの顔を持ち上げる。
「泣いてもいいのに」
ちえ、とウィルが唇を尖らせる。はそっと人差し指をその口へと押し当てた。
「ひみつですよ」
ウィルの耳に唇で触れる。「期待してください」と、囁く。
がたっ、と音を立てて立ち上がったウィルが、その拍子にホットミルクをこぼして「あちっ!」と声を上げた。はくすくすと小さく声をあげて笑う。
軍師である自分に泣いている暇などない。けれど、いつかは、その胸を借りる日があるかもしれない。