小さく茂みが揺れた。ユリシーズは警戒を怠らず、片手に魔導書を開いてもう一方の手で草木をかき分けた。暗がりで、息を潜める様子は、まるで野生の小動物のようだった。
鋭い視線がユリシーズを捉える。そして、その瞳は驚きに丸く見開かれる。
それが何者か確認したユリシーズは、手にしていた魔導書を放り出し、身を竦ませた彼女を抱き寄せた。華奢だが、柔らかな肢体は、彼女の存在が腕の中にあると実感させてくれる。
「フェール伯、」
ユリシーズの腕の中で、少しだけもがくようにしてが呟く。
小さな抵抗を感じたが、まだ離れがたく、ユリシーズは気づかぬふりをしてぎゅうと腕の力を込めた。
エリンシア付きのメイドであるは、ジョフレ共々エリンシアとクリミアを脱出していた。デイン兵に見つかったのち、ジョフレがエリンシアと逸れてしまったことは既知であるが、の生死は不明であり行方知らずのままであった。
もしかしたら、と思わなかったわけではない。ジョフレのような騎士とは違い、彼女はメイドだ──
「ユリシーズ様……」
もう一度、腕の中で声が上がる。苦しげな声に、ユリシーズはようやくを解放した。気づかぬうちに、随分と腕に力が入っていたらしい。
「よくぞ無事で。怪我はありませぬかな?」
いつもエリンシアと共にあった、見慣れたメイド服を身に着けている。白いブラウスとエプロンは薄汚れているし、スカートも大きく裂けて太ももが露わになっている。ユリシーズはの身体に手を這わし、細かな傷を見つけては眉をひそめた。
杖を掲げ、傷が癒えたことを確認すると、ユリシーズは己の外套で彼女を覆った。
立ち尽くすの手を引いて、小さな焚火の元へと誘導する。ユリシーズもデイン軍から身を隠す身であるため、豪奢な天幕が用意されているわけなどなかった。またここは巷ではないため、大道芸人を装う必要もなく、派手な衣装や道具もない。
ユリシーズにはおよそ似つかわしくない、簡易な小さい鍋を火にかけて、湯を沸かす。
こぽこぽと水が湧く音に反応して、が顔を上げた。
「お飲み物なら、わたしが……」
しかし、ユリシーズはやさしく肩を押さえて、それを制した。戸惑う瞳がユリシーズを見つめる。
「紅茶の一つくらい、この手を煩わせる必要はありませぬよ」
つめたく冷えた手を、包み込む。
が目を伏せて、顔を俯かせた。それは照れたからではないことは明白だった。
黙り込んだを横目に、ユリシーズは沸いた湯で紅茶を淹れる。琥珀に色づくにつれ、ふわりと香りが広がっていく。ユリシーズは満足に頷き、顎髭を指先でひと撫でする。
「ささ、これを飲んで落ち着くがよろしかろう」
素直にカップを受け取ったが、一口飲んで「おいしい」と、小さく呟いた。ぽつん、とカップの中に涙が落ちる。
ユリシーズはそっと、の頬に手のひらを添えた。
「」
くしゃりと歪んだ泣き顔が、ユリシーズの胸を揺さぶる。
何故、彼女がこんな目に合わなければならない。どうして、己はこの涙を止める術を持たない。いくら身体の傷は癒せても、心までは癒せない。
「エリンシア様のお傍を離れてしまって、ごめんなさい……」
「謝る必要など。こうして無事であったこと、それだけでもう十分ですぞ」
「でも、わたしは、」
「それ以上、自分を責めるのは如何なものか。姫はご無事にあらせられる。案ずることなどありはせぬよ」
が息を呑む。「エリンシア様が」と、震えた唇が震えた声を紡いだ。まあるい瞳から、丸い涙の粒が溢れて落ちていく。
「よかった……エリンシア様……」
ユリシーズはほとんど衝動的に、を抱きしめた。
カップが転がり落ちて、紅茶が地面に染みこんでいく。先ほど感じた抵抗はなかった。の手がそろりと動いて、ユリシーズの服を控えめに握った。
「ユリシーズ様」
「はて……可愛らしい声で、ユリシーズと呼んではくださらぬのかな?」
「……ユリシーズ」
胸にぴたりと頬を寄せて、が小さく名を呼んだ。いつもは身分や外聞を気にして、素直に応じることはない。
「生きているのですね」
よかった、とが涙を浮かべたまま、微笑んだ。
いまだ頬をくっつけたままのが、鼓動を確かめているのだとユリシーズは知った。「可愛らしい」と、思わず笑みがこぼれる。
が不思議そうに瞳を瞬かせて、ユリシーズを見上げた。
「さあ、今日はもう休むとよろしい。残念ながら、柔らかいベッドも、温かい毛布もありはせぬが……吾輩の腕の中なら貸せましょうぞ」
ふ、と目元をゆるませて、が猫のように身を摺り寄せてくる。可愛らしいとまた口をつきそうになるが、ユリシーズは唇を結んだ。しばらく黙っていれば、静かな寝息が聞こえ始める。
ユリシーズはそうっと、目尻に滲む涙を親指で拭った。
「……本当に、よく無事だったものだ」
独り言ちて、ユリシーズは唇にキスを一つ落とした。
「無防備が過ぎますぞ」
もう一度唇を寄せて、それが触れる間際に「あなたになら、構いません」と、が囁いたような気がした。ユリシーズは思わず顔を覗き込むが、は目を閉じて寝息を立てているだけである。
ふ、と小さく吐息するように自嘲する。
「これはなかなか……堪えますな。いやしかし、寝ている淑女に手は出すまい」
揺れる焚火に照らされたユリシーズの頬は、わずかに赤らんでいた。
眠るを抱きしめて、ユリシーズもまた彼女の鼓動と呼吸に耳を傾ける。ユリシーズは、もう一度ゆるく息を吐いて己を嘲笑した。
「死を受け入れる覚悟はとうにできている、などとよく言えたものだ…」
の行方が知れないと告げたジョフレに対して、ユリシーズはそう嘯いた。自分の立場をよく理解していた。個人的感情よりも優先させるべきことが、多々あった。
けれど、こうしてまた会えることをどれだけ焦がれ、夢見たことだろう。
──我ながらとんだ道化である。