腕をきつく掴まれて、振りほどくことができない。グラド帝国がルネス公国を攻め入ってからというもの、各地で魔物と遭遇するし、兵士にも絡まれる。はうんざりした気持ちで、深くかぶった外套の下から、グラド軍兵士を見上げた。
しがない旅人だと言っても納得していない様子で、訝しむように顔を覗き込んでくる。
「よもやルネス王女、ということはあるまいな?」
青天の霹靂である。
グラド帝国の急襲を受け、ルネス王城が陥落したとは聞き及んでいたし、王子と王女の行方は知れないと噂されているのも知っていた。驚いて言葉を失っていると、兵士の手が顔へと伸びてくる。
咄嗟に身をよじるが、腕を掴む手に身動きを阻まれる。顔を見られて困ることなどないが、ひどく不愉快だった。
「きゃっ……」
乱暴な手つきで、顔を晒される。「髪の色が違うな」と言う兵士の顔はにやついており、はことさら不愉快になる。ルネス王女ではないとわかったと言うのに、兵士の手は離れない。
「私の連れが何か問題を?」
ふいに降った声に驚いたのは、兵士のみならずも同様だった。腕を掴む手が怯んで離れる。と兵士の間に身を滑り込ませた声の主が、庇うように背中で身を覆い隠してくれる。
「ちょ、ちょっと顔を見せてもらおうと思っただけで……」
「……ならば、もう用は済んだようだが」
「チッ……連れがいるならそうと言わないか!」
やけに高圧的だった態度はなりを潜め、捨て台詞のように吐き捨てて兵士が去っていく。
大きな背をただ見つめていれば、小さくため息をこぼしながら振り向いた彼と視線が合う。その顔には見覚えがあった。けれど、名前すらも知らない相手である。
いつの間にか、縋るように彼の法衣を掴んでいたことに気づいて、は慌てて手を離した。
「ありがとうございます。助かりました」
「……大したことではない」
ふ、と思わず笑みが漏れる。
「すみません。以前もこんなやりとりをしたな、と思い出してしまって」
男の眉間にわずかに皺が寄った。覚えがないというふうではなく、むしろ心当たりがあるからこそ、顔を顰めたようだった。
「……魔物に襲われていたな」
「ええ、そうです」
「山賊に囲まれていたこともあった」
「まあ、覚えておいででしたか? お恥ずかしい」
は眉尻を下げ、笑みを苦笑に変えた。
女性の一人旅には危険がつきものである。そんじょそこらの賊にやられるほど無力ではないと自負しているからこそ、はこうして一人で旅を続けているのだが──如何せん、いざこざに巻き込まれる回数が多すぎる。
「腕は相当立つようだが……災難、いや不運というべきか」
やれやれ、とでも言い出しそうな口ぶりだった。
運がないやらついていないやら、再三言われてきたが、はあまりそう思ったことはなかった。けれども、をよく知らない彼でさえもそう思うのならば、確かなことかもしれない。
彼とこうした会話をするのは、何度目だろうか。が不運というのなら、そういった場面に遭遇する彼もまた、運がないのではないだろうか。
「申し遅れました。わたしはです。何度も助けていただいたというのに、名乗りもせずに……すみません」
「……私はサレフだ」
言葉少なにそう返す様子は素っ気ないとすら思えるが、決して冷たい人柄ではないとはすでに知っている。
やはり、不運なのはだけかもしれない。空き部屋がなく泣く泣く野宿をしようとしたを、すでに部屋を取っていたサレフが引き止め、泊めてくれるという。
当然ながらベッドは一つしかない。どちらがそれを使うか、「あなたが」「君が」と互いに譲らなかったせいで、仕方なく身を寄せ合ってベッドに潜った。狭くて窮屈なことよりも、すぐそこに体温がある安堵のほうが、にはずっと大きく感じられた。背を向けあっていても、触れ合ったところから熱が伝わり、静かな呼吸が聞こえる。
には、サレフの探し人に心当たりはない。
明日になればまた、互いの目的のため、別々に行動するのだとわかっている。
もぞりと動いて、は少しだけサレフの側に身を寄せる。寝入っているのか、サレフが身じろぐことはなかったし、呼吸の乱れもなかった。だというのに「眠れないのか」と声をかけられて、はびくっと身を震わせた。
「起きていらっしゃったのですか?」
「……ああ」
静かで、平坦な声は、波一つない水面のような響きをしていた。は再びもぞもぞと動いて、サレフから距離を取る。しかし、狭いベッドの上では完全に離れることはできなかった。これ以上動けばベッドから落ちる、というところまで身を寄せて、は小さく息を吐く。
衣擦れの音がして、ベッドが軋んだ。ふ、と影が落ちてくる。
「サレフさん?」
その影はサレフのものに間違いない。は真横を向いていた顔を、わずかに捻った。の上に覆いかぶさったサレフの顔が、薄暗い中でぼんやりと見える。
「ようやくわかった。君は不運なのではなく、危機感がない」
「え?」
「……こうなる可能性を考えなかった、とは言わないだろう」
は戸惑いを持ってサレフを見つめ返した。
からかっているわけではない。それは、サレフの真摯な様子からわかる。では、忠告のためだけに、このような行動を起こすだろうか。その疑問の答えを見つけられるほど、はサレフのことを知らなかった。
言葉を探すの唇に、サレフの指先が触れる。は横たえた身を捩り、サレフを真正面に据えた。
「あなたのほうこそ」
ぴく、とサレフの指が小さく動く。
「わたしがこうなることを望んでいたなんて、思いもしないでしょう」
不運だなんてとんでもない。
こうしてサレフと出会えたことは、にとって幸運にほかならない。
サレフが言葉をなくす。けれど、とて、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。指先の代わりに、サレフの唇がのそれに触れていた。
「そういえば、以前会った時……君はロストンに帰るところだと言っていなかったか」
確かに、そんなことを言ったかもしれない。それなのに、は今グラドとルネスの国境付近にいる。方向音痴ではない。
「実はわたしも人探しの旅なのです。乳母姉妹が魔物退治と張り切って、あちこち飛び回っていて……」
はあ、とはため息をついた。いくら従者をつけているとはいえ、心配なのだ。
「ロストンに戻ると聞いたのに、あの子ったら全然違う方へ向かっているようで……わたしも後を追っているのです」
「……大変そうだな」
「サレフさんこそ、手がかりは得られていないのでしょう? 小さな女の子をお探しでしたもの、心配ですね」
一人で旅を続けているということは、サレフもまた探し人には会えていないのだろう。以前尋ねられた「藍色の髪の幼い娘」を思い、は目を伏せた。
グラド帝国による戦いで大陸は混乱している。そのうえ、魔物も出現している。
は手が止まっていることに気づいて、慌てて荷物をまとめる。すでにサレフの身支度は済んでいる。
「すみません。早く宿を立ちましょう」
「……」
「サレフさんは、これからどちらに行かれるのですか?」
ふいに、忙しなく動くの手を抑えるように、サレフの手が重なった。
「考えたんだが……、私と共に行かないか?」
背をかがめて覗き込んでくるサレフの表情は真剣そのものだ。
重ねられた手が、ぎゅっと包み込むように握られる。
「君がこれからも危険な目に遭うことは想像に容易い。何より……離れがたい、と私は思ってしまっている」
は思わずうつむき、サレフの視線から逃れる。
こんな幸運があっていいのだろうか。むしろ、これまでのいざこざの反動なのかもしれない。
「よ、喜んで」
ふっ、と笑う気配に顔を上げれば、そこにはサレフの穏やかな笑みがあった。は赤らめた顔を、再び慌ててうつむかせるのだった。