指を這わせたページは真新しく、どこも破れていないし汚れてもいない。木漏れ日が手元をまばらに照らしていることに気づいて、は買ったばかりの戦術書を閉じる。長い間本を読みふけってしまったようだ、もうずいぶんと日が高い。
木陰でこうして本を読んでいると、まるで平和なのだから不思議な感覚を覚える。自分たちは、またすぐに戦場に身を置いて、命がけで戦うのだ。そのための戦術書である。の座る横には、薄汚れた本が乱雑に重なっている。何度も繰り返し読んだものであり、中には血が滲んでしまったものもある。
「お疲れですか?」
ふいに声が落ちた。高すぎず、低すぎず、耳に心地よい声音だった。
は顔を上げる。
さらりと肩を滑り落ちる金糸に一瞬だけ目を奪われる。すこしだけ心配そうに、その美しいかんばせは影を落としている。ルセアがと同じように、木の根元へと腰を下ろした。は咄嗟に口を開く。
「汚れてしまいます」
の言葉に、ルセアが不思議そうに首をかしげる。「土がつくくらい、気になりませんが…」たしかに、土で汚れるくらいならば、自分たちにとっては可愛いものである。自分で言っておきながら、は気恥ずかしさを覚えて目を逸らした。
ルセアを見ていると、すこしの汚れもつけてはいけない気になってしまう。それほどまでに、彼は美しい。
この軍には、戦場に似つかわしくない、可憐な少女やまだ年端もいかない子どももいるが、ルセアもまたそのうちのひとりである。
ルセアの白くて細い指が頬にそっと触れて、は視線を戻した。
「顔色が優れませんね」
やさしげな碧眼にじっと見つめられて、は緊張を覚える。いかに女性と見まごう美しさとはいえ、れっきとした男性である。
はルセアがその言葉を幾人にも掛け、そのたび心を憂いていることを知っている。
「すこしの合間くらい、お休みになってください」
積み重なる戦術書を見やったルセアが苦しげに眉根を寄せた。「このままでは、さんが倒れてしまいます」と、胸を押さえながら続ける。その仕草さえたおやかである。
「大丈夫です、きちんと休息は得ていますから」
「……」
「わたしより、ルセアのほうこそ、気を遣ってばかりいないで休んだらどうです?」
「……いえ、わたしは」
疑うような視線を受けたは、ごまかすように笑った。ルセアがゆるくかぶりを振り、長い金髪がその動きに合わせて揺れる。
「わたしは、十分すぎるほど、休んでいますから……」
だれかと比べるような物言いに、は首をかしげる。たしかに、前線で戦うものに比べれば、後方での待機が多いルセアのほうが体力は温存することはできるかもしれない。けれど、ただ杖で癒すだけではなく、ルセアも光の魔法で戦わなければならない──
この美しいひとにそんなことを強いている。その事実はの胸を苦しくさせた。
つ、とルセアの指先が動いて、目元をやさしくなぞった。「クマができていますよ」と、指摘されては、言い訳もごまかしも通用しないだろう。離れていくルセアの手は驚くほど白い。はその手を見つめながら、苦笑を漏らす。
「もう……お互い、心配しあっても仕方ないですね」
は手元の戦術書を無造作に地面に放る。かろうじて積み重なっていた本が崩れた。
「じゃあ、一緒にここで休みましょう。ぽかぽかして気持ちいいですし、お昼寝でもどうです?」
「さん、それはあまりに無防備です」
「そうですか? ほら、寝転がると、すごく気持ちいいですよ」
「さん、ああ、背中まで汚れて……」
ルセアの手がやさしくの身体を抱き起し、背中についた土や草を払ってくれる。そして、そのままのやさしい手つきで、すこしだけ乱れたの髪を梳いて整えてくれる。「お昼寝なら、ベッドのほうが気持ちよく眠れると思います」と、ルセアが真面目腐った顔で言う。
はうんともすんとも言わなかったが、ルセアが地面に散らばる本たちを拾い上げて立ち上がる。それなりの数であるはずだが、あまり重さを感じさせないのは、やはりルセアが男だからだろうか。片手で本を抱え上げ、もう一方の手はに差し出される。
「さあ、宿に戻りましょう」
「あ、は、はい」
はルセアの手を取る。白く、細く、すべらかな手だが、当然ながらよりも大きかった。
「ルセア、」
ルセアが自然に手をつないだまま歩き始める。は戸惑いをもって名を呼んだが、その先に言葉は続かなかった。やさしい微笑が振り返る。
ほんとうに、戦場に似つかわしくない。戦の中でしか生きられない自分とは違うのに、
この美しいひとに、どれだけの血を見せてきたのだろう。はうつむきがちにルセアの流れる金髪を見つめながら、歩く。繋がれたルセアの白い手に視線が落ちる。
自分が触れてしまってもいいのだろうか、とさえ思うほどに白い。だって、自分の手は、あまたの血で──
「さん、どうしました?」
ルセアに顔を覗き込まれ、ははっとする。
「やっぱり、疲れていらっしゃるのですね。どうかゆっくりお休みください」
いつの間にか自室の前まできていたようだ。「あの、ルセア、」は繋がれた手が離れてしまわぬよう、ぎゅっと力を込める。ルセアが不思議そうに瞳を瞬かせた。
「眠るまで、傍にいてほしいんです。だ……だめ、ですか?」
崇高な言葉だとか、許しだとか、そんなものは必要ない。どれだけこの手が血で汚れていようとも、自分の行いを後悔することはないからである。ただ、思うことがあるとすれば、このようなひとを戦場に立たせなければならない己の非力さが憎い。
「わ、わたしは男ですよ。女性の部屋に入るなんて……」
「お願いします、眠る間だけでいいんです」
ルセアがすこし頬を赤らめて、困ったように眉尻を下げる。しばし見つめ合い、根負けしたのかルセアが小さく頷く。
「……わかりました」
はほっと笑みをこぼす。「ありがとうございます」と言って、はルセアの手を引いて、さっさとベッドにもぐりこむ。繋がった手からじんわりとぬくもりが伝わる。ルセアからわずかな緊張が感じられるが、やがてそれもなくなって、もう一方の手がやさしく背を撫でてくれる。
ありがとう、とは夢見心地のなかで、もう一度礼を告げた。ほとんど意識がまどろみに沈むころ、やわらかな感触が額に触れた。
「こんなわたしが、あなたに触れることを、どうか許してください……」