どくっ、と心臓が嫌なふうに音を立てて跳ねたのがわかった。目の前が暗くなるような感覚を覚えるが、目を閉じて呼吸を落ち着かせることで、はなんとか踏みとどまることができた。
そして、次に目を開けたときには、すとんと胸の内に落ちてくるものがあった。妙に納得がいく。
──そうか、彼にとって自分は、その辺の石ころと何ら変わりないのだ。
故郷を離れてしまった彼に、はなんども手紙を送ったけれど、数回しか返事が来ないのも当たり前だった。特別に思っていたのは、自分だけだった。その事実に気づいてしまったら、これからどうしたら良いのか、途端にわからなくなった。
視界がぼやける。は涙が溢れていると知った。
ソフィア解放軍の話を聞いて、居ても立っても居られなくて、故郷を飛び出てこんなところまで来てしまった。「こうして離れていても特に会いたいとも思いませんし」淡々とした声が、なんどもなんども頭の中で繰り返される。ルカにとって、は本当にただの幼なじみだったのだ。
血の気が引いていくような感覚がして、うずくまる。かさり、と足音がして、すぐ近くに気配を感じた。つま先を見て、それがルカではないことに安堵していると「盗み聞きなんて、いけないんだ」と、明るい声が頭上から降ってくる。
は一拍置いて、顔を上げる。愉快そうな顔をした男の目が驚きに瞠られる。
「あらま。どうしたの、ひどい顔しちゃって」
ほっといてくれ、と思うのに、口は動いてくれなかった。
いつからここに居ることに気づかれていたのだろう。はそれが気がかりだった。そして、もしや気づいていたのは目の前の男──パイソンばかりではないのかもしれない、と思うとまた心臓がどくどくと脈打ち出す。
「えーっと、だっけ?」
非常に面倒くさそうな様子で、パイソンが顔を覗き込んでくる。名を覚えられているとは思わず、今度はのほうが目を丸くする。そうだ、同じく弓を扱うから、なにかと顔を合わせていたのだった。
「……いつまでそうしてるつもり? ほら、こっちおいでよ」
パイソンの手が、ほぼ無理やりを立ち上がらせた。茂みに身を潜ませたせいで、あちらこちらに葉がくっついていた。ぷっと笑ったパイソンが、の身体を叩いてそれを払ってくれる。
は唇を結んで、ただされるがままになる。言葉を交わす気になれなかった。
俯いていると、止まっていた涙が再び溢れて、落ちた。
「なにメソメソしてんの? あーやだやだ、辛気臭いったらないね」
「……」
「口きけなくなっちゃったわけ?」
「……」
鼻先をぴんと指ではじかれて、ようやくは顔を上げた。パイソンが不機嫌そうな顔を近づけてくる。けれど、その瞳はくるりと愉快そうに動いた。
「ルカさん、」
「ん? ルカ?」
「──の、故郷の女、」
うんうん、とパイソンが相槌を打つ。
「わたしのことだと思います」
そう言い切ると、また涙がぶわっと溢れた。胸が抉られた思いがした。けれど、パイソンが気まずそうに漏らした呟きではっと我に返る。
「あー……女だったんだ?」
は少年兵を装っていたことを、つい失念していた。
胸が抉られるように痛む。いや、違う──避け損ねた弓矢は確かに、の胸を掠めていた。
じくじくと血が滲む右胸を押さえながら、は木の陰に身を潜める。あんなことがあっても、まだ解放軍に身を置いているなんて、己のことながら正気を疑う。不安と恐怖に震える手で弓を握る。近づいてくる気配を感じて、息を殺しながら機を窺う。残りの矢はまだある。
あまり近づかれてはいけない。は意を決して、足を踏み出した。相手が素早い反応で振り向く。
つがえた矢が放たれることはなかった。は零れんばかりに目を見開いて、その顔を凝視した。解放軍に参加してから、一度も顔を合わせることのなかった人物がそこに居た。鮮やかな赤に目が眩むような感覚がした。
「ルカさん」
唇が勝手に動いて、勝手にその名を呟いていた。「?」と、ルカもまた驚いた様子で、名を呼んだ。
ぐっと胸部を圧迫されて、思わず眉をしかめて呻く。ルカの手つきはひどく手慣れていたし、丁寧でかつ素早かった。応急処置を施す間、ルカが言葉を発することはなかった。は彼の顔を見ることが、どうしてもできなかった。
再び槍を握って前線に戻らんとするルカに倣って、つい追いすがる。しかし、は立ち竦んだ。ルカが厳しい視線を向けてきたのだ。
「君は、下がりなさい」
うんともすんとも言えなかった。でも、と開きかけた口を無理やり閉じて、は視線を地面に落とした。
「……その怪我では、弓を引くのが辛いでしょう。すぐ後方にパイソンたちの弓兵がいるはずです。そこまで戻れますね?」
視線はそのままに、少しばかり口調をやわらげてルカが告げる。は頷くしかなかった。
顔を上げたときには、ルカの背中しか見えなかった。「ルカさん」今度は、自分の意思で名を呟いた。ルカが振り向くことは一瞬たりともなかった。
ルカとパイソンの話を聞いてしまってから、一度だけルカに手紙を書いた。「もうあなたを待っていられない」「良縁があって結婚する」、と嘘八百の手紙だった。きっと、彼は返事を書いていない。
「大丈夫?」
気安くかけられた声に顔を上げる。パイソンの指先が、ごく軽く右胸に触れた。
「それ、シスターに見てもらいなよ」
「……」
はパイソンに向けた視線をつま先に落として、首を横に振った。
この胸の痛みを、いまは享受していたい。
ルカに自分の存在が知られた以上、故郷へ帰らなければならないだろう。そうして、きっといつか彼は自分のことなど忘れるだろう。会いたくなったら会いに行けばいいと、パイソンが言っていたが、そんなことはきっと起こらない。
「」
びく、と身体が震えた。聞き慣れた声だった。怒っているような感じではなかったが、は顔を上げられない。
すると、驚いたことに、ルカが膝をついての顔を覗き込んできた。
「わたしなんかに、膝をついたりしないで、ルカさん……!」
は慌てて膝を折って、ルカの肩を掴んだ。視線が合う。
いつもそこにある穏やかな笑みはなかった。
「私が言いたいことがわかりますね」
それは問いかけではなく、確認だった。
「ルカ、ちょい待ち。の言い分も聞いてやろうよ」
「……パイソン」
「だって、ルカを追いかけてきたんだろ? 可愛いもんじゃないの」
「…………」
ルカがため息を吐いて立ち上がる。は膝をついたまま、ルカを呆然と見上げた。
痛むのは右胸なのか、心臓なのか、にはわからない。
ただ、涙が溢れて頬を伝った。泣いてもなにも変わらないことは知っていた。ルカの淡々とした声が、また頭の中で流れる。
幼なじみ。大事なひと。会いたくて会いたくて、堪らなかった──
「立ってください、」
ルカの手がを立ち上がらせたが、身体に力が入らずにふらついてしまう。それを支えたルカが、じぃっと瞳を覗き込んでくる。
唇が震えた。声も震えた。
「すき……」
──たとえ、あなたにとって、ただの石ころだとしても。
珍しく、ルカが動揺したようだった。軽く見開かれたルカの瞳から視線を逸らして、はかぶりを振ると彼から身を離した。
「帰ります」
「……」
「それが、あなたの望みなら、わたしは帰ります」
次から次へと頬を伝い落ちる涙を、ルカの指先が拭った。
「君には、そういった情熱があったんですね。ルカさん、などといつまでも余所余所しいというのに」
ふ、とルカが表情をゆるめた。
幼なじみとはいえ年上なのだから、少しばかり畏まってしまうのは仕方がないだろう。ルカのほうこそいつまでも礼節を欠かさない。言いたいことはあったが、は口を噤んだまま、濡れた瞳でルカを見つめる。
「あーあ、ごちそうさん。会いたくなったら会いに来てくれるってよ、色男」
パイソンが肩をすくめて、ばしっとルカの背を叩いた。「そのようですね」と、ルカが諦めたように呟いて、の目尻に唇を落とした。悲しくて悲しくて、涙が溢れていたはずだったのだが、はもはやどんな感情で泣いているのかわからなかった。
ただ、目の前にあるルカのぬくもりは、本物だ。
会いに行きますよ、とまやかしの甘言は決して言ってくれやしない。けれどそれでこそ、世界で一番信頼できる、愛しい人だとは思う。