剣を取るしかなかった。そういう風にしか生きられない。今さら、穏やかな暮らしを望んだこともなければ、剣を持つ必要のないたおやかな手を羨むこともなかった。
 仕事を終えてアジトに帰る。それがの日常だ。

 いつからか、アジトに向かう足取りがひどく重くなっていた。そうと気づいても、ここに帰らないなんてことを、考えたことなど一度もなかった。たとえ、仕事の毛色が今までと異なるようになってきていても、は言われるがままこなしていた。
 黒い牙のアジトは静かだった。
 血のにおいが染みついた場所だった。けれど、もはやここは、死臭がす──



 よく知る声が名を呼んだ。顔を見なくても、それが誰かわかる。鍛え上げられたたくましい腕が、を包んだ。

「怪我はないか?」

 その声が首筋に近づいて、すんと鼻を利かせる仕草をする。無精ひげが肌に触れてくすぐったくて、は小さく身を捩る。「血の臭いがするな」と、唇を肌にくっつけて、ロイドが囁いた。大きな手のひらが、身体のあちこちに触れて怪我の有無を確かめていく。
 はその手を止めて、ロイドを見上げた。やさしい瞳がそこにある。

「怪我はない」
「ああ、そうみたいだな」

 ちゅ、と小さな音を立てて、首元に唇が近づいて離れる。ロイドの指先がそこをなぞった。

「ここ以外は」

 ふ、とロイドが笑う。
 はようやく緊張を解いて、ロイドに身体を預けた。仕事はもう終わった。ここは家だ。そう感じることが、ようやっとできた。





 黒い牙は、もう以前の黒い牙ではない。
 はそれを理解している。ロイドも、ライナスも、そんなことはわかっているのだ。

 与えられる任務に疑問を抱いてはいけない。悪を裁くための剣だったのに、今では善悪がよくわからなくなっていた。理由のわからない仕事を終えるたびに、は大事にしてきた何かを壊してしまったような気持ちになる。
 怪我はないのに、身体のどこかが痛む気がしてならない。

「……、」

 こつん、と額と額が触れる。
 綺麗に血を洗い流して清潔な服に袖を通したの身体から、石鹸の香りが立ち上った。至近距離で視線が交わる。

 ロイドの物言いたげなその瞳が、は苦手だ。何を言わんとしているのかわかるからこそ戸惑う。

「わたしは」

 の言葉はそこで途切れた。唇が重なり、吐息が飲み込まれる。

「言わなくていい……言うな」

 苦しげな声だった。はきつい抱擁を受けながら、分厚い胸板に頬を摺り寄せ、ロイドの心音に耳を傾けた。うんともすんとも言わずに、ただ小さく頷く。
 いつまでこうしていられるのか、にもロイドにもわからない。

 好きという言葉すら口にできずに、は目を閉じた。


 部屋を出ると見知った顔がすぐあった。

「なんだよ、また兄貴と一緒だったのかよ」

 不機嫌さを少しも隠さずに、ライナスが吐き捨てた。
 苛々しているのは仕事帰りだからか、それとも大好きな兄を独り占めするに対する嫉妬からか。強面をさらに顰めて凶悪さを増して、ライナスがぐっと顔を近づけてくる。

「おまえ、兄貴が優しいからって甘えてんじゃねぇぞ」
「ライナス、帰ったのか」

 ロイドの声に素早く反応して、ライナスが身を仰け反らせる。「あ、兄貴」わずかに声を上擦らせて焦るライナスに対し、ロイドがくつくつと低く笑った。

「甘えているのは俺だ」

 を引き寄せて、ロイドがこめかみに唇を押し当てる。

「はァ!?」

 ライナスが馬鹿でかい声を上げたので、は反射的に耳を塞いだ。
 信じられないという顔をして、ライナスが上から下までを見やる。そのあまりに失礼な態度に、眉をひそめたのはロイドだった。

「不躾が過ぎるぞ」
「わ、悪ぃ……」

 狂犬ともあろう男が、叱られた犬のようにしょんぼりと肩を落とす。いつも威圧感たっぷりに凄んでくるライナスの珍しい姿を目にして、は瞳を瞬かせた。

「ロイド、わたしは別に構わない。ライナスの言わんとすることもわかる」

 には剣を振るうことしか能がない。顔立ちも十人並みで、おまけに身体は貧相だ。とてもロイドと釣り合うようには思えない。
 ばつの悪い顔をして、ライナスが目を逸らす。ロイドの唇が耳朶に触れた。

「おまえが構わなくても、俺は構う。弟が失礼な真似をしたな」

 あ、と思う間もなく、今しがた出てきた部屋に引き込まれる。閉じていく扉の隙間から、かすかに頬を赤らめ、形容しがたい表情を浮かべたライナスの顔が見えた。








 あんたも一緒にどうだい、と言われた手をどうしても取ることができなかった。
 ──この選択は正しい。
 そう信じている。そう思わないと、はもう二度とアジトに帰ることができないような気がしていた。だけれども、帰ってきたアジトは以前とは全く違っていて、どこまでも冷たくて暗い。

「ロイド」

 もう失礼な真似をする弟はいない。
 を抱きしめる腕は、変わらずたくましくて、温かい。血のにおいがした。それは、どちらからするのか、どちらからもするのか、わからない。
 分厚い胸板に頬を寄せて、目を閉じる。

「おまえは、おまえだけは……」

 いつかロイドがしたように、は彼の唇を塞いでしまった。その先の言葉は言わせない。自分だけ置いていかれるなんて、死んでもごめんだった。

「好き」

 ロイドが苦しげに眉をひそめた。はそれに気づいても、何度も愛を囁いて口づける。

漂う血の匂いに溺れてしまえば
楽になるから

(わたしは牙にしかなれない)