彼が強いことは、十二分に知っていた。それでも、仕事を終えてアジトに戻ってきたときに、怪我をしていることだってあった。自分の身体は自分がよくわかっているというが、怪我の程度が大なり小なりであれ、いつもおざなりな手当てしかしていないから、はいつも心配だった。
 咎める兄がいないとき、なおさら怪我に対する頓着がないので、ライナスが単独任務に行ったと聞くと、帰って無事を確認するまでずっとは不安で気が気でないのだ。

 本人にそれを伝えたことはなかった。どうせ、鬱陶しがられるに決まっている。なにせ大人しく治療を受けてくれこそすれ、の小言には辟易しているとばかりに、ライナスの顔は不機嫌に歪んでいる。
 はアジトを出たことはない。
 癒し手として、アジトに帰ってくる皆を治療する役目を与えられているから、どれだけ心配でも一緒に行くことはできない。そもそも「足手まといだから来んな」と、以前にはっきりと言われてしまった。

 今日も今日とて、はライナスの無事を祈りながら、帰りを待つしかない。


「ライナス、お帰りなさい」

 アジトに戻ってきたライナスからは、血の匂いがしていた。の姿を見つけて嫌そうに顔を顰めたライナスが「俺の血じゃねぇ」と、近づかぬように制する。
 は杖を握ったまま、少しの距離を空けたところで立ち止まる。

「……血ぃ落としてくる」

 ぶっきらぼうな物言いだったが、を気遣っての言葉だとわかる。
 背の高いライナスを見上げる。情けなく眉尻が下がっているのを自覚するが、にはどうすることもできない。無事に帰ってきたことへの安堵と、血塗れになるほどの戦いに対する悲しいような憤るような感情とで、いつも泣きそうになってしまう。

「ばーか、んな顔すんな」
「うん……」
「ったく、帰って早々に辛気臭いったらないぜ」

 ライナスがため息交じりにこぼす。笑顔で出迎えることができていたのは、ただ杖を使えることが楽しく誇らしかった、子どもの頃だけの話だ。黒い牙がどう言った組織なのか知らず、善悪の区別もつかず、任務が何なのか考えたことすらなかった愚かな子どもだった。

 初めてライナスの傷を癒したのは、いつだっただろう。
 はぎゅっと杖を握りしめた。黒い牙は、の知らぬところで正義の裁きを下す。




 四牙である彼らは重要な任務を任されているようだが、なかでも死神と呼ばれる男は一等危険な仕事に赴いていた。いついかなるときも顔色は同じだし、動きに変化はないが、命さえ危ぶまれるような怪我を負うことも少なくなかった。

「ジャファル、他に怪我はない?」
「……」

 の問いに答えないのもいつものことだった。「そんなに心配しなくたって、大丈夫よ」囁くような声に振り向けば、微笑をたたえたウルスラが近づいてくるところだった。

「どうせ死にはしないわ」
「ウルスラ……あなたは怪我をしていないのね」
「ええ。あなたとお話ししようと思って」

 ウルスラに気を取られている間に、ジャファルが音も気配もなく姿を消している。
 これもまたいつものことだが、一言くらいあってもいいのに、とは小さく唇を尖らせる。

「相変わらず不気味な男ね」
「でも、すごく強いんでしょう?」

 は首を傾げ、ウルスラを見た。
 ジャファルやウルスラは、ソーニャと共に黒い牙に加わった新参者だ。ロイドやライナスが彼らをどんなふうに思っているのかは知っているが、自身はそれほど悪い印象を抱いているわけではなかった。ほとんど相手を知らないからかもしれない。

「そうね……」

 ウルスラが考えるように、指を顎先へと添える。は女性らしいたおやかなその仕草を、うっとりする心地で見つめた。ソーニャもそうだが、ウルスラは同性でも見惚れるほど美しい。

「ねえ、あなたも強さを得たいと思わない?」
「えっ?」
「あなたの杖の扱いは素晴らしいわ。でも、それだけでは勿体ないと思うの」

 美しい微笑みが近づいて、の瞳をじっと覗き込んでくる。宝石みたいに綺麗な青い瞳に、の困惑した顔が映り込んでいる。

「あなたには力がある」

 高位魔法を扱うウルスラが言うのならば、間違いはないのだろう。
 は魔道書に手を出したことはない。その必要はない、とライナスもロイドも言うから、ただただ熱心に杖ばかりを掲げてきた。

「でも、わたしなんて鈍臭いし」
「あら、魔法は後方から使うものよ。多少鈍臭くったって構わないと思わない?」

 ふふ、と美しい唇から、美しい笑い声が漏れる。「首領だって、きっと許さない」はなぜだかひどく恐ろしいような、後ろめたいような気持ちになって、小さな声で呟く。
 ウルスラの爪の先まで綺麗に整えられた手が、の肩に触れた。
 は彷徨わせた視線をゆっくりとウルスラへと向ける。

 もし、魔法を扱えるようになったら。
 には、その未来がどうしても想像できなかった。

「おい!」

 ふいに、空気を切り裂くような鋭い声が飛んだ。ウルスラの顔から微笑が消える。

「……から離れろ」

 地を這うような低い声で、ライナスが敵意をむき出しにして告げる。
 ふう、とウルスラがわざとらしくため息をついて、の肩から手を離し数歩後ろに下がった。は戸惑いながら、ライナスを見る。彼が怒ったところは何度も見てきたし、その怒りを向けられたこともあるが、それとは比にならないほど苛烈な感情がそこにはあった。

「少しお喋りしていただけよ。ねぇ、
「う、うん」

 ライナスの手が伸びて、の肩を抱き寄せる。「わっ」と、は驚いてよろめきながら、ライナスの胸元に収まった。握っていた杖が手から離れて、床に転がる。我ながら鈍臭い。
 任務から帰ってきたばかりなのだろう。ライナスの冷えた身体からは、汗と血の匂いに混じって、アジトでは感じられない外の香りがした。

「まあ怖い。邪魔者は退散するわね」

 ウルスラが軽く肩をすくめて、踵を返した。

 ライナスの手が肩に食い込んで痛む。は不安に顔を曇らせて、ライナスを見上げた。遠ざかるウルスラの背をじっと睨みつけるその顔は、狂犬の名に相応わしい迫力と獰猛さを持っていた。
 どうしてそんな顔を──
 はライナスの胸に顔を埋めた。頬に触れたむき出しの素肌はひんやりとしていた。



 肩を掴む手から力が抜ける。バツが悪そうに目をそらしながら、無骨で大きい手のひらがかすかな痛みを残すそこを撫でるように触れた。
 は顔を上げる。

「お帰りなさ」

 唇が押しつけられて、言葉が途切れる。
 驚きに見開いた瞳を閉じて、はライナスに身を委ねた。

 ウルスラには悪いが、やはりには戦うすべは必要ない。不安や心配は尽きないが、こうしてお帰りと言ってあげたいのだ。ライナスにとっての帰る場所であり、また安らげる場所であってありたいのだ。

 一度唇が離れたタイミングで、はライナスの頬を両手で包んだ。再び唇を重ねようとしていたライナスが不満げに眉を跳ね上げたが、は怯むことなく笑みを浮かべた。

「お帰りなさい、ライナス」

 こつ、と額を合わせる。ライナスの視線が逸れるのは、照れ隠しだ。

「……おう、ただいま」

 強面は薄らと赤らんでいる。
 ふふ、と思わず漏れた笑い声を飲み込むように、ライナスの口づけが深まっていく。はライナスに抱きついて、肩口から腰元へと手を這わせて怪我の有無を確認した。

「怪我はしてねえ。集中しろ」

 落ちた杖を拾い上げる必要はなさそうだ。
 ライナスの物言いが拗ねた子どものようだったので、は小さく笑った。

冒険者の休息

(あなたの休む場所は、わたしの隣)