す、と鼻先に突き付けられた刃の鋭さに息を呑む。
 悲鳴すら上げられずに、驚きと恐怖に身体を強張らせるばかりのは、その刃が遠のいても動くことができなかった。「お前か」となんの感慨もなく呟くカレルを呆然と見つめる。降り続ける雨がカレルの血塗られた剣を洗い流していた。

 つまらなそうに鼻を鳴らしたカレルが、刀剣の水滴を拭って鞘に納める。流れた血は、地面に還っていく。失われた命もまた同じである。
 ぐっしょりと濡れたローブが冷たく、またまとわりつくような重さが煩わしい。

「これで終わりか」

 カレルの視線に射抜かれて、はようやくのろのろと動いた。「そう、みたいですね」答えた声は掠れていた。足を踏み出すと、ぬかるんだ地面に靴がわずかに沈む。

「戻りましょうか」

 はカレルに笑みを向けた。当然ながら、彼が笑みを返すような真似をするわけがなかった。
 剣魔、と呼ばれる彼を怖いと思ったことはなかった。肩書や二つ名は、にとってはあまり意味を持たない。

 ふいに、カレルの手がの腕を掴んだ。思わぬ方向に力がかかって、身体が傾く。地面に倒れ込まなかったのは、カレルがそうさせまいと動いたからだ。抱き止められるような形に落ち着いた身体はなお、されるがままである。すぐに動かせるほどの反射神経がなければ、思考回路もこんがらがっていた。
 顔を上げれば、カレルの瞳がじっとを見つめる。胡乱でも鋭利でもない視線だった。

「カレル?」

 腕を掴む手とは反対の手が、の頬に伸びた。指先が何かを拭うように肌を擦る。

「頓着がないな」
「……あ、」

 ぬるりとした感触に、赤色を目にする前にそれが血液であると気がついた。
 先刻カレルが斬り伏せた残敵の血が、全身を汚したのだと思い至る。ぽつ、と顎先を伝った雨滴に交じって、薄くなった血の色が見えた。

「どうせ雨で流れますから」

 身なりに無頓着というわけではないと思いたかったが、血を浴びたことすら忘れていたのは事実であった。苦し紛れのように言えば、ふっとカレルが口元を歪めた。
 まるで強敵を前にしたときのような、妖艶ともいえるような笑みを向けられて初めて、はカレルに恐れを抱いた。剣先が鼻に触れようとするわけではない、ましてや彼は剣の柄を握ってすらいない。刃を向けられてなお、彼自身を怖いと感じたわけではなかったのに──ごくり、との喉が小さく音を立てる。

さん! 周囲に敵は見当たりません」

 フロリーナが羽音とともに舞い降りた。しかし、カレルの姿を認めた彼女は、ペガサスの背から降りることを躊躇ったようだった。はカレルから距離を取り、フロリーナに微笑んだ。

「ありがとうございます。フロリーナ、皆さんに伝達をお願いします」
「あ、は、はい……!」

 ペガサスの羽根の動きに合わせて、滴が跳ねる。
 は飛び立ったフロリーナを見送り、視線を地面に落とした。カレルの顔を見ることができなかった。

「……戻りましょう」

 俯きがちに、は告げる。返事はなかったが、歩き出したカレルのあとにも続く。長い黒髪が雨に濡れて艶やかに水滴をしたたらせるのを、は黙って見ていた。







 いつの間にか、としか言いようがないのが奇妙だが、前線で立ち回るカレルに気がついたのは彼がこちらに加勢するようになってから少し時間が経っていた。エリウッドなりリンなり、報告は受けていたのかもしれない。もしかしたら、ヘクトルであれば報告していない可能性もなきにしもあらずだが、兎にも角にもはすっかり失念していた。
 素人目から見ても相当凄い腕前である、この剣の使い手が仲間であると気がついて、は驚いたのだ。
 カレルという名を知れば、すぐに剣魔という呼び名も知ることができた。

 弱者には興味がないらしい。剣を振るうことも、魔道書を詠むこともないのことなど、目にも留めていないようだった。
 ──そう、は弱者だ。戦うすべを持たない。

 ぶん、と振るわれた斧の刃先が、かぶっていたフードを少しばかり切り裂いた。視界が開ける。「!」と、リンが悲鳴交じりの声を上げたのが聞こえたが、竦んだ身体は無様に地面に尻もちをついただけだ。
 見上げた斧が、ひかりを反射してギラリと光る。
 ぞわ、と背筋を駆け上ったのは、紛れもなく恐怖だ。

「目を閉じろ」

 頭で理解するより早く、ぎゅうと目を瞑る。一瞬、雨が降り出したのかと思ったが、生暖かさとむせ返るような匂いに、そうではないと気づく。
 目を、開けられない。
 しとどに濡れたローブを引ん剥く手があった。を立ち上がらせる手があった。そして、頬についた汚れを拭う手も、あった。

「カレル」

 はその手の感触を知っていた。恐る恐る瞼を持ち上げれば、地面に放り出された丸められた己のローブが見えた。は視線を上げて、カレルを見る。
 カレルが刀身の血を拭って、鞘に仕舞う。指先についた血液をその舌先で舐めとる姿は、思わず目を逸らしてしまいそうなほどに、なまめかしかった。「、大丈夫?」リンに声をかけられて、はカレルに見とれていたことに気がついた。

「あ……この通り、大丈夫です。カレルの、おかげです」

 リンに答えてカレルを振り返ったときには、すでに彼は背を向けていた。

「あら? でも、カレルはもっと前線にいるはずじゃなかったかしら」

 リンが不思議そうに首をかしげる。
 はカレルの背に流れる髪を、ただ見つめていた。



「助けて頂いて、ありがとうございました」

 いつも身に着けているローブがなくて、はなんだか落ち着かない心地で頭を下げる。

「わざわざそんなことを言いに来たのか」
「え……可笑しいですか?」

 先の戦場では、礼すら言いそびれてしまった。
 はカレルを前にして、先刻の恐怖が蘇るように背筋が震えた。それを誤魔化すように、は視線を下げた。

「顔まで隠す外套は鎧。張り付けた笑みは処世術。視線を外すは見透かされないための拒絶」
「……っ」
「さて…いつまで、知らぬ存ぜぬというつもりなのだろうな」
「どういう、意味──

 見上げたカレルの口は弧を描いていた。愉快そうに細められた瞳が、を捉える。ぞくり、と背を駆け上ったのが何なのか、には理解できなかった。

「お前は私と似ている。だが、お前はどれだけ血を浴びようとも、穢れることはない」

 カレルの指先が、そっとの瞼を下ろさせる。耳朶に触れるのは、カレルの唇──気づいた瞬間に、頬が熱を持った。

「そうと知っているから、傍に置きたいのか……」
「か、カレル?」
「それとも、お前が私を欲するからか」

 ふっ、と吐息が耳穴に吹き込まれ、はびくりと震える。

「あの、カレル、なにを…」

 は耐えきれず、目を開けた。しかし、カレルの身体が離れることはなく、いまだ耳元にその顔は寄せられている。は身を捩って、カレルの顔を覗き込んだ。
 赤くなった頬を隠すこともできず、情けない顔をした己が、カレルの瞳の中から見つめ返してくる。

「カレル、」

 美しい金の瞳が輝くようだった。さら、と艶やかな黒髪が、の頬を滑っていく。
 カレルの唇が触れる距離まで近づいて、ようやくは瞳を閉じた。そして、はカレルに対する恐れの正体を知った。恋い焦がれる思いを暴かれることが、恋をしたその先を知ることが、はずっと怖かったのだ。

何も見ない何も聞かない何も言わない、

(あなたの傍に居られるのなら)