情緒的な性格は、傭兵に向いていない。
 ガルグ=マクで同じく傭兵であるシャミアに散々苦言を呈されたが、それでもは傭兵としての生き方しか知らなかったのだから仕方がない。だからこそ、自分と同じように傭兵として生きてきたあの“灰色の悪魔”が新任教師となったことは、に大きな衝撃を与えた。とてもじゃないが、には人に何かを教えることなどできそうになかった。

「ま、確かにには無理だろうな」
「シャミアさんに言われると、説得力がすごい。そして、胸に刺さる」

 はうっ、と呻きながら左胸を押さえる。シャミアの冷たい視線が突き刺さって、更に胸が痛んだ。
 これでもシャミアとは長い付き合いなのだ。カトリーヌほど長くはないし、馬が合うとも思わないが、シャミアの言葉は常に冷静かつ冷酷で鋭い刃のようである。

「その豊かな感情は、傭兵にとって不要だな。あの先生ほど表情を殺せとは言わないが、少しは訓練したらどうだ」

 シャミアが小さくため息を吐く。豊かな感情と言っても、アロイスほど大袈裟な喜怒哀楽があるわけではない。
 ただ、依頼人の嘘かもわからない身の上話には、いちいち同情を覚えてしまうのは事実だった。ガルグ=マクに来てからは、そう言ったことがないので気が楽だ。 騎士団の一員として、ただ任務をこなせばいいだけだ。

「いや、わたしはわたし! これでいいんです、どうせシャミアさんみたいにはなれないし……」

 ふ、とシャミアが笑い「そうだな」とひとつ頷く。
 ツィリルとの約束の時間だというシャミアを見送って、武器の手入れでもしようかと踵を返す。

「ひゃうッ!」

 足を踏み出した先に壁のようにそびえ立つヒューベルトがいて、その胸板に顔がぶつかる前には飛び退いた。
 驚きに早鐘を打つ心臓を手のひらで、押さえながら、は首を傾けてヒューベルトを見上げた。くくく、と低い声で笑い声を漏らすヒューベルトがもし己の生徒だったらと思うとゾッとすると同時に、担任教師に同情してしまいそうだ。

「こうも簡単に背後を取れるとは。シャミア殿とは雲泥の差と言わざるを得ません」
「は、はい? 出会い頭に貶すとか、相当頭沸いてると思うけど……あ、ところで何か用かな?」

 目を細めるヒューベルトに言い表せぬ恐怖を覚え、は笑って誤魔化した。

「貴殿の身のこなしには目を見張るものがあると思いましたが、この程度では……」
「はあ。用がないならわたしは行くね」

 あまり関わり合いになりたくない、とは早々に話を切り上げる。
 年下とは思えない長身に加えて、怪しげな雰囲気がにヒューベルトを敬遠させる。貶されるばかりで気分も良くない。「加えて、感情的」と、ヒューベルトが小さく呟く。
 カチンと来るのは事実だが、見るからに賢そうかつあくどいヒューベルトと言葉の応酬をする気にはなれなかった。それに、曲がりなりにも士官学校の生徒なのだから、一応年上として弁えるべきだということもは理解している。

「ああ、気分を害されたのならば謝罪します」

 ヒューベルトが片手を胸に添えて、やけに恭しく頭を下げる。
 はぎょっとして「謝る必要はないよ! うん、全然気にしてない!」と、慌てて顔を上げさせる。ヒューベルト=フォン=ベストラといえば、黒鷲の学級の級長──すなわち次期皇帝たるエーデルガルトの側近であり、言わずもがな帝国貴族である。

「左様ですか」
「はいはい左様にございます」

 周囲の視線が気になって、せめてもう少し人目につかないところに、とはヒューベルトの背を押しやる。喧騒から遠ざかった場所で足を止めたは、ふいに腕を捕われてつい反射的にその手を捻り上げた。

「あ」
「……手荒な方だ」
「いや、今のはそっちが悪い……と思う、けど」

 ヒューベルトの顔が苦渋に歪む。は慌てて両手を上げて、敵意がないことを示した。
 じっと見下ろしてくる威圧感に負けて、は渋々「ごめんなさい」と、小さく頭を下げた。不服さを隠すことはできなかった。

「心の篭っていない謝罪など無意味だと思いますが、まあいいでしょう」

 はあ、とは気のない相槌を打つ。先刻のヒューベルトの丁寧な謝罪にだって、心が篭っているようには到底思えなかったが、いちいち目くじらを立てていたら話が進みそうもない。

「貴殿を見込んで頼みがあります」
「……見込んで」
「ええ。貴殿の奇抜な戦い方を、私に伝授して貰いたいのです」
「……奇抜」
「奇抜という他に、言いようがありますかな?」

 ヒューベルトが、顎に手を当ててわずかに首を傾けた。「気分を害されました」と、は大袈裟に唇を尖らせてみるも怪しげに笑うばかりで、ヒューベルトからの謝罪はなかった。




 ヒューベルトが奇抜と称した戦い方は、トリックスターとしては真っ当で、は素早い動きで相手を翻弄し隙をついて剣や魔法で攻撃する。
 闇魔道の達人であるヒューベルトに理学の教えは不要であるのは明白で、むしろのほうが教わりたいほどだ。訓練場で組み手をしながら思うのは、やはり人には得手不得手があるということである。

 不健康そうな見た目に違わず、ヒューベルトには体力がない。ついでに言えば、筋力も足りない。

「やっぱり、君は得意な理学を伸ばしたほうがいいんじゃないかな」

 肩で息をするヒューベルトが、を睨むように見た。本人に睨んでいるつもりはないのかもしれないが、あまりに鋭い目つきだった。

「……貴殿の言う通りかもしれませんな」
「君が素直なんて、明日には槍が降るかもしれないね」

 本気でゾッとして、は二の腕をさすりながら呟く。「失礼な」と、ヒューベルトが凄むので、はすぐに両手を上げて謝った。

「貴殿を消すことなど造作もない……と言いたいところですが、存外難しいかもしれませんな」
「不穏すぎる。生徒とは思えない」

 息を整えたヒューベルトがくつくつと喉を鳴らすように笑う。は肩を竦めて「じゃあ、そういうことで。まあ、何かあったら頼ってくれていいよ」と、ヒューベルトに手拭いを渡した。
 額の汗を拭うその姿が、あまりにヒューベルトに似合わないのでは小さく笑った。


 また、季節が巡る。
 は呑気にそう思っていた。もうすぐいつもと同じように学生たちが卒業して、大樹の節には新入生を迎えるのだと、信じて疑わなかった。

 折り入って頼みがある、とヒューベルトに呼び出された時もまた、呑気に「わたしを頼るなんて、ヒューベルトもやるな」なんて浮かれた気持ちでいた。

「何、言ってるの?」

 予想だにしない言葉に、は聞き間違いかと思ったのだ。聞き間違いであって欲しかったと言ったほうが正しい。
 ヒューベルトが表情を変えないまま「ベストラ公の暗殺を依頼したい、と言ったのです」と、淀みなく告げた。ベストラ公とは、ヒューベルトの父親であって、つまりは子が親を殺そうとしていることになる。

 はぎゅうと皺の寄った眉根を指先で押さえる。

「ヒューベルト、待って、え? どうして」
「理由を教えなければ、依頼は受けられませんか? 何かあれば頼ってくれ、と仰ったのは貴殿だ」
「そ、そうだけど、でも……いや、よく考えて」
「仕方がありませんな。貴殿が引き受けてくれないと言うならば、私の手で」
「ヒューベルト!?」

 あまりの驚きに声が大きくなって「静かに」と、ヒューベルトの手のひらがの口を覆った。

「相変わらず、感情的な方だ。煩わしい」

 ヒューベルトが舌を打つ。
 は身を捩ってヒューベルトの手から逃れると、素早く距離を取った。

 じっとを見つめるヒューベルトの瞳は、静かで真剣だ。ここでが首を横に振ろうとも、ヒューベルトの意思はもう固まっているのだ。

「……わかった」

 は目を伏せて、小さな声で答えた。ヒューベルトに親殺しなんてことは、絶対にさせたくなかった。

 果たして、物言わぬ父親を見てもヒューベルトには何の感慨もないようだった。
 そして、ガルグ=マク大修道院は、帝国軍によって陥落する。皇帝となったエーデルガルトの傍らには、ベストラ公を暗殺して後継となったヒューベルトがいつものように控えていた。











 雨で視界が悪い。服が張り付いて不快だし、指先がつめたく冷えていくのを感じるが、にとっては都合がよかった。
 人影を見つけて、は素早く物陰に身を潜めた。
 すらりとした長身であることはわかるが、黒づくめの格好で人相がよくわからない。

 帝国軍の動きを掴むための斥候ではあるが、邪魔者の一人や二人消すことなど造作もない。は息を殺したまま、獲物に手を伸ばす。
 けれど、それを相手に向けることはできなかった。

「ヒューベルト」

 に気づいていなかったのか、気づいていてあえて見逃していたのか定かではない。が物陰から現れると「おや、懐かしい顔ですね」と、ヒューベルトが目を細めた。

「シャミア殿と違って、貴殿はまだ教団に身を置いているんでしたな」
「……」
「さて、いくら金を積めばこちらに付いてくださいますか? ああ、貴殿にとって大切なのは、金ではなくて情でしたか」

 シャミアの名前を聞くと胸が苦しい心地がして、は心臓を押さえた。相棒であったカトリーヌとも弟子であるツィリルとも袂を分かったのだ。

殿」

 ヒューベルトがため息交じりに落とした声が、どうしてか柔らかく聞こえた。

「泣くくらいならば、貴殿もこちらに来ればいい」

 伸ばされた手は、容易くに届いてしまう。
 振り解くことなどいくらだってできたのに、の身体はただ引き寄せられて、ヒューベルトの腕に収まってしまう。

「できないよ……わたしには、そんなことできない」

 ヒューベルトの腕の中でゆるくかぶりを振る。「残念です」と、言いながら、ヒューベルトの両腕がぎゅっとを抱きしめて離さない。

「貴殿を葬り去れたら、どれだけ楽か。主の利になると言うのに、感情とはなかなかどうして難しいものですな」

 ふ、と耳元に落ちたヒューベルトの笑みは、自嘲に満ちていた。「なんだ、君にも感情があったんだ」と、はヒューベルトの胸に顔を埋めながら、軽口を叩いた。

「失礼な方だ」
「そっちこそ」

 視線を合わせて、互いに小さく笑う。
 ヒューベルトの手が、そうっとの背を押しやった。雨音に紛れて、ヒューベルトの声が不明瞭に届く。

「この戦いを生き抜いた暁には、私が貴殿を迎えにいきましょう」

 は一瞬だけ足を止めるが、振り向かずに走り出す。
 雨で身体は冷え切っているはずなのに、顔が不自然に熱い。嬉しい、という感情をに誤魔化せるわけがなかった。は天を仰ぐ。

「鬼の目にも涙かな? 雨が槍に代わりそうで怖いよ」

 ──だって、耳朶に触れた雫が温かかった。

(身も心もすべて捧げたつもりだった)