(ヒロイン≠マイユニ)
ボロボロになった魔道書が目に入り、エッツェルはふと視線を止めた。すっぽりとフードを被っていて顔は見えないが、小さく華奢な背格好から女性だとわかる。
ふう、と意味もなくため息が漏れる。
成り行きで加勢することになったマルスの率いるこの軍には、まだ年端もいかない少年少女も戦場に立っていた。あまりに世知辛い。妻の居ない世界はそれだけで残酷だというのに、争いの絶えぬ世は、エッツェルの心を暗く沈ませてならない。
「御気分が優れませんか?」
ふいに、エッツェルの顔を下から覗き込む姿があった。先ほど目に留まったフード姿の魔道士がそこにいて、エッツェルは顔を拝見してと言う名のアリティア騎士であると気づいた。
「顔色があまり良くないように見受けられます」
心配そうに眉尻を下げるを見て、エッツェルはふっと口元を緩めた。
「いや、大丈夫だ」
エッツェルは腰をかがめて、の顔を見つめた。きょとん、と不思議そうに瞳を瞬く様子が、ひどく幼く見えた。
フードを外してやると、が「わっ」と焦った声を上げた。
しっとりと汗をかいた額に髪が張り付いている。頬が紅潮していて、鼻先はそれとは違う赤みを帯びていた。恥ずかしそうに鼻を隠した手は、驚くほどに白い。
「あんたのほうこそ、辛そうだな」
エッツェルの言葉に、がますます眉毛を下げた。砂漠の進軍がよほど辛かったのだろう。魔道士がいかに軽装で砂に足を取られずとも、太陽のきつい日差しを防げるわけではない。何でもないように繕っているようだが、かすかに息が弾んでいる。
ちょうどいい位置にある頭に、ぽんと手を乗せる。「少し休むといい」と、エッツェルは水筒を手渡した。
「……すみません。お心遣い、感謝いたします」
ずいぶんと真面目なようだ。堅苦しい敬語に、エッツェルは肩をすくめることで答えた。
が遠慮がちに水筒に口をつけ、そうしてほっと息を吐く。また遠慮がちに口をつけたが、一口、二口ほどで水筒を傾けるのをやめた。「ありがとうございます。生き返る心地です」と、返却された中身はほとんど減っていない。
エッツェルは小さくため息をついた。途端に、ぎくりとが身を強張らせて、エッツェルの言葉を緊張した面持ちで待っている。叱られる子どものような反応である。
「あんたな……まったく、熱中症で倒れるぞ」
の顔の火照りは少しも引いていない。おもむろに、エッツェルは水筒の口を開けると、その中身をの頭に浴びせる。
「ひゃあ!」
甲高い声を上げて、がうずくまる。その声は、カダイン学院の廊下に思いのほか響き渡った。
ぽたりと雫が滴る。驚いて固まっているのか、怒りに震えているのか知らないが、顔を俯かせたままのの頭に手ぬぐいを乗せてやる。
「いまの声は……」
「大丈夫、ただの治療だ」
心配そうに近づいてきたマルスに向かって、エッツェルはしれっと答える。主君の声に反応してが立ち上がるが、顔を上げられずにいる。「ご心配には及びません、マルス様」と、告げるその声もどこか頼りなく響いた。
マルスが訝しげにに顔を寄せた。
「あれ、日に焼けちゃったんだね」
「……!」
が手ぬぐいで顔を覆い隠した。マルスが目を丸くする。
エッツェルは堪えきれず、小さく忍び笑いを漏らした。
「大丈夫か?」
深くフードを被ったが顔を上げる。カダインの砂漠を越えたと思ったのちに、この死の砂漠である。砂の上でもいつもと同じように動ける魔道士が戦場に駆り出されるのは、当然といえば当然だ。マルスの采配は正しい。
「エッツェルさん」
警戒心や猜疑心といったものが欠片も感じられないような顔で、まっすぐな瞳がエッツェルを映す。
「こまめに水分補給した方がいい」
「はい、お気遣いありがとうございます。やはり、カダインで過ごされた方は、砂漠での在り方を心得ていますね」
堅苦しい言葉遣いはそのままだが、声色は幾分かやわらかい。
エッツェルは魔道書を持つの手が、グローブできちんと指先まで覆われているのを確認する。透けるように白い肌は日焼けに弱いようだった。寒い地域で育ったのだろう。
日差しを遮る大きな影が落ち、はっと息を呑んだが魔道書を開く。空を睨んだその顔は、すでにアリティア騎士の面差しである。ぽわ、と魔道書が光って、風の刃が飛竜を斬り裂いた。
「……見事なもんだ」
エッツェルは呟きを落とした。振り向いたが、ぱたんと音を立てて魔道書を閉じる。
「わたしなんて、まだまだ未熟です」
言いながら、が足を踏み出す。さくりと砂を踏みしめる音が鳴る。
飛竜を警戒して空を見上げるエッツェルは、に意識を向けていなかった。「きゃっ!?」甲高い悲鳴とともに、軽い衝撃がエッツェルを襲った。
「あ、わ、す、すみませ……」
倒れ込んだ身体がエッツェルの胸元に収まる。反射的にしがみついたが、はっとして顔を上げた。慌てて離れようとした彼女を抱き寄せて、エッツェルはシェイバーの詠唱を始める。羽音に気づいたが、ぎゅっとエッツェルのローブを握りしめた。
崩れ落ちる飛竜の口から吐き出される炎が、ちりっとエッツェルの頬を掠めた。大した傷ではない。
腕の中で身を強張らせていたが、細く息を吐き出して緊張を解いた。エッツェルはを解放して「怪我はないか?」と、腰をかがめて顔を覗き込んだ。
「突き飛ばしてくださったらよかったのに」
「仲間にそんな真似しないさ」
「でも、わたしのせいで、怪我を……」
がずいぶんと痛ましげに顔を歪めて、杖を取り出した。掲げたそれから光が漏れることはなかった。杖を握りしめる手が、震えている。
「癒し手は、自分の傷は癒せないのですよ」
泣きそうな顔をして、がますますぎゅうと杖を握る。
「……練習では、失敗していないんだろう?」
アリティア騎士として、彼女が日々精進していることを知っていた。エッツェルは、の手に己のそれを重ねる。
「緊張しすぎだ。心を落ち着かせて、おれに呼吸を合わせろ」
息を詰めていたが、次第に肩の力を抜いて、吐息する。あまりに強すぎる指先の力も消え、手の震えは治まっていた。
杖の先に淡い光が宿る。エッツェルは手を離した。
ふわりとあたたかい光がエッツェルを包んで、頬のひりつく痛みが消えていく。
「やった……」
思わず、といったようにが呟いて、子どものように瞳を輝かせた。しかし、すぐに恥ずかしそうに口元を押さえて、小さく頭を下げる。
「やっぱり、わたしはまだまだ未熟です」
が視線を足元に落として、「あっ」となにかに気づいて声を上げた。エッツェルもその視線の先を追って、苦笑を漏らす。砂に埋もれた財宝が頭を覗かせていた。
「こんなものに足を取られるなんて、不覚でした」
が悔しそうに呟くので、エッツェルは小さく声を出して笑った。エッツェルを見上げたの顔は、悔しげに歪められたままだ。
「わたしがお守りすべきなのに、守られるなんて、自分が情けないです」
エッツェルは肩をすくめる。
「おれはアリティア人じゃない。気に病むな」
「そういう、意味では……」
が戸惑うように視線を彷徨わせて、再びエッツェルを見た。
「──あなたのような方を、戦場に立たせてしまうのが、心苦しい」
まっすぐに見つめてくるその瞳は、太陽の光を受けて輝いているようだった。
この騎士はやさしすぎる。
「エッツェルさんのほうが、よほど腕の立つ魔道士です。でも、本来ならこんな風に戦う必要はありません。それなのに、」
「おれは」
エッツェルは、の言葉を遮る。唇を結んだが、じっとエッツェルの言葉を待っている。
「自分の意思で戦ってる。だから、あんたがそんな風に胸を痛める必要はない」
これは、紛れもない本心だ。
戦争は大嫌いだ。愚行であるのに、人間というのは争いをやめない。戦いの最中でも、エッツェルはふと考える──こんな世界で生きていく意味があるのか。その度に、妻の最期を思うのだ。
「エッツェルさん……」
が眉毛を下げる。エッツェルは、ぽんとの頭に手を乗せる。
「早く平和な世が見たい。頼むぞ、アリティアの騎士様」
わざとおどけて明るく告げる。眉尻を下げたまま、が笑みをこぼした。
戦乱の世で、このやさしい騎士が早死にすることがないよう、エッツェルは心の中で小さく祈った。