「紹介しますわ。わたくしの、唯一無二の親友ですのよ」

 と言う名の娘は、クレアとはまるで正反対だった。
 兄のあとをついて回り、騎士の真似ごとをして槍を握るようなクレアの親友が彼女とは、奇妙なものである。

 ドレスの長い裾に煩わしさを覚えたことなどない様子で、彼女の走る姿などは目にしたことがない。花を愛で、刺繍や読書を好んだ。いつも伏し目がちに遠慮している素振りで、声ひとつ立てずに笑う。
 つい妹と比べて、クレーベは内心で感嘆した。ただ、クレーベはクレアに同じものを求めようとは思わない。
 を前にすると、まるで綺麗なお人形を相手にしているような、妙な感覚になるのだ。


 一度、クレーベはと踊ったことがある。
 とても正確なステップを踏んだ。きちんと普段から練習しているとわかる動きだった。社交界でいつも壁の花になっているから、ダンスが苦手とばかり思っていたが違うらしい。けれど、それきり二度と手を取ってはくれなかった。

 艶やかな髪を背に垂らし、控えめな色のドレスを纏って、壁際に佇むの姿はまるで絵画のようにも見える。クレーベは幾人かと踊ったのち、を見つけて踊りの輪から抜け出した。
 名残惜しそうな女性たちの視線を振り切る。近づくクレーベに気づいて、が顔を上げた。

「やあ、

 がドレスの裾をもって、恭しく首を垂れる。

「そんなに堅苦しくしなくていいよ」
「親しき中にも礼儀あり、と言いますもの。いくらクレアのお兄様とはいえ、そういうわけには参りません」
「困ったな……君はいつもそうだね」

 すこしだけ意地の悪い言い方をすれば、が申し訳なさそうに視線を下げた。
 だが、初めて会ったときからのこのあまりに畏まった態度は変わらず、何度顔を合わせても軟化する様子は見えない。見えない壁が隔てられている感覚がして、クレーベは虚しさを覚える。

「……クレーベ様に不快な思いを──
「い、いや、すまない。私の言い方が悪かったね」

 が不安そうに胸元で手を重ねる。綺麗に整えられた指先が細かく震えていることに気づいて、クレーベは小さく息を呑む。

「すまない、本当にそういう意味で言ったわけではないんだ」
「いえ、わかっています。わたしは……意固地で融通が利かない、と良く……」

 が一度、視線を上げた。
 硝子玉のような瞳に、広間の華美なシャンデリアの光が反射して、キラキラと輝く。その美しさにクレーベは目を奪われたが、がさっと目を伏せてしまう。

「申し訳ございません。努力致しますけれども、あの、すぐにはとても……」
「無理を言ってしまったね。私はただ、もう少し君と仲良くなれたら、と思っただけなんだよ」

 胸元の手がぎゅっと握りしめられる。「わたしと」と、色づく唇から呟きが落ちた。
 困り果てた顔がクレーベを見た。はじめて見るその表情に、見えない壁は意外と容易く壊せるものなのかもしれないと思った。
 くす、とクレーベは笑みをこぼして、頑なに握られたの手をやさしく取った。

「では努力の一歩を踏み出そう。まずは一曲、踊ってくれるかな?」

 が躊躇いがちに小さく頷いた。




 クレーベ様と、と囁く声が聞こえてくる。当然の耳にも届いていて、時おり不安そうな視線がクレーベを見上げた。
 相変わらず、正確なステップで、すこしの危うさもない。
 ふわりと髪が揺れて、白い首筋が露わになる。近づいても香水のにおいはなく、ほのかに石鹸が香る。クレーベが先ほどまで踊っていた貴婦人方とは、違っていた。彼女には下心の欠片もないのだ。

「クレーベ様」

 が小さく囁いた。気がつけば、二曲目に入ろうとしているところだった。

「このまま、もう一曲」
「で、ですが、クレーベ様と踊りたいという方は沢山いらっしゃるはず」
「この手を離したくない」

 重なる手を握り、クレーベはの瞳を覗き込んだ。すこし伏せた目に長い睫毛がかかって、影を落としている。言葉を探すように、の唇が戦慄いた。
 腰に添えた手で、ぐっと身体を引き寄せる。クレーベの動きに合わせて、気持ちいいほどに、の足がごく自然な動作で付いてくる。

「以前踊ったときも思ったけれど、とても上手だね」
「お褒めに預かり光栄です」

 決まり文句のような返事である。伏し目がちの顔は、やはりどこか人形めいて見えた。
 クレーベは小さく苦笑を漏らし「世辞ではないよ」と、告げる。不思議そうな瞳がクレーベを見つめた。


 曲が終わると、を押し退けるようにして、貴婦人方がクレーベを囲んだ。「次はわたくしと」「クレーベ様」「私ではいけませんか」と、次々に黄色い声が上がるが、クレーベにとってはほとんどBGMと差異なかった。
 が恭しく首を垂れるのが見えた。彼女もまた、別の男性に声を掛けられているようだったが、広間の中央からは離れていった。







 ゆるやかな落ち着いた曲が流れている。いまは踊りに興じる者も少なく、クレーベもようやくダンスをせがむ貴婦人たちから逃れることができた。
 ぐるりと広間を見渡してみても、の姿を見つけることはできなかった。

「お兄さま、をお探しでして?」
「クレア」
「久しぶりにが踊るところを見れましたわ。流石はお兄さま、どうやってをその気にさせたんですの?」

 クレアが興味深げに瞳を輝かせる。クレーベは微笑むのみで、答えは黙した。

「……なら、テラスですわ」

 望んだ答えを得られずに、不満そうに唇を尖らせながら、クレアが耳打ちする。
 クレーベは礼を言って、テラスに向かった。流石に妹との会話に割り込むほど不躾な貴婦人はいないのが幸いである。

 ひやりとした空気は、ダンスにより温まった身体を冷ますのには心地よかった。テラスの手摺を掴んだまま、が振り返る。暗がりの中、広間からの灯りを受けて、明るく照らされたの顔が見えた。

「クレーベ様……」
「寒くはないかい?」

 近づくクレーベをすこしだけ警戒した素振りで、がわずかに距離を取った。

「お気遣いいただきありがとうございます」

 見えない壁は、やはりそこにあるようだ。
 クレーベはそれに気づきながら、そっとの肩を抱いて引き寄せた。「クレーベ様」と、が戸惑いながら、咎めるように声を潜めて名を呼ぶ。

「すまない。自分で思っていたよりも、私はずっと欲張りなようだ」
「えっ?」

 クレーベは広間からの姿を隠すように、腕の中に閉じ込めてしまう。

「君を離しがたい」

 耳朶に唇を触れて囁けば、の身体がびくりと跳ねた。身を捩って抵抗する様子はないが、応えるように手を回してくる様子もない。ただ人形のように立ち尽くしているだけだ。
 震えた吐息がの唇から漏れる。

「クレーベ様、お戯れをおっしゃっているのですか?」
「まさか」
「…………でも、わたし、は……」

 クレーベはの顔を覗き込んだ。そこにあるのは、綺麗なお人形などではなかった。
 伏せられた瞳には涙が浮かんでいた。クレーベは慌てて身を離した。

「っ、すまない、君を傷つけるつもりでは……!」
「ち、違うのです、クレーベ様」

 もまた慌てた様子で涙を拭うが、次から次へと涙粒が落ちていく。恥じ入るようにが顔を俯かせる。

「わたしなどがクレーベ様とお近づきになるなんて、クレアと親しくしていても、許されません」
「何故そんなことを」
「……わたしは婚約を反故にされるような至らない人間です」

 に婚約者がいたとは、クレーベは初耳である。が顔を伏せたまま続ける。

「物心つく頃から、その方に嫁ぐのだと信じて疑わず、花嫁修業にも励みました。ですが、彼はわたしではない女性と結婚なされました。わたしよりも良家の方と縁談が纏まったと聞き及びました」
「……
「わたしは殿方がこわいのです。クレーベ様のお人柄もよく存じ上げているのに、それでもまた裏切られるのではないかと思ってしまうのです。あなたのお言葉を信じたいのに──

 彼女の声音は平素と変わらぬものだったが、それは確かに痛ましい悲鳴だった。
 クレーベはの言葉を遮って、彼女をかき抱いた。

「君の言いたいことは良くわかった」

 の涙が、クレーベの胸元をじんわりと濡らしていく。もはや見えない壁など取り去られていた。涙に濡れた頬に手を添えて、クレーベはの顔を覗き込んだ。硝子玉のような瞳が涙で輝くように見えた。

「それでも、これは戯言などではないと、どうか信じてほしい」

 クレーベはやさしく微笑む。「クレーベ様」と名を呼ぶ声には、戸惑いもなく咎めるような響きもなかった。

(さながら王子様のようですのよ、と妹は誇らしく語る)