某月某日、酒を嗜む程度に口にした彼女は、あっという間に酔ってしまった様子で泣き出した。どうやらアルコールに対する耐性が極端にないらしい。そして、笑い上戸だと思っていたが、それは間違いで泣き上戸であるらしい。


 開いた手帳にはそう記されていた。
 彼女、とはのことである。理魔法を使う魔道士だが、優秀な私には全くもって恐るるに足らない、至って凡庸な実力の持ち主だ。特筆すべきところはない。数日観察した結果、私はそう判断を下した。

 しかし、そんなふうに観察を続けていたらどうやら気づかれたようで、今度はに声をかけられるようになった。いつの間にか、軍の中でと共にいることが多くなった。それは別段苦ではなかったので、何ら問題はない。
 観察しているだけではわからなかったのだが、近くにいるうちに気づいたことがある。
 は、人に好かれる性質をしている。

 稀代の天才魔道士である私に気後れして、皆声をかけ難く思っているのは致し方ない。平凡というほかないの周囲には、自然と人が集まって、笑い声が絶えない。
 私がを笑い上戸だと思っていたのは、いつも誰かと笑い合っているからだ。

 ぺら、とページを捲る。
 某月某日、私は気がついてしまった。そう書き出してあるその先を、私は指先でなぞる。

「どうやら、はアスレイのことが……」
「えっ!? る、ルーテ!」

 慌てた声と共に、が駆け寄ってくる。私は手帳を閉じて、振り向いた。
 私の趣味は、アスレイの観察である。もはや、隠れようと堂々としていようと、私の視線など気にも留めないアスレイを観察するのはやや面白みに欠けるのだが──そう、優秀な私はあることに気がついたのだ。

。あなたは、アスレイのことが嫌いなのですね」

 アスレイと話すときだけ、はちっとも笑わない。笑わないどころか、視線も合わせようとしない。
 が「え?」と、目を丸くする。

 アスレイは修道士らしく、穏やかで優しい人柄をしているため、そうそう人に嫌われるようなことはないと思うのだがまあそう言うこともあるだろう。幼なじみとして少々残念だ。

「一言だけ言わせてください。アスレイは、悪い人ではありません」
「……そう、ね」

 私に気づかれてしまったことが相当気まずいのか、は歯切れ悪く答える。

「嫌いな人間の一人や二人、誰だっているのでは? そんなに気に病むことはないと思います」
「どうしてわたしがアスレイさんを嫌いだって……わかったの?」
「私、優秀ですから」

 納得いかないような顔をして「アスレイさんにもそう思われてるかしら」と、が不安そうに呟く。好意には好意を返すように、悪意には悪意を返す者もいるが、アスレイは違う。せいぜい、嫌われていることに胸を痛める程度だ。

「ルーテ、アスレイさんには言わないでね」

 私の手を掴んで、が真剣な顔で言う。
 口が軽いと思われているようで心外だ。少しだけ、憮然とした表情を作る。

「言いませんよ」
「約束ね」

 がなおも念を押すように言った。信頼もされていないようで、ますます心外である。私が眉をひそめて見せると、ようやくが慌てて手を離した。




 軽い音を立てて、何かが落ちる。
 私がそれを拾い上げるより早く、向かいから伸びてきた手が届いた。「ありがとうございます」と、礼を言って受け取ろうとしたが、すぐには手渡されなかった。とあるページを開いたまま固まっているアスレイを、私は冷ややかに見つめる。

「勝手に見ないでくれますか」
「……ルーテさん、これって」

 アスレイは戸惑っているようだった。
 不思議に思い、手元を覗き込んで「あっ」と思わず声が漏れた。

 はアスレイのことが嫌いらしい、と文字が綴られている。勿論、私が書いたものである。よりにもよってそのページを見るなんて、アスレイはついているのかついていないのか。
 私はぽん、とアスレイの肩を叩いた。

「そう気を落とさずに」
「え? あ、ああ……はい、そうですね」

 アスレイが苦笑を漏らし、手帳を閉じる。

「それにしてもルーテさん、あまり人様を観察するものではありませんよ」
「大丈夫ですよ。相手は選んでますから」

 そもそも、観察したいと思えるような対象は、あまりいない。面白いことなどそうそうないのだ。の観察だって、一月と経たずにやめている。
 今の観察対象はアスレイのみである。

 じいっ、と私は無遠慮にアスレイの顔を見つめる。
 に嫌われている──アスレイには思いもよらぬことだったのか、随分と驚き呆けた様子だった。小さくため息をついたアスレイは、顎に手を当てて物思いに耽っている。長年観察してきたとはいえ、何を考えているかまでは読むことはできない。
 あの、とアスレイが口を開いた。

「私を嫌っていると、さんが言っていたのでしょうか?」

 問われ、思い返してみる。はっきりと嫌いとは言っていなかったが、私に指摘されて狼狽えていたし、否定もしていなかった。

「言われてみれば、嫌いだと言っていたわけではありませんね。まあ、私はあなたの幼なじみですし、はっきり告げるのは憚られたのではないでしょうか」

 そうですか、とどこかホッとしたようにアスレイが呟いた。


 いつものようにアスレイを観察していて、私はその変化にすぐに気がついた。何故なら、私が優秀だからである。

 アスレイはやたらとに絡んでいる。
 嫌われている、という事実をどう受け止めたのか、一度詳しく聞いてみたいところである。仲良くしようとしているのだろうか。まさか、嫌がらせをしているわけではあるまい。

 アスレイを見ていると、必然的にの姿も目に飛び込んでくる。いつも笑っているだが、アスレイを前にすると途端に顔を強張らせ、目を伏せる。驚くほどの変わりようだ。この態度の変化を持ってしても、アスレイは嫌われていることを勘づいていなかったというのならば、よほど彼は鈍いのかもしれない。

 某月某日、アスレイは懲りずにに声をかけている。はまるで聞こえていないかのような態度を取っており、顔も見たくないと言わんばかりに俯いている。
 私は見たままを手帳に綴った。

「……アスレイさん、ルーテから何か聞いたのね」

 ふいに私の名前が聞こえて、筆を止める。断っておくが、私は別にアスレイに伝えたわけではない。手帳の中身を見られてしまったのは、いわば不慮の事故である。

「ルーテさんは、あなたが私を嫌っていると言っていましたが……私は、そうは思っていません」

 ……何故?
 私は理由がわからずに、首を傾げながら二人の会話に耳を傾ける。

「待っ……ち、近いっ、アスレイさん!」
「すみません。ですが、こうでもしないと、さんの顔が見られないではありませんか」
「だからって……!」

 アスレイがに迫っている。逃げるように身をよじるの肩を抱きよせて、頬に手を添えて顔を固定している。一見、なよっとしているアスレイだが、が押し返してもびくともしていない。がか弱いのか、アスレイが意外と逞しいのか、考察する必要がありそうだ。

 私は黙ってそのまま観察を続ける。ふと、の顔に赤みが差していることに気づいた。発熱だろうか、いや、先ほどまではそんな顔色はしていなかったはずである。

「私もルーテさんのことを言えませんね。ルーテさんに迷惑を掛けられていないかと、お二人の様子を見ていたら、いつの間にかあなたばかり目で追うようになってしまいました」

 アスレイが懺悔するかのように告げる。私が迷惑を掛けるだなんて、失礼な物言いをするものだ。
 しかし、ばかりを見るようになったとは、そんなに面白いものが見られたのだろうか。私は首をひねる。

「き、嫌ってないわ!」
「……本当ですか? 私の目を見て、正直に言ってください」

 まさか、がアスレイを嫌っていないだなんて。ならば何故、あんな態度を──

 が伏せていた目をアスレイへと向けた。
 少しアスレイが動いて、私からは彼の背中しか見えなくなる。アスレイは私が観察していることに気づいているのだ。

「わたし、アスレイさんのことが好きよ」

 なるほど。
 残念ながら、優秀な私にも不得手があったようだった。これ以上観察するのは、さすがに野暮というものだ。去り際にアスレイの声が聞こえた。

「良かった。私も、同じ気持ちです」




 某月某日、と綴ったところで、私は手を止めて顔をあげた。

「その手帳、もう落としたりしないでね」

 が苦笑まじりにそう言ったが、この手帳をアスレイに見られたおかげで二人は結ばれたのだ。むしろ、感謝して欲しいくらいである。
 とは口に出さず、私は黙って手帳を閉じる。

「ルーテ、その、本当のこと言えなくてごめんね」
「構いません。ですが……そうですね、理由を聞いてもいいですか?」

 軍の中では一応親しい間柄だというのに、本音も語れないとは、これはいかに。

「だって、二人は両想いだと思ってたから」
「それは……とんでもない勘違いですね。私はアスレイをそんなふうに見たことは、一度だってありません」
「……アスレイさんは、そうは見えなかったけど」

 がぼそっと呟く。他人の気持ちなんて、どうなのかは本人にしかわからない。私たちがあれこれ言ったって、アスレイに聞くしか答えは得られないのだ。

「まあ、今回のことで私も勉強になりました。恋愛小説、読んでみたんです。あなたも興味ありますか?」

 桃色の表紙を見せる。正直言って、これを読んでもあまり学べる気はしない。
 ただ、いずれ、私も恋をするのならば。

「じゃあ、ルーテが読み終わったら借りようかしら」

 ──のように、幸せそうに笑ってみたいと思うのだ。

は沈黙する

(まさかあれが恋する態度だとは思いもしませんでした)