アルフォンス王子は、すこしだけ眉尻を下げて、でもやさしく目を細めて笑うひとだった。
妹君の突拍子もない発言を咎めながら、特務機関隊長のとんでもない思いつきに苦言を呈しながら、仕方がないなというふうに笑うお顔がすきだ──ということは、誰にも告げたことがないしこれからも言葉にするつもりはない。
この国の王子という立場にもかかわらず、彼は父である国王陛下との接触を禁じられているため、王城に近づくことはない。したがって、王妃ヘンリエッタ様の近衛騎士を務める私は、王子殿下の顔を見ることすら困難である。
シャロン王女とそっくりで、稀に突拍子もないことを言っては私たちを困らせる王妃の、これまた突飛なご命令がなければ、私はもう何年もずっと彼の顔を拝むことができなかったかもしれない。
「そうだわっ」
いいことを思いついた、と言わんばかりに王妃が両手を合わせる。「ねえ、お願いがあるんだけれど」と、そんなふうに切り出すのはいつものことで、その時点で私にとってはもはやお願いではなく命令なのだということを、いまだに王妃は理解していない。
「特務機関に行って、あの子たちの様子を見てきてくれる?」
いつもは辟易する王妃のお願いだったが、このときばかりは二つ返事で頷いていた。
特務機関の拠城には多くの英雄たちが集っていて、私は異界の大英雄と呼ばれる召喚師が現れたということを思い出した。見慣れない顔は不思議そうに、あるいは不審そうに私を見ているが、声をかけてくる者はいなかった。
ずいぶんと賑やかになったな、と思う。エンブラ帝国との戦いは激しさを増していると聞き及んでいるから、英雄たちはアスク王国のために尽力してくれているのだろう。
突然異世界に呼ばれ、力を貸してほしいと言われたら、私はそれを受け入れられるだろうか。アスクといい、エンブラといい、異界と繋がるなんて難儀な力を得ているものだ。
「あれ? さんじゃないですか!?」
王妃とよく似た明るい金の髪を揺らして、駆け寄ってきたのはシャロン王女だった。「ご無沙汰しております」と、私は膝をついて首を垂れる。王女も王子も、王妃ですらそういった態度を求めていないことは知っていたが、礼節を欠くことはできない。
シャロン王女がすこし焦った様子で、私の手を取って立ち上がらせる。
「もー、さんってば! そういうのいらないんですっ」
ちょっとだけ怒ったように言って、それからすぐに不思議そうに首をかしげる。
「どうしてここにいるんですか?」
「ヘンリエッタ様の命で、特務機関の様子を見に来ました」
正確には、王子と王女の様子なのだが、直接伝えるのは憚られる。さすがに私情がたっぷりすぎる。
「なるほど……特務機関の視察ですね! でも心配いりませんよ、なんていったってうちには、あの夢に見た救世主がいるんですからねっ!」
シャロン王女が胸を張って、えっへんと言わんばかりに得意げな顔をする。
王女とは手紙のやりとりもしているというし、この元気そうな様子を見れば心配なさそうだ。こうして特務機関の制服に身を包んだシャロン王女は、とてもドレスを着ていた姫君だったとは思えないくらい、勇ましい。
「そうですか。シャロン王女がお元気そうで、安心いたしました」
「はい! わたしは元気いっぱいですよ」
ニコニコと嬉しそうにする王女を前にすると、私も頬が緩む。
はっきり言って私は、王族がいくら異界の扉を開く力持っていようとも、機関に所属して活動するなんて反対だった。というか、いまも反対だ。国王陛下も反対なされていたけれど、それを振り切って王子は機関へ入った。王女も然り。
「お怪我はありませんか? ヘンリエッタ様はいつもお二人の身を案じています」
こうして王妃の名を出せば、王女がぐっと言葉を詰まらせる。私だって心配なのだと声を大にして言いたいのだけれど、それよりもやはり肉親の言葉のほうがずっと身に染みるというものだ。
「そ、そうだ、わたしが機関の中を案内しますよ! 行きましょう」
話を逸らして、王女が私の手を引く。あまり責めても可哀想なので、「お願いします」と手を握り返す。ほっと息を吐いた王女が、これまた嬉しそうに顔を綻ばせた。
ふと、シャロン王女が足を止めたので、私もそれに倣って立ち止まる。「お兄様ー!」と、それほど遠い距離ではないのに声を張り上げて、王女が大きく手を振って見せた。
シャロン王女の大きな声に振り向いた王子殿下は、やっぱりいつものように笑みをこぼした。
そして、私に気づいた彼はちょっとだけ驚いた顔をする。
シャロン王女にしたように、王子に向かって膝を折る。けれども、王子も同様に膝をついて顔を覗き込んできたので、私は慌てた。
「お、王子」
「久しぶりだね、」
とても自然な仕草で、王子の手が私の手を恭しく取った。すっと引っ張り上げる力は、あまり労力を必要としていない様子で、何故だか男女の差を思い知らされるようだった。
「シャロン、城を案内してくれたのかい? あとは僕に任せて。と話がしたいんだ」
素直に頷いたシャロン王女が「では、また!」と、まばゆいばかりの笑顔を向けて、手を振っていた。大仰に見送られるような気がして、気恥ずかしさのようなものを覚えた私は、思わず曖昧な笑みを返した。
「父上に僕らを連れ戻せとでも言われた?」
それが冗談であるとわからなければ、私は恐縮していただろうか。意地の悪い物言いだが、私を見るその顔は穏やかそのものだ。
「国王陛下は何もおっしゃっていません。気になりますか?」
「気にならないと言えば嘘になる。は……父上と同じように、僕が特務機関に入るのを反対していたね。いまも同じ気持ちかい?」
王子が確かめるように、じっと瞳を覗き込んでくる。私はすこしだけ目を伏せた。「当たり前です」と答えた声は、もしかしたら震えていたかもしれない。
「どうして、アルフォンス王子が戦場に、それも先陣切って立たなければいけないんですか? できるなら、私が、あなたの盾にも剣にもなりたい」
お傍に、とは言えなかった。
アルフォンス王子は視線を逸らさずに、私を見つめていた。ふう、と王子が小さなため息を漏らす。
「……心配かけてごめん」
すこしだけ眉尻を下げて、やさしく目を細めて、王子が笑む。私のすきなその笑みを私に向けて、幼子を慰めるようなやわらかい響きで、言葉をくれる。
胸がいっぱいになる。答えるべき言葉が、口から出てこない。
私は、泣きそうな顔をしていたのかもしれない。戸惑ったように動いた王子の手が、私の目尻をそうっと撫でた。びく、と小さく身体がぶれる。反射的に目を瞑った。
「」
アルフォンス王子の声が耳を打つ。目元から離れた手が頬を包むのがわかった。
「わーっ、押さないでください!」
「うわあっ!」
「危ない……!」
「いったーい! やだ、ちょっと……って、あ……」
廊下の曲がり角の向こうから、なだれのように人が崩れてくる。初めに聞こえたのは王女の悲鳴で、最後にはアンナ隊長の声だ。アンナ隊長と目が合うと、彼らはそそくさと壁の向こうへと消えていく。
「……えっと、……」
「……ごめん」
「あ、いえ、王子が謝ることは何も……」
私は慌てて言うが、王子の眉間には皺が刻まれていた。はあ、と呆れたようにため息を吐く。そして「」と、仕切りなおすように名を呼んだ。背筋が伸びる。
「エンブラ帝国との戦いを終えたら」
王子が一度そこで唇を結んだ。
その言葉の続きは、私だけに聞こえるように声を潜めて、耳元に小さく囁いた。
「必ず君を迎えに行くよ」
アルフォンス王子の声が、言葉が、身体全体に染み渡っていく──
私は王子に相応しくない、と理解しているつもりだった。ただの近衛騎士が王子に懸想するなんて、畏れ多い。お戯れを、と脳内の私は冷静に答えていたのに。
「お待ちしています」
私の口は勝手に動いていた。頬に添えられた王子の手が動いて、目尻に触れた指先は今度こそ涙を拭った。
「お兄様、やりますね!」
「アルフォンスも隅に置けないわね」
隠れるつもりをなくしたシャロン王女たちの声が聞こえて、やっぱり王子は仕方ないなというふうに笑った。