ループ初日の話し合いのあとは、いつも気力も体力もひどく消耗する。食堂で、ステラが淹れてくれた紅茶を口に含んで、はほうと息を吐いた。
今回は、乗員十五人全員が揃っている。それだけで気が重い。
セツと情報交換を、とも思ったが、先の様子を見るにどうやら芳しくない。セツの役割は定かではないが、嘘をついていたことだけはわかる。つまり、ただの乗員であるの味方ではないということだけは確かなのだ。
「フフ、このジョナスの船の乗り心地はどうだね?」
ジョナスに声をかけられ、は思わず眉をひそめた。
正直言って、疲弊しているところにジョナスの相手はしたくなかった。さらに疲れるのはわかり切っているし、もしも彼がグノーシアだった場合は足を掬われそうだ。
けれど、まだ互いを知らぬうちには、邪険にしすぎて敵を作るのは得策ではない。
「ええと……すごく快適で、宇宙にいることを忘れてしまいそうなくらい」
「ほう、それは何より。ところで……私の船だと知っていたのかな?」
しまった、と思うが、はそれを表情にはおくびも出さなかった。「知らなかったから、びっくりしたよ」と、微笑んだまま答える。初めてこの宇宙船がジョナスのものだと聞いた時がいつだったのかは忘れてしまったが、確かに驚いたものだ。
双眸を細めるジョナスの考えは、読めない。
口元の弧はそのままに、ジョナスがの真向かいに座る。まだ対話は続きそうだ。は内心でうんざりしながら、緊張に背筋を伸ばす。
「ステラ」
はい、とステラがすぐにジョナスのそばに控えた。「ワインを」と、ジョナスの言葉にステラが一瞬呆れた顔をしたのを、は見逃さなかった。
「はい、ジョナス様。今お持ちいたします」
「ジョナス、ステラは小間使いじゃないでしょ」
苦言など聞く耳持たずと言った態度で「そう目くじらを立てずともいいだろう? 刻を越えた数奇なる出会いに乾杯しようではないか」と、ジョナスが笑みを深める。
ジョナスの言葉は回りくどい。
嘘かまことかわかりにくいし、難解な言葉で本心をはぐらかす。
はじっとジョナスを見つめた。乾杯しようと言ってくれるということは、嫌われてはいないようだ。もっとも、信頼されているとは言えまい。がこうしてジョナスを探るように、ジョナスもまたを敵か否かと見定めようとしているのだろう。だからこそ、気を抜くことは許されない。
まだ初日だ。親しくするのが無難か。
「わかっ──」
「きゃ!」
ステラの短い悲鳴にの言葉が遮られる。
グラスを二つ手にしたステラが躓き、は咄嗟に手を伸ばして彼女を支えた。倒れることは免れたものの、グラスの中身は宙を舞った。
パシャっ、と赤ワインがの服と、ジョナスの服を汚した。
「あ……」
「まあ大変! ああっ、申し訳ございません!」
「いや、濡れただけだから大丈夫だよ。ステラ、怪我は……」
「早くしないと染みになってしまいます! さあ、お二人ともシャワールームへ。お早く!」
足を捻っていないか確かめようとしたが、ステラに早口で捲し立てられて、は閉口する。ステラがとジョナスの手を引いて、シャワールームへと駆ける。
「す、ステラ、そんなに急がなくても」
「いいえ、時は一刻を争います」
「え? そんな大袈裟な、」
は戸惑いながらジョナスを見やるが、助け舟はこない。いつもの回る口はどうした。
幸いシャワールームを使用している者はいないようだった。がほっとしたのも束の間、ステラがなんと空いているシャワールームにジョナスごと押し込んだ。
「ステラ!?」
着衣のまま、シャワーが降り注ぐ。ドアが閉じられる間際に見えたステラの顔は、恍惚と微笑んでいたように見えた。
「……全く、これでは濡れ鼠ではないか」
ジョナスが濡れた帽子を脱いだ。
は呆然とドアを見つめていたが、ハッとして振り返った。鼻先が、ジョナスの肩に触れる。シャワールームは存外狭い。
「ご、ごめん。わたし、隣を使うね……」
ドアに手をかけるも開かなかった。は項垂れる。
「どうした? 早くしないと、手遅れになるのでは?」
「平然と服を脱がないで……」
視線の先にジョナスの剥き出しの上半身があって、は慌てて顔を背けた。とあるループで目にした身体だが、直視できるはずもない。
フフフ、とジョナスが笑う。
「肉体はいつか朽ちる。この身体は、いずれは醜く老いていくのみ……ああなんと残酷なことか」
「……」
「さて、そのままでは気持ち悪かろう。ジョナスめが手伝って差し上げようではないか」
「えっ、ちょ、っ」
ジョナスの手が伸びてきて、逃れようにも狭いシャワールームではすぐに背が壁に行き当たる。「じ、自分で」と、首を横に振るを無視して、ジョナスの指先がワイン色に染まる胸元に触れた。
「じょ、」
の唇にジョナスの人差し指が押し当てられる。
「ジョナス、と声高に叫んでもよいのかね? 無論、私は構やしないが君はどうだろうな」
「……自分で脱ぐから、触らないで」
は非難の目を向けながら、ふいっとジョナスに背を向けた。「ふむ、羞恥心というものか」と、ジョナスが驚くほどデリカシーに欠けた発言をする。
罵詈雑言をなんとか飲み込んで、はようやく服に手をかけた。ジョナスの言うとおり、濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
「LeVi、照明を落としたまえ」
ふっ、と明かりが絞られると共にオレンジ色に変わった。互いの姿が見えにくくなったことはありがたいが、かえってムーディーな雰囲気を作り出している。
「これならば、何も恥ずかしがることはないだろう」
「えっ」
がもたもたと服を脱いでいたら、再びジョナスの手が伸びてあっという間に服を剥ぎ取ってしまった。年の功か知らないが、手練れにも程がある。
呆然としているの身体を反転させると「おや、こっちまで染みてしまったか」と、ジョナスが胸元の下着に指を這わせたかと思えば、止める間もなく取り去ってしまう。かあっ、とは頬が紅潮するのを感じる。濡れた裸体が目の前にあって、はどこに視線を置いたらいいのかわからない。
ループを繰り返して、この船でもう何日も過ごした。けれど、こんなことは一度だって、起こったことがない。夢を見ているのかもしれない、とは思わず頬をつねったが、痛いだけだった。
「おやおや、こんなところにもワインが付いたのかな?」
ジョナスの指先が頬を撫でる。びくっ、と肩が跳ねたが、それを誤魔化す術がない。
「からかわないで」
「フ……まるで無垢な少女のように初心だが、果たしてそれは演技か否か……」
「…………」
「黙ってしまってよいのかな? このままでは状況は悪化するばかり、否、もしやそれをお望みかな」
貞操の危機を逃れるべく、脳内であの手この手を試みるも、ロクな案が浮かばない。疲れているせいだろうか。
いっそこのまま流れに身を任せてしまったとしても、どうせこのループが終わればリセットだ。幾度も繰り返すループのなかで、一度や二度くらい投げやりになったって許されるのではないか。
シャワーが肌を打ちつける音しか聞こえない。ジョナスの瞳がすぐそこにある。赤みがかった紫暗色の瞳が、ゆっくりと閉じられる。
「時間切れだ」
唇が重なる。
顎髭が触れて、こそばゆくて少し痛かった。
にはこのループより前の記憶がない。だから、こういう時にどうするべきかを知らなかった。
閉じた唇の表面を舌が這い、は身を強張らせると同時に、口を固く閉じた。フ、と笑う気配がして、ジョナスの舌先はの唇をこじ開けた。
「っァ……」
の呻くような声を、シャワーがかき消す。
ぐ、と肩を掴まれて、壁に身体を押しつけられる。何も纏っていない身体が密着するが、には押し返すことができなかった。むしろ、はジョナスの首に縋るように腕を回して、崩れ落ちそうな自身を支える。
湯気でぼやける視界に同調するように、思考が靄がかっていくような気がした。
だめだ、やめなければ、これ以上はいけない。の脳内が警鐘を鳴らしている。
「は、……じょ、な」
はゆるく、ジョナスの肩を押した。濡れて張り付く前髪の隙間から、ジョナスの愉快げな瞳が覗く。「どうした? フフ、もう降参かな?」囁く吐息が唇に触れる。
至近距離で見つめ合うことに堪え切れず、は目を閉じた。
「様、ジョナス様。お着替えの用意ができました」
ステラの声に、はぱちりと瞳を開ける。身を離したジョナスが、不機嫌そうに前髪をかきあげる。
「お楽しみはこれからだと言うのに、無粋だな。ステラ」
「まあ、何のことでしょう? さあ様、こちらへどうぞ」
うふふ、とステラの笑い声にはどこか含みがある。
はステラに手を引かれて、バスローブに身を包まれる。ぼんやりとした心地のまま、シャワールームのベンチに腰を下ろす。いつの間にか、ステラがの濡れた服を回収していた。
「こちらは、わたしが洗濯しておきます」
「え? ううん、大丈夫。そのくらい自分で……」
にこりと微笑まれて、は口を噤む。シャワーの音が止まって、ステラがジョナスにもバスローブを着せている。
「。フフ、ジョナスを裏切ってくれるなよ」
ほとんど濡れたまま、ジョナスがシャワールームを後にする。は深いため息を吐きながら、顔を覆って項垂れる。
「ステラ、わざとでしょう」
「これがジョナス様のおっしゃる“些細なきっかけ”かもしれません」
「ステラ」
「ふふっ、ごめんなさい。ジョナス様を見つめる様が、可愛らしくて」
食堂でのことを言っているのだとすれば、はそんな気持ちを微塵も抱いていなかったし、はたから見てもそういった雰囲気ではなかったはずだ。
項垂れたままのの頭にタオルを被せて、ステラの手がやさしく髪の毛の水分を吸い込ませる。「空間転移まで、さほど時間がありません」と、手はそのままにステラが告げる。
「ジョナス様は、あの通り奇人変人という他ありません。ですが、好みは人それぞれ、ですものね」
「だからステラ、それは」
「様、どうかご自身のお顔をご覧になってください」
はもう一度ため息を吐く。わざわざ見なくたってわかっている。頬の熱がちっとも引かない理由は、のぼせたからではないということだって、わかっているのだ。
「……ステラ、言うほど恋なんて素敵なものじゃないと思うよ」
唇を尖らせて呟いたの顔を、ステラが覗き込む。「そうでしょうか?」と尋ねるステラに、は力強く頷いた。
「でも、今の様は、とても可愛らしくて魅力的だと思います」
ステラが羨むように、焦がれるように言った。は返す言葉もなく、唇を噛み締める。
まだ、ジョナスが触れた感覚が消えてくれない。