水面には己の顔が揺らめいていた。黒い髪に黒い瞳、東方人の特徴を持ちながら、鼻すじの通ったはっきりとした顔立ちした女がじっと見つめ返してくる。黒曜石のような瞳、と誰かが褒めたその目は、どこまでも暗いような気味悪さをは覚える。
眉をひそめると、水面の中の顔も同じように眉をひそめた。ぱしゃり、と手で波を立てる。
「この顔、いやだな……」
綺麗だとか美しいとか、よく言われる。けれどにとってそれは、なんの自慢にもならない。むしろ、そう言われるたびに、身体のどこかが軋むような気がした。
母親譲りの美貌であった。たしかに、母は美人だった、ように記憶している。
静かな波紋を残した水面に再び顔が映る。はその顔をしばらく見つめていたが、ふうとため息をひとつ吐いて立ち上がる。ぽた、と顔を洗った際に濡れた前髪から、水滴が落ちた。
首にかけたままのタオルでそれを拭ったとほぼ同時だった。
「!」
ぐい、と乱暴に腕を掴まれて、思わずよろける。
「やっと見つけた!」
「いつの間に新しくパーティ組んだんだよ!」
大柄な男二人に詰められ、はたたらを踏むように後ずさったが、腕を掴まれたままなので距離はほとんど開かなかった。は腕を掴む男を見上げてから、の隣にいる男へと視線を向けた。その背後には、ぽつんと置いてけぼりを食らったように立ち尽くす女性の姿もあった。
見知らぬわけではなかったが、それほど知っているわけでもなかった。
ライオスたちの前に組んでいたパーティだ。
「勝手にパーティ抜けやがって……」
「どれだけ探したと思ってるんだ、まったく」
「今なら許すから、ほら、戻って来いよ」
「俺たち、べつに怒ってないからさ」
二人の男は互いをけん制し合うように視線をぶつけ合いながら、口々に話しかけてくる。はまだ一言も発していない──沈黙を保っていれば、ようやく男たちも口を噤んだ。
「おい、いつまで……」
様子を見に来たらしいチルチャックが、ぎょっとした顔で言葉を途切れさせる。「……修羅場?」と、緊張感のない様子で呟いて、チルチャックが探るようにそれぞれの顔を見やった。
そうして、チルチャックの呆れかえった視線が、に突き刺さる。
これでは、まさしくは魔性の女である。
どう見たって、二人の男がを取り合っているところだ。それは間違いではないが、が望んだことではない。
この男たちはを取り合い、仲間内で険悪な関係になっていた。生憎、はどちらとも特別な関係ではない。仲間の軋轢に嫌気がさして、パーティを抜けたのだが、よもや追ってくるほど執着されているとは思っていなかった。
──これだから嫌なのだ。
は、掴まれた腕を冷ややかに見下ろした。
「まず、腕を放して」
思ったよりもずっと、冷たい声が出た。パーティを組んでいたときは、そんな態度を取ったことはなかった。そのせいか、男が目に見えて狼狽えながら「あ、ああ……悪い」と、慌てて手を離す。
「はっきり言うけど、あなたたちのパーティには戻らない」
一瞬だけ、男たちの雰囲気が気色ばむ。
「俺たちを唆したのか」
「おれは、本気でのことが」
「やめてよ。わたし、あなたたちのこと好きでもなんでもない」
自分に縋るその言葉を聞いていられなくて、は強い口調で遮った。
仲間でしかなかった。仲間として信頼していた。
ふいに、背後に佇んでいた女性が前に進み出た。「もうやめよう」と静かに首を横に振る。男たちの勢いが萎んでいく。ぎらついていた瞳が力を失くして伏せられる。
先ほどはきつく腕を掴んできた手が、縋るように弱弱しく、の肩に触れた。
「なんでだよ……」
触れるだけで掴むことすらないその手から逃れ、はふいと顔を背けると、チルチャックの元へと歩み寄った。
「悪い女」
ぼそ、とチルチャックが呟いた。
想い人にそんなふうに言われるのはそれなりに傷つくが、はそれを否定しない。否定できなかった。
にまつわる噂は、丸々すべてが嘘ではない。にその気はなくとも、これまで組んでいたパーティに亀裂を生んできたことは、事実である。解散してしまったパーティも少なくはない。
「これまでもそうだったのか?」
を見上げる瞳には、侮蔑の色が滲んでいた。チルチャックが不快に思うのは仕方のないことだ。
ライオスとの幼なじみだったから、そしてたまたま彼らがメンバーを失ったばかりだったから、はおこぼれでこのパーティに入れてもらえたようなものだ。チルチャックにもマルシルにも、快く思われていないことくらい、は承知している。
どうせ、そう言った感情を向けられることには慣れている。いまさら、悲しいとか苦しいとか、そんなことを感じるほど繊細ではない。
「魔性の女だもの」
母がそう呼ばれていたように。
はふふ、と小さく声を立てて笑った。
チルチャックが胡散臭そうに眉を跳ね上げる。美辞麗句を並べ立てて近づいてくる男たちよりもずっと、チルチャックのほうが好感を持てる。上辺だけを見てくるような男に興味がわくはずがなかった。
「この顔、」
呟きながら、は足を止める。チルチャックが怪訝そうに振り返った。
「本当に、きらい……」
綺麗だとか美しいとか、そんな言葉は欲しくない。はいつだって、パーティの一員として、仲間を思いやっていただけだ。自分が関わるとパーティが解散してしまう。
もしも、このパーティが自分のせいで壊れてしまったら──はそうなるのが怖い。
チルチャックが小さく息を呑んだ。
「おまえ……」
「ごめん、こんなこと言われても、困るよね」
立ち尽くすチルチャックの前に、膝をつく。はこつりとチルチャックの肩に額を預ける。薄い肩が、強張るのを感じる。
「ごめんね。いまだけ、ちょっとだけ、貸して……」
いちいち胸を痛めるほど繊細ではなくたって、身も心も疲弊する。
チルチャックはうんともすんとも言わなかった。けれど、を跳ね除けることもしなかった。こんなふうに触れられるのは、彼にとってひどく不愉快に違いない。黙って受け入れてくれるのは、シャツの湿った感触に気がついたからだろうか。ありがとう、とは震える声で小さく呟いた。
ちらちらと窺うようなチルチャックの視線に気づいて、は振り向いた。「なぁに?」と小首を傾げて微笑みかけるが、不自然に目を逸らされる。
「おまえってさ」
チルチャックが言いづらそうに、一度口を閉じる。は瞳を瞬く。
逸らされた視線がへと戻ってくる。もの言いたげなつぶらな瞳にじっと見つめられて、どきりと胸が跳ねた。「隣、座ってもいい?」と、尋ねながらもは返事を待たずに、チルチャックの隣に腰を下ろした。いつもなら文句を言うくせに、チルチャックが口を開くことはなかった。
おまえってさ、の続きは、促しても聞けそうにない。
チルチャックが目を伏せて、自分の手元に視線を落とす。小さな手がキーピックを弄んでおり、もつい覗き込んでしまう。ふいに肩が触れ合って、は距離を詰めすぎていたことに気がつく。
はっと顔をあげた先、ひどく近くで視線が交わった。
「あ、ごめ……」
いくらなんでも近すぎる。ただの仲間の距離ではない。
慌てて身を離そうと背を反らすが、チルチャックの手がの肩を掴んだせいで、あまり距離はできなかった。チルチャックの視線は、逸らされることなく真っ直ぐを捉えていた。
「俺は、おまえのこと勘違いしてたのか?」
「え?」
「……おまえは、その容姿を、鼻にかけてるんだと思ってた」
後悔が滲むような物言いだった。いまにもごめんと動きそうな唇を、は咄嗟に人差し指で押さえた。チルチャックが目を丸くする。
「チルチャックは、勘違いするほど、わたしのこと知らないわ」
だから、とは続ける。
「もっと、わたしのことを、知ってほしい」
人差し指を避けると、チルチャックの結ばれた唇が現れる。「ね、キスしてもいい?」と、はその唇に視線を落とした。以前は問うこともせずに奪ってしまった。は先ほどと違って、今度はきちんとチルチャックの返事を待った。
「…………」
返事はいつまで待ってもなかった。残念、とつい尖らせてしまった唇を、チルチャックが掠めとった。
「……おまえだって、俺のことなんてなんにも知らないくせに」
好きだなんてよく言えたな、と呆れたふうに言うチルチャックの頬は薄らと赤い。はそれよりもずっと赤くなった顔を両手で覆いながら「ミミックが嫌いなのは知ってる」と、指の隙間から小さく呟く。
「はあ? なんだよそれ」
実を言うと、チルチャックのことはもうずいぶん前から知っているのだ。
死体回収屋をしていたときに、ミミックにやられた彼を回収したことがある──ということは、まだの心の内だけにしまっておく。
不満げなチルチャックの様子に、は小さく囁くように笑みをこぼした。