こつん、と小さな物音が聞こえた気がして、は顔をあげる。窓に虫か何かがぶつかったのだろうか。
外していた眼鏡を念のためにかけてから、カーテンをすこしだけ開けて、はぎょっとする。ひら、と窓越しに手を振るのは、No.2ヒーローことホークスだ。ここは一階でもなければ、ベランダに面した窓でもない。
「ホークスさん?」
眼鏡をかけてよかった、と思いながら、は窓を開ける。
「はは、びっくりした? 急にすみません、さんの顔が見たくなっちゃって」
窓から軽やかにの部屋に降り立ったホークスには、悪びれる様子がひとつもない。一瞬だけ、瞳を覗き込むように顔を近づけたホークスが、視線を交わすことなくを腕に閉じ込めた。
ぐ、と息が詰まって、は身じろぐ。けれど、ホークスの抱擁は緩まなかった。
ホークスの背の羽根が減っている様子はないので、仕事帰りというわけではないのだろう。特別怪我をしているようにも見えない。
はすこしの息苦しさを我慢しながら、ホークスの背に手を回した。やさしくそっと抱きしめ返すと、ホークスが小さく笑って腕の力を緩めた。
「相変わらず、隙だらけですね」
気が抜けたような声だった。はむっと唇を尖らせる。
「ホークスさんこそ、口が減りませんね」
「すみません」
くつくつと笑いながら言われても、まったく誠意を感じない。顔を覗き込んでくるホークスに、はふいとそっぽを向いた。
「わたしは、弱っているひとを追い返したりしません」
「弱ってる?」
「ホークスさんが突然訪ねてくるのは、緊張や不安を覚えているときです」
ゴーグルの向こう、ホークスの瞳が丸い。
前に訪ねてきたときは、福岡でエンデヴァーと会う前日だったはずだ。飄々としたホークスとて、尊敬するヒーローとの対面に緊張するのは無理もないことだ。
けれど、もしかしたらと、は思う。予め脳無との対峙を知っていたのだとしたら、ホークスがに会いにきた理由は、別なのかもしれない。もちろん“そう”という確信などなく、これはただの予感めいたものに過ぎない。
「さすが。雄英の保健室の先生ですね」
ふ、とホークスが眉尻を下げて笑った。その顔を見ると、はホークスにされた数々の非礼すら許してしまいたくなる。否、許してしまうのだ。
さんはすごい、と小さく呟いて、ホークスが再びをぎゅうと抱きしめた。は黙ってホークスに身を委ねる。目を閉じると、規則正しいホークスの心音が聞こえた。
する、とホークスの手が服の裾から入り込んで、背中に触れる。
は慌ててホークスの胸板を押し返した。
「ほ、ホークスさんっ」
「やだなぁさん、この状況で何もないとか正気ですか?」
「ちょ、っと……!」
ホークスの指先が下着の留め具に触れる。は身を強張らせ、ホークスを見あげた。
鼻先が触れ合う。かち、と眼鏡がホークスのゴーグルとぶつかった。
「眼鏡は取らんと、許してくれませんかね」
「そ、そんなこと、言われたって」
は戸惑いに瞳を揺らした。ホークスと身体を重ねたことはあるが、眼鏡をかけたままそういった行為に及んだことはない。
ホークスがおもむろに自身のゴーグルを取り去る。
パチン、と下着の留め具をホークスが片手で器用に外した。たったそれだけで、身を守るものがなくなったような気がしてしまう。かあ、と頬が紅潮するのを感じて、は俯いた。「だめです」と、ホークスの手がの顔を持ち上げる。
ホークスの唇が、の噛み締めた唇にやさしく触れた。
「……冗談ですって」
思わず振り上げた手を受け止めて、ホークスが苦笑いをこぼした。
ホークスの羽根がリモコンのボタンを押して、テレビを点ける。は二人分のコーヒーを淹れながら「そんなことに個性を使わないでください」と、呆れた。
のんびりと自分の家のように寛ぐホークスが振り向く。
「まあまあ、いいじゃないですか。あ、コーヒーどうも」
こと、とテーブルにコーヒーを置けば、ホークスが律儀に礼を言った。
は「いえ」と小さく答えて、ソファに腰を下ろした。羽根が邪魔でソファに座れないホークスとすこし距離ができて、は内心で安堵する。
下着の留め具はつけ直したし、一枚上に羽織ったとはいえ、安心はできない。この部屋には、とホークスしかいないのだ。
「それを飲んだら帰ってください」
「え、嫌です」
「……ホークスさん」
「今日は、さんを抱き枕にして寝るって決めてますんで」
「ホークスさん!」
顔を赤らめて抗議するも、ホークスはヘラヘラと笑うばかりだ。
「揶揄うのも大概にしてください。怒りますよ」
「それは困ります。さんは怒ると怖い」
ホークスにはちっとも困った様子がない。嘘でもいいから困った顔をしてほしいくらいである。はむっと唇を尖らせた。
頬杖をついたホークスが、上目遣いにを見やる。
「でも、さんは、弱った奴を追い返したりしないんですよね?」
返す言葉もなく、は不機嫌な顔をしながらコーヒーを飲む。「大丈夫、ベッドは狭いけどくっつけば問題ないでしょう」と、ホークスが笑顔で告げた。
を壁際に押し込んで、ホークスが布団に入ってくる。せめて背を向けて眠りたかったが、の小さな羽根が当たって収まりがよくないらしい。仕方なく、はホークスの胸に顔を埋めた。
「変なこと、しないでくださいね」
「はいはい。あ、でも、寝てる間のことは保証できかねます」
ホークスの腕がやさしくを包む。ちゅ、とこめかみにホークスの唇が触れた。
「おやすみ、さん」
の身体が強張ったことに気づいていながら、ホークスの声音は穏やかだった。は目くじらを立てずに「おやすみなさい」と、素直に目を閉じた。
とくん、とくん、とホークスの心臓の音に耳を傾ける。
「眼鏡外さないと壊れるんじゃないですか」
「……だって」
「ダイジョーブ、俺の瞼はくっついてもう一ミリも開きやしません」
はそろりと眼鏡を外し、ベッドボードに置いた。ホークスだけではなく、も目を閉じてしまえば、視線が合うこともない。
「…………」
目を瞑っても、すぐに眠気はやってこない。
そばにある体温には安心できる。けれど、それが恋人でもない異性であるということが問題だ。意識しないように気をつけてはいたが、視界を閉ざした分、ホークスの匂いや筋肉がより伝わって緊張してしまう。
ホークスの心音が聞こえるということは、の心音も伝わって──
「あったかい。その上、やわらかい」
ふいに、ホークスがぼそっと呟いた。そして、抱きしめる腕の力が強まる。苦しいほどではなかった。
「さん。俺が何をしようとも、俺のことを信じてくれますか」
珍しく、ホークスの声色は固かった。心なし、ホークスの鼓動が先ほどよりも早いような気がする。ホークスの緊張を感じ取って、の身からは力が抜けた。
「信じますよ。当たり前です」
耳元でホークスが小さく笑う。
「ありがとうございます。おかげで、頑張れそうです」
何を、とホークスが口にすることはないし、は尋ねることをしない。
ホークスの存在を確かめるように、はそっと抱きしめ返した。「さん、ドキドキしてますね」と揶揄うホークスには答えず、はじっと目を閉じて眠りを待った。