何が起こったのか理解するより早く、反射的に動いた身体は立体機動装置によって宙に浮いていた。突き刺したアンカーに引っ張られて、木の幹に飛び移る。は素早く視線を巡らせ、リヴァイの姿を探した。
 しかし、それなりに高い位置につけていたにも関わらず、そこいらの巨人とは全く異なる動きで巨体が迫ってくる。は慌てて飛び退きながら、叫んだ。

「兵長!」
「クソっ……!」

 リヴァイの悪態が返ってくる。
 人類最強の男がそう易々とやられるわけがないとわかっているが、確認せずにはいられなかった。なにせ、この巨人たちは──

 すさまじい勢いでリヴァイに飛びかかる巨人の指が、瞬きの間に切り落とされる。ブレードを手にするまでに僅かな間があったのは、リヴァイに迷いがあるからかもしれなかった。
 大きく開かれた口がリヴァイを飲み込もうと迫る。

 その様子を悠長に見ていられる余裕などなく、は己を食らわんとする巨人の手から逃れるべく、素早く木から木へと飛び移る。流れる視界の中で、リヴァイが立体機動で巨人に噛みつかれることなく、宙に舞い上がるのが見えた。うなじを捉えているはずなのに、リヴァイの刃は動かない。
 は、リヴァイの迷いを確信した。

「わたしがやります!」

 はぐっとブレードの柄を握りしめる。
 奇行種よりもずっと速く動く、数多の巨人たちを相手にどこまでやれるのかはわからない。けれど、リヴァイに部下を手にかけるだなんて、そんな酷なことをさせてはいけない。

 人類のために、未来のために、彼はいつだって選んできた。大事なものを失いながらも、その先に希望があると信じて、苦渋の決断を下してきたのだ。

「わたしなら、わたしにとっては、ただの巨人です!」

 には顔の判別がつかない。だから、巨人と化した同僚だったとしても、それが誰であるかなんてわからないのだ。
 今しがたうなじを斬り裂いたこの巨人だって、もう名前も呼べない。

 いくら躊躇いがないとはいえ、は優秀な兵士ではない。リヴァイと違って、そう簡単に狙い通りにうなじを斬ることは不可能だ。
 うなじを抉ったその傷は浅く、致命傷に至らなかった巨人の手がに伸びる。アンカーを引いて飛び上がるが、手のほうが速い。ぞわりと背筋に悪寒が走った。


 巨人の手がに届くことはなかった。リヴァイがうなじを斬り取り、巨人が地に沈んだからだ。無事を確認するように、リヴァイの視線がを一瞥する。
 それからと言えば、はいてもいなくても変わらないのではないかと思うほど、人間離れした動きでリヴァイが巨人を駆逐してしまった。やはり、リヴァイは人類の希望の星だ。改めて人類最強の兵士を見せつけられ、は慄く。

「クソ野郎を追う。お前はここにいろ」

 血を被ったまま、の追従を許さぬ速さで、リヴァイが飛んで行く。その背はあっという間に見えなくなった。あれだけいた巨人も今は誰一人として動かない。

 自分がやるといった手前、全くもって格好がつかない。しかし、は後を追うことをしなかった。残念ながら、足手纏いにしかならないことを知っている。
 リヴァイを見送ったその先で、カッとまばゆい光が見えた。ジークが巨人化したのだろうが、不安は少しも過ぎらない。リヴァイは必ず戻ってくるという確信が、にはあった。





 程なくして、ジークをずるずると引きずりながらリヴァイが戻ってきた。「兵長!」と、は木の上から飛び降りて、リヴァイの元へ駆け寄った。

 ジークをひっ掴んだ手はそのままに、片腕でを抱き寄せる力は弱々しかった。それでも、抵抗のないの身体はリヴァイの胸に収まる。
 自由の翼が描かれたリヴァイの外套をぎゅうと掴んで、は鍛え上げられた硬い胸へと頬を寄せる。リヴァイの身体は巨人の血で汚れていたが、も同じようなものだったので、気にならなかった。

「リヴァイ兵長……」

 は窺うようにリヴァイを見上げたが、やはりどんな顔をしているかなんてわかりはしなかった。やるせない思いを抱いているだろうことは想像に容易いが、はふにゃりと目を細めて笑った。

「二人っきりになっちゃいましたね」
「あ? 思いっきり、余計なのがいるだろうが」
「とんだお邪魔虫ですね」

 ちら、と見下ろしたジークに意識はないようだ。
 ふいに、回された腕に力が込められ、は思わず潰れたカエルのような悲鳴をあげた。リヴァイの腕が震えているのは、力を込めすぎているからではない。息が詰まったのは一瞬で、すぐに力は緩まった。

「……ありがとう」
「へっ?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。

「お礼を言われることなんて、」

 何もない、と続くはずの言葉は、声にならなかった。重なった唇が離れて行くまでの時間が、永遠と錯覚するくらいにには長く感じた。

「弱ぇくせに、でけえ口叩きやがって」
「へ、兵長? えっ、わたし、急に貶されてます?」

 馬鹿が、とリヴァイが吐き捨てる。その顔が一等やさしく笑んでいたことを、は知らない。


「酒が飲めなくて命拾いしたな」
「わたし、飲めないわけじゃないですよ。でも、せっかくなら兵長とご一緒したいなぁと思って。兵長と飲む紅茶、美味しいですし」

 荷台にジークを放って、腹いせとばかりにリヴァイが足蹴にする。はぎくりとしたが、目を覚ます様子がないのでほっと胸をなでおろす。

「でもやっぱり、兵長とお酒飲んでみたいです。壁内に戻ったら、飲みに行きましょう」
「……ああ」
「ふふ……約束ですよ、リヴァイ兵長」

 聞くだけならひどく平穏な会話を交わしながら、は雷槍をリヴァイに手渡す。

「仕方ねぇな」

 ふ、と呆れたようにリヴァイが小さく笑う。
 じっとその顔を見つめても、に表情はわからない。けれど、そのかすかな笑い声を拾い上げたは、頬を綻ばせた。

「やった! 今から楽しみです」
「おい、口より手を動かせ」

 舌打ちが聞こえたが、言葉に反して声音はそれほど険がない。「はい」とはすぐに返事をしたが、頬は緩んで締まりのない顔のままだ。リヴァイがもう一度舌を打つが、それ以上の叱責は飛んでこなかった。

の箱の底

(やっぱりあなたはわたしの希望です)