小さな背中が一層小さく見えるのは、俯いて歩いているせいだろうか。LeViに促されるまでコールドスリープ室の前に突っ立っていたが、のろのろと動き出す。
その様子を黙って見つめて、沙明もまた壁に預けた背をようやく離した。
今日、コールドスリープに選ばれたのは、セツだ。が泣きそうな顔をして別れの挨拶を交わすので、流れに乗ってセツに投票した沙明は、少しだけ悪いことをしたような気分になった。
できることなら、沙明だってセツとさよならなんぞしたくはなかった。
沙明はセツを憎からず思っている。けれども、自分の命のほうがよほど大事なのだから仕方がない。下手に庇って自分が凍らされるなんて、冗談ではない。
何となく、その小さな背が気になって、の部屋の前までついてきてしまった。しかし、物言わぬドアを見つめていたって、どうにもならないことくらい沙明もわかっている。
明日、の顔は拝めないかもしれない。沙明は小さく舌打ちをして、踵を返した。胸糞が悪い。
セツを守ろうと発言していた昨日とは打って変わり、の口は閉じられるばかりだ。沙明も無駄に目立ちたくないので発言は控えがちだが、それなりに同意したりして、何とか疑いの目を逸らそうと必死である。
「? 全然しゃべんねーけど、調子悪いのか?」
シピの口ぶりは気遣っているようで、を見る瞳は疑いに満ちていた。
俯いて哀しそうな顔でもするのかと思えば、シピの視線を跳ね除けるようにが睨み返した。
「疑うべきはわたしじゃない。シピ、あなたのほうだよ」
驚くほど力強い言葉だった。それに夕里子が追従してしまえば、シピには反論する隙すら与えられない。シピが笑顔でコールドスリープ室に消えていく。
別れの言葉もなく、メインコンソール室を立ち去るの後を、沙明は反射的に追いかけた。ぴたりと足を止めたが振り返る。親の仇を見るような目を向けられて、沙明は何もしていないのに後ろめたい気持ちになった。
「んだよ、怖ェ顔すんなって」
が無言でズンズンと近づいてくる。ぐい、と襟元を掴まれて引き寄せられる。の瞳がすぐ近くにあって、少し動けば唇が容易く重なりそうだった。
「媚びを売られたって、わたしはあなたを庇ったりしない」
「あー……ソウデスカ」
「そうですよ、ミンくん。オゥケイ?」
沙明を真似ているのか、が似合わぬ口調で嘲るように口角をあげる。
ミンと呼んでくれと言ったのは確かに自分だが、本来親愛を込める呼称がこんなふうに呼ばれるとは、皮肉である。
しかし、下から睨まれても、こうも迫力に欠けるとは。唇にどうしても目がいってしまう。このまま事故を装って、と頭の片隅に邪な考えが生まれてしまい、それを行動に移してしまう前にと沙明は口を開いた。
「OKOK、わかったから手ェ離せって」
が言われた通りに手を離し、距離を取った。俯く顔には表情がない。
「まあアレだ。セツがいねーからって、ヤケになんなよ」
「なってない! 大体っセツに投票したくせに、どの口が言ってるの?」
ドンっ、との手が沙明の胸を突いた。その手はそれだけに留まらず、グーにした拳が何度も沙明の胸板を打ちつける。けれども、痛みなどなかった。
「セツセツ言ってたくせに、そうやって平然と切り捨てる! あなたの言葉なんて一つも信じられない! わたしを気遣うふりして近づいて……っ」
沙明はの手首を掴んだ。は、とが鋭く息を呑んだ。
「パクッとイっちまうかもなァ、アーッハ!」
わざとらしく大きく口を開けてみせる。が悔しげに唇を噛み締めて、目を逸らした。
掴んだの手首には、少しも抵抗が感じられない。
「おっ、と沙明じゃん。もしかして痴話喧嘩ってヤツ?」
コメットの呑気な発言に、沙明は「違ェーって」と片手で犬猫を追い払う仕草をする。むっと頬を膨らませるコメットを傍目に、が掴まれていた手を振り解いた。
「あなたなんか嫌い」
が苦虫を噛み潰したような顔をして、吐き捨てていく。
沙明は遠ざかるの背を見つめて、ため息を吐く。わかっているとはいえ、ストレートに言われると胸にくるものがある。
「へっへーん、ウソつき見っけ。よかったな沙明、の嫌いはウソだったぞ?」
「……は?」
沙明は驚きに目を見開いて、コメットを見つめる。
「あ! まあ、だからってが沙明を好きだとは限らないけどさ」
「つーことは、大嫌いってコトか……」
肩を落として、大袈裟に傷ついたふりをする。それを笑い飛ばしたコメットが、沙明の肩を叩いた。
意地汚く、土下座までしてコールドスリープを逃れた沙明と違って、同票で全員凍結を告げられた相手が眠りについた。LeViがグノーシアの脅威が去ったことを告げる。
「カーッ、マジか! お前ら俺を凍らせようとしやがッて、覚えてろよ」
沙明は喚き散らすが、皆目を逸らすばかりである。誰か一人くらい謝ってもいいものを、と内心で悪態をついた沙明は、俯くに目を留めた。
嫌いだ、と宣言した通りに翌日からに疑われ、何とか凌いだものの最終日でこれだ。
「どうよ、嫌いなミンくんと生き残った感想は?」
肩を抱き、を引き寄せる。どれだけ嫌そうな顔が拝めるかと思えば、困惑した顔を向けられて沙明も当惑する。
ごめん、と小さな声が告げた。
「ハッ! 謝る気があんなら、目ェ見て言えよ」
沙明はぐっと顔を近づける。がわずかに身を反らしたが、沙明は肩に置いた手で距離が開くのを阻止した。
の瞳が不安げに揺らぐ。憎々しげに睨まれることに慣れてしまって、そんなふうにされては調子が狂って仕方がない。別に責め立てるつもりはなかった。こんな状況なのだ、誰もが疑心暗鬼だったし、沙明だって信じたふりも意見を翻したことだってあった。
「ごめん。あなたはわたしを、守ろうとしてくれていたのに」
──一度だって、に投票はしなかった。セツのコールドスリープが決まったときの、泣きそうな顔がどうしたって、消えてくれなかったからだ。
「沙明にやさしくされると、疑っちゃうな……」
「パードゥン? 俺は女にはやさしいぜ? つーワケで、ここは熱いベーゼ一つで水に流してやるよ」
くす、とが小さく笑みをこぼした。セツがいなくなってから、初めて見る笑みだった。
沙明はほとんど無意識に、の頬に手を伸ばしていた。
「キス一つで許すなんて安い男だね、ミンくん」
泣き笑いのような顔をするから、思わず沙明はの目尻に指を這わした。乾いている。
が目を閉じた。沙明はの額、鼻先、頬、唇へと順に視線を落として、伏せられた睫毛の先を見つめる。細かく震えていた。頬に触れていた手を引いて、沙明はの鼻を指先で軽く弾いた。
「ハッ、ジョークに決まってんだろーが、ジョーク! いつまで間抜け面晒してんだよ」
ぱちぱち、と二度ほど瞳を瞬いてから、が鼻先を手で押さえる。「沙明」と、名を呼ぶ声は何かを押し殺しすようだった。
「嘘つきだね」
ふ、とが眉尻を下げて笑う。つま先を伸ばしたの唇が、ほんの一瞬だけ沙明のそれに触れた。沙明は固まって、何の反応もできない。
「本当はね、沙明のこと……好きだよ」
それが嘘かどうかなんて、沙明にはちっともわかりやしないのだ。