かつて、これほどまでに鈍くさいヒーローがいただろうか。
 少なくとも、長年ヒーローを続けるワイルドタイガーは、目にしたことがなかった。もちろん、自分もたいがい抜けていることは自覚しているが、彼女は比にならない。

 ワイルドタイガーこと鏑木・T・虎徹は、そのマスクの下から、件のヒーローが思い切り転ぶ様を見ていた。
 漫画やアニメのようにきれいに転んだ彼女の姿を、HERO TVが無情にもとらえる。

『おおっと、10tガールがなにもないところで派手に転んだぞー! マシュマロボディがたわわに揺れる~!』

 響き渡るレポーターの声に反応して、彼女が恥ずかしそうに顔をあげた。しかし、惜しげもなくさらされた肉体的なボディとは裏腹に、その顔はフルフェイスのヘルメットに覆われている為どのような表情を浮かべているのかはわからない。

「おーい、大丈夫かあ?」

 虎徹はからりと笑って、10tガールに手を差し出した。
 「あ、ありがとうございます。ワイルドタイガーさん」と、蚊の鳴くような声と共に小さく頭が下げられる。小さな手が虎徹の手のひらに収まって、そそくさと立ち上がる。たったそれだけの動作にもかかわらず、どこか鈍くさくて危ういように見えるのは、虎徹の抱く先入観のせいだろうか。

「……おじさん、なに遊んでいるんです」

 冷静かつ、嫌味っぽい声である。10tガールの手を握りしめたまま、虎徹は振り向いた。
 新たに相棒となったばかりのバーナビーが興味なさげに、いやむしろ冷たい視線で自分たちを見つめている。すでに騒ぎを起こしていた犯人は確保されており、もう自分たちの役目は終わっていた。しかし、仲間に手を差し伸べていただけなのに、遊んでいるとはひどい言われようである。
 ぽり、と虎徹は頬を掻いた。

「はいはい、帰りますよっと」

 なおも冷たいバーナビーの視線は、虎徹の手を掴んだまま小さくなっている10tガールを見下ろした。ぎゅ、と手を掴まれて、彼女の緊張が伝わってくる。
 ふ、とバーナビーが鼻で笑う。

「怪我がなくてよかったですね、先輩」

 嫌味ったらしいその物言いに、10tガールが俯く。
 いかに鈍くさいといえども、10tガールはバーナビーよりも先輩のヒーローである。しかし、その実力はどう見てもバーナビーよりも劣っている、かもしれなかった。
 すみません、と10tガールがしゅんと肩を落とした。元より小さい姿が、殊更小さく見える。

「バニーちゃん、」
「バーナビーです。行きますよ、おじさん」
「……」

 さすがに見ていられなくて、咎めようとするも素早く遮られる。虎徹はぽん、と10tガールの頭を軽く叩いて、ダブルチェイサーに乗り込む。
 走り出す中で振り向けば、10tガールが申し訳なさそうに頭を下げていた。




 10tガールの本名や素顔は一切公開されておらず、虎徹たちヒーロー仲間にも知られていない。まれにトレーニングルームで顔を合わせる際も、なんと彼女の顔はフルフェイスのヘルメットで覆われているのだ。

「ちょっと……その暑苦しいの、どうにかしてもらえませんか」

 バーナビー冷ややかに告げながら、そのヘルメットへ指をかけた。
 近くにいた虎徹にさえ止める間もなく、トレーニングで汗をかき、紅潮した10tガールの素顔があらわになる。その場にいた誰もが動きを止めて、彼女に注目した。

「酸欠になりますよ」

 ため息と共に、バーナビーがヘルメットを押しつけるようにして10tガールに手渡した。呆然と受け取った彼女の手からそれは滑り落ちて、カランと音を立てて床に転がった。

「あら、可愛いお顔だこと」
「えっ、ぼく、10tガールの顔はじめて見た!」
「わ、私もよ」
「……僕、も……」
「っていうか、誰も見たことないんじゃねーか?」
「そうだとも、いや、そうに違いない!」
「っだ! うるせえぞ、お前ら! おい10tガール、おい、おーい!」

 目の前で手のひらを振るも反応がない。虎徹は顔を覗き込む。

「なんです、そんなに騒いで。まさか、いつもこうだったんですか」

 新人たるバーナビーが「心底呆れます」と言った瞬間、10tガールがはっと息を呑んで、落ちているヘルメットを拾い上げて抱きしめる。

「……っす、すみません、今日はこれで失礼し」
「なぁに言ってるのよ~!」
「ひっ」

 ファイヤーエンブレムのしなやかだが、筋骨隆々の腕が10tガールのマシュマロボディを絡めとる。ひきつった声を上げる反応は、決して間違っていないだろう。白くて柔らかそうな肢体と浅黒い腕のコントラストが、妙になまめかしい。虎徹はさっと目を逸らした。
 「ほら、もう諦めなさいな。みーんな、ばっちり、この顔見てんだから」と、ファイヤーエンブレムの指が10tガールの輪郭を撫でた。蛇に睨まれた蛙のごとく、身を竦ませるその姿には同情を禁じ得ない。

「や、やめてください、ファイヤーエンブレムさん……」

 じわ、とその目尻に涙が浮かぶのが見えた。
 しかし、数瞬目を伏せたのち、瞼を押し上げたその瞳に涙はなくまっすぐバーナビーを睨みつけていた。

「余計なお世話です! 後輩なら後輩らしく振舞ってくださいよ」
「…………」
「わたしは、確かにあなたよりもずっと劣っていますけど、だからってなにをしてもいいわけじゃありません! か、顔は、誰にも知られたくなかったのに、」

 10tガールがファイヤーエンブレムの手を振り解き、バーナビーに向かってヘルメットを投げつけた。そうして、ふわりと宙高く飛びあがる。「あ、おい!」と、虎徹が慌てて声を上げたときには、もう遅かった。彼女の目が青く光る。

 10tガール──そのヒーロー名の由来は、彼女の能力が己の身体の重さを自由に変えることができるものだからである。もちろん、10tの負荷だって彼女にかかれば容易である。
 彼女の蹴りを受け止めたバーナビーの身体が、床に沈むことはなかった。さすがに、NEXT能力を加減していたのだろう。しかし、相当な荷重がかかったのか、バーナビーの端正な顔は歪んでいる。ファイヤーエンブレムがしなを作りながら、バーナビーに駆け寄る。

「ハンサム、やだ、大丈夫?」
「10tガール、落ち着けって。バニーちゃんに悪気はないんだからさ」

 へら、と笑って虎徹は近づくが、キッと睨まれてたたらを踏む。だが、それも一瞬のことで、すぐに目は伏せられる。意気消沈した様子で、とぼとぼと10tガールがトレーニングルームを出ていく。
 その小さな背を呆然と見送っていた虎徹は、落ちたままのヘルメットに気がつき、それを持って彼女を追いかけた。

「10tガール! ちょっと待てって」

 小さな姿はすぐに見つかり、虎徹は駆け寄ってその腕を掴んだ。振り向いたその顔は悲しみに暮れており、涙がいまにも零れ落ちそうだった。
 虎徹は不覚にも胸をどきりとさせる。
 はじめて見る10tガールの素顔は、ファイヤーエンブレムの言葉通り、可愛らしい。

 日系の顔立ちは、虎徹には馴染みのあるものである。ドラゴンキッドよりも背丈が低いせいもあって、幼くも見える愛らしい顔立ちだが、マシュマロボディと称されるその身体からもわかるようにおそらく妙齢の女性なのだろう。日系はどうしても童顔に見えてしまう。
 ワイルドタイガーさん、と10tガールの唇が動く。虎徹ははっとして、頬をぽりぽりと掻いた。

「ほら、忘れもん。大事なもんだろ」
「……もう、意味ないです」
「そ、そんなこと言うなって! ほら、なっ?」
「……」

 しぶしぶ、と言った様子だが、10tガールがヘルメットを受け取る。
 フルフェイスのヘルメットは、あまりにも彼女には不釣り合いだ。虎徹の視線に気づいたのか、10tガールが寂しげに笑った。

「散々マシュマロボディとか恥ずかしいこと言われて、顔なんてとてもじゃないけど見せられなかったんです。それだけなんですけど、いままで隠していてすみません」

 10tガールの言い分は十分にわかる気がして、虎徹は苦笑を漏らす。しかし。

「そんなくだらない理由で……大体、それはヒーロー用ではないんですから、すこしは考えたらどうです? 本当にいつか倒れますよ」
「バニーちゃん」
「バーナビーです。いつになったら覚えるんです」

 バーナビーの指摘に、虎徹は10tガールの手にあるヘルメットを見下ろした。10tガールが視線から逃れるようにして、ヘルメットを背に隠した。

「おま、それ、バイク用のメットかよ!」
「気づいてなかったんですか?」
「ぐっ……」
「……ブルックスJr.さん、先ほどはすみません。あの、取り乱してしまって、つい……」

 ずいぶんと他人行儀だな、と虎徹は思うが、彼女の態度はだれに対してもこうだ。ヒーロー名で呼ぶところだが、バーナビーは本名なので、苗字で呼ぶのだろう。
 そういえば、10tガールの本名は、いまだ誰も知らない。

「お怪我はありませんか? わたし、能力を」
「問題ありません。それより、同じヒーローなんですから、今さら恥ずかしがることもないでしょう」
「……そ、う、ですね…………」
「ええ。ですから、そんなヘルメットはもうやめてくださいね」
「は、はい」

 バーナビーに畳みかけられ、10tガールがこくこくと首を縦に振る。ほんとうに、先輩後輩の関係がよくわからなくなってくるやり取りである。
 虎徹はふと思いつき、10tガールの肩に手を回した。びく、と大袈裟に肩が跳ねる。

「そんじゃあ、素顔も晒したことだし、名前も教えてくれよ! 本名!」

 えっ、と数拍固まったのち、10tガールがおずおずと口を開く。

、といいます……」
ちゃん!」

 そう呼んだのはひとりだけではなかった。
 なだれ込むようにして、トレーニングルームにいたはずのヒーローたちが駆け寄り、その中心のをもみくちゃにしてしまう。ただでさえ身長の低いの姿はあっという間に見えなくなった。「お、おいお前ら」と、虎徹が慌てて伸ばした手は、弾かれてには届かない。
 はあ、とバーナビーがこれ見よがしにため息を吐く。

「付き合ってられない」

 バーナビーが踵を返す。
 あのいけ好かないスーパールーキーも、いつかはのようにみんなみもみくちゃにされる日が来るのだろうか。そんな想像をして虎徹は苦笑する。いつの間にか、足元まで転がっていたヘルメットを拾い上げて、それが確かにバイク用のなんの変哲もないものであることを確認する。

「おーい、その辺にしてやれって」

 虎徹の声は、はしゃぐヒーローたちの声によってかき消された。
 中でも、にやたらの絡みついたファイヤーエンブレムは後日「マシュマロボディは本物よ!」と自慢げに語った。それを耳にしたが、居たたまれないほど顔を赤くしていたのは言うまでもない。

(まずはそれを教えてあげよう)