肉を切る感触が好きではない、という理由で投擲武器を選んだらしい。の体格は、トールマンにしては線が細くて非力なため、その選択は間違いではないとチルチャックは思っていた。
しかし、チルチャックが思っていたよりもずっと、は接近戦が上手だった。そして、想像より遥かにタフだ。
振り返ったの顔に血飛沫が飛んでいた。肌が白いせいで、やけに血の色が目立つ。鬱陶しそうにそれを拭ったが、甲にべとりと血をつけたままの手で、チルチャックの腕を掴む。「走るよ、チルチャック!」言うが早いか、彼女は駆け出していた。チルチャックは引きずられるようにして走り出す。
背後から迫るモンスターに、ぞっと背筋が冷える。
ライオスやセンシがいれば──いや、いまは止そう。チルチャックは内心で首を横に振る。ないものねだりをしたところで意味はない。この危機的状況を切り抜けることが、なによりも先である。呑気に、たらればを考えている暇はないのだ。
チルチャックは必死に足を動かしながら、の顔を盗み見る。いつものように澄ました顔をしているのが悔しい。こちらは、こんなにも余裕をなくしているというのに。チルチャックは心の中で悪態をつく。
ふいに視線がチルチャックを捉えた。びくり、と反射的に肩が跳ねる。
「チルチャック」
にチルチャックの内心などわかるわけがないと知っているが、神妙な顔で名を呼ばれて、心拍がさらに加速する。
「どっちに行ったらいいのかな?」
分岐点で、が困ったように小首を傾げた。「コーヒーと紅茶、どっちにする?」という台詞でも可笑しくはない仕草だった。「知るわけないだろ!」と、チルチャックは思わず叫んだ。
「立ち止まるな、馬鹿! どっちでもいいから──」
チルチャックは、視線を道の先へと向ける。どちらもどこへどう続いているのかなんて、予測できそうにもなかった。とにかく、迫りくるモンスターから逃げ切る必要がある。
チルチャックは戦力外だ。だって、チルチャックよりもよほど戦えるとはいえ、前線に立つタイプではない。自分たちだけでは太刀打ちできないのは、火を見るよりも明らかだった。
もし、この先が行き止まりだったら。
どちらでもいいと口にしながらも、この短慮が最悪の事態を招く恐れもある。
チルチャックは決断しきれずに、ごくりと唾を飲みこむ。「わかった」と、がチルチャックの手を握った。緊迫した場面だというのに、が笑った。
「わたしたち、運命共同体ね」
答えるのも馬鹿らしくて、チルチャックはただの手を握り返した。
お腹空いたね、と実にのんびりした声が告げた。モンスターを撒いてから暫く経ったが、ライオスたちと合流できていない。焦るチルチャックに対して、の様子は腹が立つほど落ち着いている。
とはいえ、これは自分のミスが引き起こした事態であり、文句を言える立場ではなかった。
もし、ここで死んだら、あいつらは自分を見つけてくれるだろうか──チルチャックは重いため息を吐く。
「……」
「なんだよ」
視線を感じて顔をあげる。が少しだけ腰を屈めて、目線を合わせてくる。身長差から仕方がないとわかっていても、馬鹿にされているような貶されているような気分になって、チルチャックは顔をしかめた。
チルチャックの心情など知らず、が「大丈夫」と微笑んだ。迷子を励ますような口ぶりだった。
「同じ階層にいるのは間違いないし、向こうも探してくれているんだもの」
「……わかってる」
「なら、ちょっと休憩しましょ。わたし、疲れちゃった」
ふう、とが息を吐いて、髪をひと房指で掬って耳にかけた。揺れるピアスと共に、丸い耳が露わになる。すとんと腰を下ろしたが、隣を手で叩いてチルチャックを招く。
「。おまえさぁ……」
チルチャックは、くしゃりと顔を歪めた。
「俺のせいなんだから、もっと責めろよ。なんでニコニコしてんだよ……」
罠の感知や解除は、チルチャックが担っている。
それなのに、罠に気づくのが遅れた挙句、ライオスたちと分断されてしまった。これが自分のせいでなければ、いったい誰のせいだというのだ。命の危険にさらされてなお、上機嫌に笑うのことが、チルチャックにはまったくもって理解ができない。
がふふ、と小さく声を出して笑った。
む、とチルチャックは眉間の皴をより深く刻む。だから何故笑えるのだ、と声を荒げてしまいそうになって、チルチャックは下唇を噛んだ。
の手が伸びて、チルチャックの両頬を包み込んだ。やわらかい、女らしい手のひらだった。その甲は、乾いた血で汚れている。
「パーティっていうのは、ミスを責めるものではなく、フォローするものでしょう」
「そう、かもしれないけど、」
チルチャックは、に顔を覗き込まれ、さっと視線を逸らした。年はこちらのほうが上のはずなのに、まるで聞き分けのない、あるいは駄々をこねる子どもになった気分だ。
「それとも、わたしと二人きりなのが、嫌?」
え。
チルチャックの呆然とした声は音となったのか。ふにゅ、とやわらかい感触が唇を塞いだため、わからなかった。ふわりと鼻のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。さらりとしたの髪の毛が、チルチャックの頬を掠めた。
唇が触れたのは、一瞬のはずだ。
チルチャックはそれを理解した瞬間に、全身全霊をもって飛び退いた。ぬくもりと感触の残る唇をごしごしと手の甲で拭い、チルチャックはを睨みつけた。しかし、どこ吹く風といった様子で、が軽く肩を竦める。
──この女、油断も隙もない!
に関する噂を、チルチャックが知らないはずがない。
彼女がこれまで組んだパーティは、ことごとく解散しているらしい。男女関係のもつれだと聞いている。魔性の女、と呼ばれるのも無理はない。トラブルメーカーとして敬遠されながらも、その美しさは男を惹きつける。
そんな彼女を潔癖なマルシルが苦手に思うのも無理はないし、問題を起こされるのではとチルチャックが警戒するのは当然である。
だから嫌だったのだ、とチルチャックは舌打ちする。
ライオスの幼なじみだとしても、人手不足でなければ絶対にパーティへの加入を許可しなかっただろう。チルチャックの経験による危険信号が、と関わるべきではないと告げている。びしばしと告げているのだ。
「……仲間に手ぇ出すなよ」
「なぁに、それ。チルチャックにしか出さないから、大丈夫」
「そういう問題じゃ…………は?」
聞き間違いかと、思わずチルチャックはを凝視した。
「ごちそうさま」
ぺろ、とが赤い舌を覗かせて、悪戯っ子のように笑った。
その顔はどこかあどけなく、魔性の女のイメージとは結びつかないものだった。つい見惚れてしまいそうになって、チルチャックは慌てて目を逸らす。
悔しいが、たしかに顔はいい。ついでに言えば、スタイルもいい。
ふてくされた顔をしたチルチャックと、血みどろになったをライオスたちが見つけるのは、もう少し後のことだった。