ひら、とふいに現れた一枚の羽根は確かな意志をもって動いて、の眼鏡のつるを弾いた。慌てて手で押さえたおかげで眼鏡が落ちることはなく、はほっと小さく息を吐いた。
「失敗しちゃいましたか」
声に顔を上げれば、そこにはいまやNo.2ヒーローのホークスが立っていた。
すこしも残念そうでもなければ、すこしも悪びれた様子もない。速すぎる男の異名を持つ彼は、その名に相応しい速さをもって、に近づいた。
先ほど羽根が触れた部分に指を伸ばされ、は身を強張らせながら後ずさる。
「ホークスさん、やめてください」
警戒をあらわにするに対し、ホークスの態度は気負ったものなどひとつもなく、あまりに気怠い。背にある翼がいつもより小さいのは、脳無との戦いで消耗したからだろう。エンデヴァーと比べれば軽傷ではあるが、それでも激しい戦いを終えたのはホークスも同様である。
ホークスが軽く肩をすくめて、両手を上げて降参のポーズをとった。
「はいはい、もうしませんよ。だから、そんな怖い顔せんでくださいよ」
「……」
「さん、俺だって傷つくんですよ? それに、患者さんにはもっと優しくしてもいいんじゃないです?」
ゆっくりとした足取りで距離を詰めたホークスが、背をかがめて顔を覗き込んでくる。「患者さんって、ホークスさんの治療はもう終わってるはずです」と、は狼狽えながらも答えて、顔を背けた。
「久しぶりに会えたって言うのに、つれないな」
ホークスが拗ねるように言って、苦笑を漏らす。
「それとも、一度寝た男とは目も合わせない主義ですか? 酷いひとだ」
「な、」
かあっと頬が熱を持つのがわかった。それは、羞恥でもあったし、怒りでもあった。
思わずホークスを睨み付ければ、彼は満足そうに笑んだ。「やっと、俺のほう見てくれましたね」と、穏やかな声が耳を打つ。
ホークスの視界はいつものゴーグルで覆われていない。その目元が、かすかに赤いような気がして、は小さく息を呑んだ。はは、と吐息を漏らすように力なく笑ったホークスが、の肩口にこつりと額を預けた。びく、と震えて強張った身体は、彼を跳ねのけることをしなかった。
「……さん、抱きしめてもいいですか」
うんともすんとも答えていないのに、ホークスの手はすでにの背に回っていて、ぎゅうと力を込める。速すぎる男、があまりにも相応しくて、は思わず笑みをこぼした。
「すみません。俺のほうがよっぽど酷い奴です」
「ホークスさんは、」
はそろりとホークスの背へ手を回した。ぽんぽん、と幼子をあやすように優しく背を叩いてやる。
「あなたは酷いひとなんかじゃありません。とても立派なヒーローです。エンデヴァーさんと一緒に、街のみんなを守ったじゃありませんか。ホークスさんのおかげですよ」
No.2ヒーロー。速すぎる男。ホークス。
それらは彼であって、彼ではない。
ふいに抱きしめる腕の力が強まって、は一瞬息を止めた。「馬鹿だなさん」と、ホークスがまるで泣き声みたいに湿っぽく呟くから、は驚いた。
しかし、腕の力をゆるめての顔を覗き込んだホークスの顔には涙はなかった。
「ちゃんと拒んでくれないと、あなたが欲しくて我慢できなくなるじゃないですか」
欲を隠そうともしないホークスの瞳が、眼鏡のレンズ越しにを射貫く。
その目を見るのは、二度目だ。
「待っ──」
「さんは遅いな」
制止も虚しく、ホークスの手が眼鏡を取り上げた。慌てて顔を伏せても、もはや意味はなかった。「ずっと、こうやって、あなたに触れたかった」する、とホークスの手が背を撫で上げる。
「俺にしてはよく耐えたほうです。うん、よく我慢したな、俺」
「ホークスさ、」
「だから、もういいですよね? デビルクイーン」
小恥ずかしいヒーロー名を口にされ、思い出したくもない記憶が蘇ってくる。
プロヒーローとして活動していた頃、個性をうまく使いこなせずに、治療と共にひどい催淫をしてしまって──その相手が、ホークスだった。
かちゃん、と足元に眼鏡が落ちる。ホークスの唇が眼前に迫るが、逃げる場所などどこにもなかった。