「ねぇ、アンタと伏黒って仲悪いの?」
ズズッ、とジュースを啜って、空になったパックを釘崎が握り潰す。それをゴミ箱めがけて投げるも床に転がり、釘崎が「虎杖ぃ、頼んだ」と気だるげに言った。
虎杖が不満を漏らしながらも席を立つ。はその一連の流れをを見つめながら、釘崎の言葉を考える。
入学当初、呪術高専の新入生はと伏黒の二人だけであった。
にとって、伏黒は初めて会う同年代の呪術師だった。だから、伏黒と会うことが楽しみだったし、心待ちにしていた。
虎杖と釘崎が来るまでの約二ヶ月間は、たった二人の一年生として、仲良くやってきたつもりだったのだが──
「も、もしかしてわたし、伏黒くんに嫌われてる?」
の顔色がさっと青ざめる。
きちんとゴミをゴミ箱に捨てた虎杖が「それ、俺も気になってた」と、を振り返った。
「えっ、悠仁くんまで!? えー……仲、悪く見える?」
虎杖が椅子を持ってきて、の隣に腰を下ろした。の正面に座る釘崎が「話に入って来んな」と、虎杖を追い払おうとする。
「何で俺だけ仲間外れにしようとすんの。教室に三人しかいねーんだからいいじゃん」
「男子禁制なんですー。あっち行け、シッシ」
「野薔薇ちゃん、そんなに邪険にしなくても……」
言い合っていた釘崎と虎杖が、顔を見合わせ「それ」と、声をハモらせてを指さした。息が合っているなと感心しながら、はきょとんと二人の顔を見比べる。それが何を指すのか、すぐにはわからなかったのだ。
「って、誰でもそうやって名前呼ぶのに、伏黒だけ“伏黒くん”でしょ? 正直、違和感あるのよね」
「そうそう! 五条センセのことも、先輩たちも下の名前で呼んでんじゃん。何で伏黒には余所余所しいの?」
う、とは言葉に詰まる。
釘崎も虎杖も、同じように感じていたのなら、伏黒本人もそうと感じていても不思議ではない。仲が悪いというよりも、が伏黒を嫌っている、というふうに見えていたのかもしれなかった。
二人の視線に耐えかねて、は目を伏せた。
は決して伏黒を嫌っているわけではないし、余所余所しくしているつもりはなかった。伏黒を“恵くん”と呼べないのには、理由がある──のだけれど、あまりにくだらな過ぎて説明するには照れくさい。
答えあぐねていると、二人がぐいぐいと迫って圧をかけてくる。は途方に暮れた。
ガラッ、とふいに教室のドアが開いた。このときばかりは、あの五条が、には神や仏のように見えた。
「何してんの? もう昼休み終わるよー、てかもしかして、苛められてる?」
五条が楽しげに言って、あまつさえ小さく吹き出す。ほんとうに教師か疑わしい。やはり五条は神でも仏でもない、悪魔だ。
一気に教室内の雰囲気が白けて、各々が自分の席に着いた。は釘崎たちの追及から逃れたことに胸を撫で下ろしながら、任務でいない伏黒の席を見やった。
放課後、二人をうまく躱して寮に帰る頃には、はぐったりしていた。はあ、とため息を吐いて自室のドアノブに手をかけた時、廊下の人影に気づいた。
「あれ? 伏黒くん、帰ってたんだ?」
声をかけてから、ははっと慌てて口を押さえた。伏黒だけ“伏黒くん”──釘崎の言葉が脳裏過ぎる。
の不自然な様子に、伏黒が視線だけをに寄越す。いつもと変わらぬ制服姿であることから、任務から帰ってきたばかりのようだ。一見して、大した怪我もない。
「めっ、……」
「め?」
伏黒が怪訝そうに片眉を跳ね上げる。
「あ、いや、何か目にゴミ入ったかなぁー」
恵くん、と口にすることができなくて、は目を擦って誤魔化す。「馬鹿、擦るな」と、伏黒に手を掴まれ、顔を覗き込まれる。
伏黒の長い睫毛がよくわかる距離だった。窓から差し込む夕日の色に、伏黒の瞳が染まっている。
反射的に背けそうになった顔を、伏黒の手が頬を掴んで固定する。
「見せてみろ」
そうっと、伏黒の指先が目元をなぞる。ぶわり、と顔に血が集まるのがわかった。
「取れたか?」
目にゴミなど入っていなかったので、取れたも取れないもなかったが、はコクコクと頷いてさっと自室へと逃げ込む。
しかし、ドアに背を預けてほっと息をついたところでお礼はおろか、肝心なことを言い忘れたことに気がつく。そっとドアを開ければ、目を丸くした伏黒が立ち尽くしていた。
「あ、ありがとう伏黒くん。それから、お帰りなさい。お疲れさま」
伏黒の言葉を待たずに、はパタンとドアを閉める。はずるずるとその場に座り込み、おかしな態度をとってしまったことを反省した。
伏黒に掴まれた箇所に視線を落として、それから顔を両手で覆う。まだ、伏黒の指の感触が顔に残っているような気がして、はブンブンとかぶりを振った。
低級の呪霊を払って車に戻れば、すでに伏黒が後部座席に座っていた。さすがは二級呪術師、この程度の呪霊など相手にならないのだろう。を待ちくたびれたのか、伏黒は窓に凭れて眠っていた。
伊地知が帳を解除すると、夕焼け空が現れる。時間の流れを感じて、さらに疲労感が増すような気がした。
「潔高さん、お疲れさまです」
「さんこそ。真っ直ぐ高専に帰って、問題ありませんか?」
「はい、わたしは全然。伏黒くん、伏黒くん?」
伏黒から反応はない。ちょっとやそっとでは起きそうにないことを、は慎重に確かめた。
そして、小さく息を吸う。
「め、恵くん、起きて」
静かに寝息を立てる伏黒の肩を軽く揺する。あ、と思ったときには、伏黒の身体が反対側──に向かって倒れていた。
「……」
肩に伏黒の重みを感じながら、は正面を向く。ミラー越しに伊地知と視線が合った。
「伏黒くん、だいぶお疲れのようですね」
「そう、みたいですね」
は苦笑を漏らす。伊地知が「では、車を出します」と、エンジンをかけた。
心地よい揺れが止まった。
はっと飛び起きて、は自分が眠ってしまっていたことに気づいた。と、同時に、額に頭が走る。
「っつ……!」
呻いたのはではなかった。痛みに悶えるの隣で、伏黒が額を抑えている。
その赤くなった額が目に入った瞬間、の口から「ひっ」と引き攣った声が漏れ出た。が飛び起きたせいで、伏黒と額をぶつけてしまったのだ。
「……?」
「ご、ごめんなさい! わたしまで寝てた……」
「ああ……なるほど」
まだぼんやりとした様子で、伏黒が頷く。
くすりと笑う声に気づいて、はバックミラーを見やる。
「すみません。お二人とも気持ちよさそうに眠っていたもので、声をかけそびれました」
は、自分が寝入る直前の格好を知っているため、伊地知の言葉をそのままには捉えなかった。微笑ましくて、という言葉が聞こえてきたような気さえする。
居心地の悪さを感じ、はシートベルトを外してさっさと車を降りる。
眠気が残っているのか、伏黒にしてはやけに緩慢な動きで、に続く。窓を開けた伊地知が「お疲れ様でした」と、微笑む。
「はい、お疲れさまです。潔高さん」
「……お疲れさまです」
「そういえば、真っ直ぐ帰ってきちゃったけど、どこか寄りたいところとかあった?」
「いや、」
伏黒があくびを噛み殺し、気恥ずかしげに顔を背けた。
「……別に、どこもない」
「そ、そう。それならよかった」
見てはいけないものを見てしまった気がして、は俯きながら歩き出した伏黒の後をついていく。
陽が落ちてきて、階段に二つの影が長く伸びていた。
「伏黒くんの影、ツンツンしてる」
ふふ、と笑うと伏黒が足を止めて振り向いた。よもや怒らせてしまったかと、は恐る恐る視線を上げる。
けれど、伏黒は存外穏やかな顔をして、を見下ろしていた。
「お前は影も小さいな」
「へ? いや、待って! 実物と影を比べたら、ものすごく大きく……ひゃっ」
慌ただしく動いたせいで段差に躓き、は伏黒に腕を掴んで引き寄せられる。「おいっ、落ちるぞ」と、やや焦りを含んだ伏黒の声が、耳元に落ちた。
反射的に振り向いたの鼻先が、伏黒の顎に触れた。
「あ、りがとう……」
はぎこちなく、伏黒から離れる。
重なっていた影もまた、の動きに合わせて離れたが、手がくっついている。は掴まれたままの手を見て、それから伏黒を見た。
伏黒の色白の肌が、夕日を受けて赤みがかっている。
「なぁ……恵って、呼んだか?」
「えっ? あっ! わぁ、やだ、起きてたの?」
「いや、起きてはない。ただ……そんな気がしただけだ」
「うそだぁ、もー……ぐっすりだったのにぃ」
は項垂れる。
顔が熱くてたまらなかった。空いている手で顔を覆うが、片手ではほとんど隠れやしない。
「ごめんね、嫌……だよね」
初めて伏黒と会ったときの失態を思い出して、は顔を上げられない。
「……別に、好きに呼べばいい」
「ええっ、いいの!?」
目を丸くして伏黒を見ると、の勢いに驚いてか、同じように瞠目していた。
ふいっ、と伏黒がそっぽを向く。
「まあ……恵“ちゃん”じゃなけりゃ、どうとでも」
首の付け根を軽く掻きながら、目を逸らしたまま伏黒が小さく告げる。
苦い記憶である。痛いところを突かれて「うっ」と、は胸を押さえた。何を隠そう、は名前だけを聞いて、伏黒を女の子だと思い込んでいたのだ。
「恵ー、入るよ」と、五条がノックもせずにドアを開けた。は伏黒の顔も見ずに「初めまして、恵ちゃん! です、よろしくお願いします」と、頭を下げて右手を差し出した。
反応がないことを不審に思って顔を上げた先で、伏黒が固まっていた。
「ププッ、よろしく。恵ちゃん」
ニヤニヤと笑う五条に対し、伏黒が苦虫を噛み潰したような顔をした。は自分思い違いに気づいて泣きたくなったし、実際少し泣いた。
「……恵くん」
まだ呼び慣れぬ名を、噛み締めるように呟く。うれしさが、じわじわと胸に広がっていく。
「ふふっ! 恵くん、上まで競そ……」
伏黒の手を振り解こうとするも、ぎゅうと握られそれは叶わない。は不思議に瞳を瞬かせる。
「急がなくていいだろ」
「う、うん。まあ、そうなんだけど」
「……俺は、」
伏黒がを見つめる。何故だか、その瞳に吸い込まれるような感覚を覚えた。
「まだ、と二人きりでいたい」
あまりの驚きに、はまたも階段を踏み外しそうになるが、伏黒がしっかりと支えてくれる。は伏黒にしがみついた体勢を立て直すが、顔を上げることがどうしたってできそうになかった。
「恵くん、待って。わたしの心臓がもたない」
は真剣に訴えたのに、伏黒は珍しく声を立てて笑ったのだった。