「おおチルチャックよ、死んでしまうとはなさけない」

 重い瞼を中ほどまで開けて、ぼやけた視界に映る覗き込む顔を誰それと認識するより早く、無慈悲な声が聞こえた。ぱち、と目を見開くと同時に、ぐんにゃりとしていた意識が覚醒する。
 チルチャックは素早く身体を起こし、距離を取った。
 見覚えのある顔はなおもチルチャックを見つめて、微笑む。

「久しぶり」

 そこに敵意などは一切ない。蘇生術を掛けてくれたのは間違いなく彼女なのだから、そんなものがあるわけがないのだが、チルチャックは緊張と警戒に身を強張らせる。
 ふう、とため息にも似た一息を吐いてから、チルチャックはじろりと視線を向けた。

「何でおまえがここにいる、
「……偶然?」

 が小首を傾げる。
 チルチャックは、ひくっとこめかみが引きつったような気がした。

 チルチャックはから答えを得るのを諦めて、周囲へ視線をやった。
 「ひっ」と、思わず引きつれた悲鳴と共に、チルチャックは後ずさる。元は立派な宝箱に模していたはずのミミックが、見るも無残にベコベコのボコボコにされており、禍々しい体液を散らしている。そうだ、自分はあれにやられて──恐怖に顔を引きつらせながら、チルチャックはなおも視線を巡らせる。
 が持つメイスがどろりとした体液で汚れていたが、チルチャックは見ないふりをした。

 四畳半ほどの小さな部屋には入り口らしきものは見当たらなかった。
 チルチャックはここに落下したのだが、天井を見ても穴のようなものはない。何らかの仕掛けがあるには違いない。幸運なことに自分は罠の開錠を得意としている。ここから出られるのも時間の問題だろう。

 しかし、何故こんな目に遭わなければならないのだ。ちっとも指示通りに動いてくれないセンシのせいで、割を食ってしまったことに苛立ちが募る。センシが罠を発動さえしなければ、こんなところに落ちてくることはなかったし、ミミックに追いかけ増された挙句に殺されることもなかったし、と会うこともなかったのだ。
 ちっ、と小さく舌を打って、チルチャックは立ち上がる。

「チルチャック」
「……助けてくれたことには感謝する。だが、それだけだ」
「どうして怒っているの?」

 が心底不思議そうに瞳を瞬かせた。「別に。ここから早くオサラバしたいだけだ」と、チルチャックはを振り返ることもせず、つっけどんに返す。

「……大嫌いなミミックのせい? それとも、それより嫌いなわたしがいるから?」

 そう訊ねるの声音は、別段悲しそうでも何でもなかった。壁に指を這わしながら、チルチャックはちらりと彼女を一瞥する。そうだと答えれば、少しは表情を変えるんだろうか、と思うがチルチャックは沈黙を貫いた。

 彼女はいつも楚々とした微笑みを湛えている。その聖女らしい外見と裏腹に、メイスで蛸殴りすることを得意とする奇抜な奴だった。正直あの光景は地獄絵図のようで、もう二度と目にしたくない。ミミックがこのありさまである。こういう猟奇的な奴とは、関わり合いにならないのが一番だ。
 一時期、ライオスらとパーティを組んでいたが、すぐに抜けていった。離脱の理由を聞いたような気もするが、チルチャックの記憶には残っていない。彼女がいなくなってホッとしたのは確かである。

「ねぇ、もしチルチャックさえよければ、力を貸そうか?」

 それは、魅力的な提案に違いなかった。損得勘定で考えれば、一にもに二もなく、頷くべきである。
 いまチルチャックたちは、ファリンを失っている。マルシルも術を扱えるが、治療術は得意ではない。メイスでの戦う肉体派だとしても、プリーストの魔法の使い手としては問題がない──

 頭では理解しているのに、チルチャックは返事をすることができなかった。

「ふふ、チルチャックは自分に正直ね」
「はあ?」

 わかった風に言われて、思わず振り返る。チルチャックは機嫌の悪さを微塵も隠さずに、を睨んだ。やはり、微笑みを浮かべるばかりで怯む様子はない。
 チルチャックはの傍らに置かれたままのメイスを視界の端で捉える。
 いかに女性とはいえ、トールマンとハーフフットでは体格差がありすぎて、力で制することはできないだろう。とはいえ、素早さを活かして不意をつくことができれば、あっと言わせることくらいなら可能かもしれない。

 チルチャックは低い姿勢を取って、座ったままのに飛び込む。無防備な肩を足蹴にして、後ろに傾く身体にのしかかると馬乗りになる。衝撃に目を瞑った瞳が開かれて、硝子玉のようにチルチャックの姿を反射する。
 手を伸ばそうともしないメイスを、チルチャックはこれまた足で蹴って遠くへ転がした。

「あなたのこと殴ったりしないよ」
「……どうだか」

 少しも焦る様子がないのは癪である。チルチャックは腰元のナイフを手にして、首元にひたりと添える。

「恩を仇で返して悪いな」
「大丈夫、恩に着せようなんて思ってないもの」
「おまえな……」

 この状況でもまだ微笑むなんて、どうかしている。
 ぐっ、と力を入れて刃を押しつければ、わずかばかりの傷がついてぷくりと血が浮き出てくる。

「おまえのそういう所が気に食わないんだよ」

 貼りつけたような微笑みばかりで、その本心がまったく見えてこない。このまま刃を横に引けば、動脈が切れて出血多量で事切れるだろう。にそれがわからないわけがない。

「だったら、わたしが泣いて喚いたら、満足するの?」

 から微笑みが消える。ぞっとするほど無感情な顔だった。
 命を握っているのはチルチャックの方なのに、思わず怯む。その隙を見逃さずに、がチルチャックの手首を捉えて、捻り上げた。カラン、と乾いた音を立てて、ナイフが手から落ちる。
 しまったと思ったが、がそれ以上何かを仕掛けてくることはなく、すぐに手を解放した。

、」

 そして、その手はチルチャックの頬に触れる。指先はつめたく、ぞくっと走る悪寒に身を竦める。
 泣いて喚いた所で、鬱陶しくて毛嫌いするに違いない。どっちにしたって、彼女に親しみを覚えることなどないのだろう。

 がふ、と眉毛を下げて笑んだ。いつもの微笑みとは違う、人間味のある表情をしていた。初めて見る顔だった。

「そうやって、嫌いだって思ってもらえている間は、わたしのことを覚えてくれるでしょう」
「なんだそりゃ」

 チルチャックはむっと、眉根を寄せる。

「好かれたいならもっとやりようがあるだろうが」

 そうかもしれないね、とが力なく吐息するように笑った。

「でも、こうするしか知らなかったから、」

 頬に這わせたの手を掴んで、地面に縫い付ける。驚きに目を瞠り、何かを言いかけたを無視して、チルチャックは今しがた己がつけた傷に唇を落とした。滲み出る赤い血を舐めとると、ぴくりとの身体が小さく跳ねる。

 半ばやけくそな気持ちだった。ほんの少しだけ、困ったように笑う顔が可愛く見えて、嫌われてでも記憶に残りたいなんてのがいじらしく思えただなんて──血迷っているに違いない。

「……」

 首から顔を上げて、を見下ろす。ぎゅうと目を閉じるその顔は、真っ赤に紅潮している。ぞくりとチルチャックの背筋を駆け上ったのは、悪寒ではなかった。

 結ばれた唇に己のそれを重ねて、舌でこじ開ける。清純そうに見えてそうではないのを知っているため、遠慮せずにチルチャックは口腔内を蹂躙した。初めは戸惑って逃げるような動きをしていたの舌が、躊躇いがちに応えてくる。
 一度唇を離せば、が大きく息を吸い込んだ。

「チルチャック……」

 とろりとした蜜のように甘い声が囁いて、チルチャックは誘われるようにもう一度唇を合わせた。今度は、薄く口を開いて舌を招き入れてくる。
 やっぱりこいつはちっとも清純じゃない、と思いながら、チルチャックは思う存分の唇を味わった。

 が伏せた目をチルチャックに向ける。その瞳はわずかに潤んでいた。

「好きだってしってた?」
「……生憎、ライオスみたいに鈍くないんでな」
「ふふ、そっか」

 やわらかく細められた眦から、涙粒がひとつ落ちる。
 そういう顔を早く見せてくれていたのなら、もっとマシな態度を取っていたし、もっと好ましく思えたはずだ。聖女じみた微笑みは、はっきり言って嘘くさくて不快だった。

「嫌われるよりもずっと、無関心が一番怖い……」

 が唇を震わせる。親に叱られるのを恐れる幼子のようだった。

「馬鹿じゃねぇの。嫌われるより、好かれる方がよっぽどいいに決まってんだろ」

 チルチャックは呆れて笑い、見た目はともかくとして年下である彼女の頭を、宥めるように撫でてやった。「そうだね」と、もまた呆れたふうに、小さく声を立てて笑った。



「チルチャック、ここか!?」

 バンッ、と勢いよくないはずの扉が開け放たれ、ライオスが飛び込んでくる。そのあとに続いて、マルシルとセンシ、それから見覚えのない冒険者が数人ぞろぞろと入ってくる。

「………」

 場の空気が凍る、というのはこういうことだ。
 ライオスの視線がチルチャックを見て、組み敷かれたを見て、それからミミックの残骸を見た。そして、その顔が赤くなったり青くなったりと忙しなく変化する様をチルチャックは見ていた。

「よかった、ちゃんと連れてきてくれたのね」

 が首元を髪の毛で庇うようにしながら、おもむろに身体を起こす。あっけらかんと「わたしの仲間にライオスたちを探してもらっていたの」と告げるに対し、チルチャックは消えていた苛立ちが戻ってくるのを感じた。
 ちっ、と大きく舌打ちして、その顔には似合わぬ悪態をつく。

「やっぱおまえ、気に食わねぇわ!」

 けれども、その感情には確かな変化があったことを、チルチャックは知っている。知っているからこそ、厄介なのだ。くすくすと笑うを小突くが、まったく堪える様子がない。

「……はあ、どっと疲れた」

 チルチャックは深くため息を吐いた。けれども、その心は存外重くないのだった。

(全部取り払ってしまえばいい)