「あれぇ? フグせんせーじゃん」
フロイドの間延びした声に、リリアが「おお、そうじゃそうじゃ!」と瞳を輝かせた。
やけに豪華なソファに座るのが、ナイトレイブンカレッジの教師である・だと、エースはすぐには気づけなかった。フロイドの妙なあだ名が誰を示すのか見当もつかなかったし、いつもよれよれの白衣を纏って、化粧っ気もないのが彼女だったからである。しかし、そこにいたのは、ドレスを身に纏いきれいに化粧を施した、美しい女性だった。
ピクリとも動かない様も相まって、よくできた人形のようにさえ見えた。
「ここに一番に辿り着いた者が、姫とダンスを踊る権利を得られるはずじゃったんだがのう。まさか、仲良くみんなで一緒に来るとは思わなんだ」
「……え、姫?」
「ふふん、美しかろう。いつもとは見違えたじゃろう」
「チッ。教師のくせに、妙なことに巻き込まれやがって。姫なんて柄かよ」
忌々しげに舌打ちしたレオナが、くしゃりと髪をかき上げる。唸り声さえ上げるから、間近でそれを見たエースはぎくりと身を強張らせた。
フグ先生。教師。そこでようやく、エースは姫がだと思い至った。
ナイトレイブンカレッジにおいて、女性教師は彼女しかいない。
たしかに、リリアの言う通り、いつもとは見違えたし美しい。エースは思わず、まじまじとを見つめる。
「カニちゃんさあ、見過ぎじゃね?」
その声音もその顔も普段通りなのに、首に絡まる長い腕は本気でエースを落としにかかっていた。エースは慌てて「いや、見てないっス!」と、から思い切り顔を背けた。
「褒美があったほうが脱出ゲームも盛り上がると思ったんじゃが、やれやれ……お主たち、血の気が多すぎる」
リリアがする、との頬に指先を走らせる。
エースの首に絡まったままの腕が、ぐっと力を込めた。「ギブギブ!」と、エースは死に物狂いでフロイドの腕をタップした。
「お目覚めの時間じゃ」
ぱちんとリリアが指を鳴らす。
閉じられていた瞼が震えて、長い睫毛がおもむろに持ち上げられる。誰かが、ほうとため息を漏らした。
「……リリア・ヴァンルージュ?」
「おはよう、姫」
「姫……? なっ、え、なに──ここ、どこ……」
「ゴーストの世界じゃ」
「……ヴァンルージュ、いまなんて?」
リリアがあまりにあっけらかんと告げたからか、が信じられないとばかりに聞き返す。ミラーボールの眩しさに目を細めながらあたりを見回して、「ハロウィーン?」と怪訝そうに眉をひそめた。
「はあ、ヴァンルージュじゃ話にならない。ローズハート、説明をお願い」
が声をかけたのは、我らが寮長リドルだった。頷いたリドルがのほうへと足を踏み出したとき、それを遮るようにフロイドが間に身を滑り込ませた。いつの間に、とエースは圧迫感の消えた首元を押さえながら、ぎょっとする。
驚きに身をのけぞらせたリドルが、端正な顔に怒りを滲ませた。
「フロイド、何の真似だい」
「あはっ、いいよぉ金魚ちゃん。説明ならオレがするし~」
「げ、フロイド・リーチ……」
顔を引き攣らせたが後ずさるが、長い腕が伸びてむき出しの肩を抱き寄せた。
小柄なにフロイドが絡むと何とも凶悪な絵面である。うわあご愁傷様、とエースは内心で合掌した。エースと同じような気持ちなのか、オンボロ寮の監督生も気の毒そうな顔でを見ていた。
「はっ、テメェにまともな説明ができるとは思わないがな」
あれ、とエースは目を瞬いた。
先ほどまですぐ傍にいたはずのレオナが、フロイドに噛みついている。フロイドとレオナに挟まれるが、殊更小さく見えた。リドルも然りである。
「先生が困って……」
「リドルくん、やめたほうがいいっスよ。巻き込まれたらたまったもんじゃないでしょ」
こそっと耳打ちしたラギーが、リドルを二人から引き離す。
ふむ、とリリアが顎に指先を添えて、思案顔をする。それは無垢な少年のようだったが、次にはにやりと唇を歪めてみせた。エースの背筋がぞくりを震える。
「残念じゃが、お主らに姫と踊る権利を与えるわけにはいかぬ。脱出ゲームの勝者はなしじゃからな」
フロイドとレオナの鋭い視線を受けてなお、リリアはうっそりと笑うばかりだ。
「マレウス、姫のパートナーを……」
「僕が? しかし、僕は練習の成果を見せなければ」
「練習? いったいなんのことでございますか?」
「ふふふ……なんだと思う?」
セベクの言葉に、マレウスが意味深に笑う。まさしくラスボス、という風貌だったが、もはやゴーストに乗っ取られたわけでもないとわかれば恐怖もない。
「ハロウィーンダンスパーティーの始まりだ!」
マレウスが高らかに宣言し、パイプオルガンに前に着席した。「あー、なる。これが練習の成果ね」と、エースは小さく呟いた。
いまだ、を挟んでフロイドとレオナが睨み合っていたが、エースは見ないふりをした。
これ以上、二人に振り回されるのはごめんである。
唐突に始まったダンスパーティーには目を白黒させるばかりだ。
フロイドの邪魔が入ったせいで、まともに状況を把握できていない。たしか、学園で仮眠をとっていたはずだが──思い返しても、そこで記憶は途切れている。もしかしたら、これは夢なのかもしれない。あのマレウス・ドラコニアがノリノリでパイプオルガンを奏でているのも、夢ならば納得である。
はそう思いながら、改めて自身の恰好を見下ろした。
生徒たちはハロウィーンの仮装をしているのに、何故自分だけ豪奢なパーティドレスなのだ。スカラビア寮の仮装はどうした。
「フグせんせぇ?」
フロイドが長身を屈めて、顔を近づけてくる。軽くのけ反るも、肩に回ったフロイドの腕が距離を取ることを阻んだ。
左右で色の異なる垂れ目が、じっとを見つめる。
「リーチ、まずは離れなさい。この手を離して」
「え~、フグせんせーのケチ」
手の甲を軽く叩けば、文句を垂れながらもフロイドの腕は離れていった。
フロイドが案外素直に従ってくれたことに内心で胸を撫で下ろしながら、はちらりとレオナを見やる。腕を組むレオナの顔は、まさに不機嫌そのものだ。生徒たちの中でも群を抜いて背の高い二人に囲まれると、圧迫感がすごい。
が教師で、二人が生徒でなければ、尻尾を巻いて逃げだしていただろう。しかし、はいかにもナイトレイブンカレッジの教師らしく、胸を張った。あくの強い生徒だらけの中で、怯えを少しでも見せれば舐められる。はそれを十二分に理解していた。
「それで? これはいったい、どうなっているの?」
「忘れ去られたゴーストのためのハロウィーンパーティーだと。マレウスがゴーストに手を貸しやがった」
「ドラコニアが……はあ、やっぱり夢じゃないんだ……」
マレウス・ドラコニアならば、その気になればなんだってやれる。いかに荒唐無稽なことだろうと、マレウスが関与したとなれば、納得せざるを得ない。
「ん? 他の先生は?」
「ハロウィーンに招待されたのオレたちだけだしぃ」
「そ、そう……」
クルーウェルの姿がないことにほっとすればいいのか否か、は判断がつかなかった。
夢だったなら、どれだけよかっただろう。眠っている間にゴーストの世界にさらわれる教師、間抜けすぎやしないか。
「それにしても、ゴーストの世界にしてはずいぶん煌びやかな……」
ミラーボールを見上げるの肩に、ばさりと重みが乗った。見れば、レオナが自身の脱いだジャケットを掛けてくれていた。ラギーならまだしも、レオナのサイズのジャケットはひどく大きくて重い。
不格好ではあるが、レオナなりにを気遣ってくれたのは明らかである。
レオナは口が悪いし態度も大きいが、女性には意外と紳士的だ。植物園を管理するは、そこに入り浸るレオナとは自然と付き合いがある。には手が届かない植物も、頼めばぶつくさ言いながら採ってくれるのがレオナなのだ。
「ありがとう、キングスカラー」
ふん、とレオナが鼻を鳴らす横で、フロイドが不機嫌そうに唇を尖らせている。
「せっかくキラキラしてカワイーんだから、隠さなくていいじゃん。それよりせんせぇ、オレと踊ろうよ」
「わっ……! リーチ、引っ張るのはやめなさい」
「アハ、フグせんせーちっちゃいもんねぇ。オレと踊るには、足が短すぎるかなあ」
「くっ……人魚のくせにダンスがうまい……!」
どうせなら足のひとつでも踏んでやろうと試みるが、フロイドはひょいと軽やかに躱していく。ダンスが趣味なだけはある。アズールならばこうはいくまい。
くるくると回されるせいで、肩からジャケットが落ちそうになる。
「おい、フロイド」
ため息交じりのレオナの声が届いた瞬間、とフロイドの間を裂くように、エースが飛び込んできた。「うわっ」と悲鳴を上げているあたり、レオナによって突き飛ばされたに違いない。
フロイドの手が離れた隙に、レオナがを引き寄せた。
「テメェの相手はそいつで十分だ」
「はあッ!? ちょ、レオナ先輩、冗談でしょ!」
「んー、まあいいや。カニちゃん生意気だけど、意外と可愛いとこあるし」
がしっ、とフロイドに掴まれたエースが顔を引き攣らせる。同情の視線は多数向けられるが、エースを助けようという者は誰ひとりとしていなかった。
ダンスの輪から無事に抜け出すことができ、は小さく息を吐いた。
「ししっ、海賊にさらわれたお姫様ッスね!」と、ラギーがからかいつつも、律儀にとレオナに料理を手渡していく。日頃からレオナの世話役を焼いているだけある。
「今年のハロウィーンはいろいろあり過ぎて、忘れられそうにないよ」
肉料理にかぶりつくレオナに、は肩を竦めて笑いかける。
眼帯に覆われていない右目が、気だるげな視線をへと寄こした。
「マレウスの野郎には、たっぷり礼をしないとな」
「まぁ君たちにも非はあるんだから、大目に見てあげるように」
いきなり魔法でコテンパンにされたゴーストは、さぞ恐ろしかっただろう。しかも、襲いくるのはこの獰猛な百獣の王である。
「先生、よければ俺と踊りませんか」
そう声をかけてきたのはシルバーだった。ダンスを好むタイプではないはずだが、ニヤニヤしているリリアにけしかけられたのかもしれない。
は差し出されたその手を取ろうとして──
「悪いが、これは海賊の宝だ。奪わせやしねぇぞ」
シルバーがオーロラ色の瞳を丸くするのと同様に、も瞠目した。レオナの腕が身体に絡みついて、は身動きができない。
背後でリリアが「独り占めとはけしからん」と文句を言っているが、シルバーは素直に頷いて退散していく。
「……海賊にさらわれた姫?」
は首を捻って、レオナを見上げる。
「ごちゃごちゃ言ってる奴もいるが、お前が姫なら相応しいのは俺しかいねぇはずだ。そうだろ?」
海賊帽をかぶりながら言う台詞ではないが、たしかにレオナは第二王子である。姫には相応しいに違いない。
は「そうかもね」と、小さく笑って前を向いた。
ふいに、ぎゅうとレオナの腕が一層強くを抱きしめた。レオナの顎先が、の頭に乗った。レオナの三つ編みが頬をくすぐる。
「ったく……なにがキラキラして可愛いだ。着飾らなくたって、んなこたぁ知ってんだよ」
ぼそ、と落ちてきた声に、は固まる。一瞬、ゴーストの悪戯かとさえ思うが「なあ、先生よ。お前も無防備に晒してんじゃねぇ」と、レオナが追い打ちをかけてくる。
はしばし、レオナの腕を振り解くことさえ忘れ、立ち尽くしたのだった。
今年のハロウィーンは、どうしたって忘れられそうにない。