しまった、と思ったのはすでに反射的にライオスの後を追いかけた後だった。
呑気に牛乳を取りに行ったライオスの姿はまだ見えない。このままライオスを追うか、マルシルたちの元へ戻るか、その躊躇いがの足取りを重くさせた。
完全に孤立してしまった。これではミイラとりがミイラになってしまう。
「、なにやってんだよ」
呆れた声が聞こえて、は立ち止まって振り返った。
「おまえまで孤立してどうする」
「チルチャック……」
「ライオスはどこだ?」
そう言って、チルチャックがを見上げる。いつもなら、視線を合わせるために腰を屈めるが、はそうしなかった。
見慣れた声に、見慣れた姿だ。
シェイプシフターのときのように、違和感があるわけではない。
「?」
怪訝そうに顔を覗き込まれる。「おい、どうした」と、伸ばされた手から、は咄嗟に距離をとった。きょとん、とチルチャックが瞳を丸くする。
「マルシルは?」
「……なんだよ、急に。イヅツミとあっちにいるよ」
「そう……」
「ライオスの奴、向こうでもう倒れてんじゃねえの」
はあ、とため息を吐くその呆れ顔を、はじっと見つめた。
の視線に少し照れたようにわずかに頬を赤くして「ほら、行くぞ」と、チルチャックが小さな手を差し出す。
は、その手を取らなかった。
「わたし、すこし不安だったの」
「は?」
「わたしの前に現れるサキュバスは、どんな姿なんだろうって。もしかしたら、お母さんなんじゃないかって」
手を差し出すチルチャックの表情が、剣呑なものへと変わっていく。
「でも、チルチャックだった。ほっとしちゃった」
小さく笑ったが武器を手にした瞬間に、「!」と聞こえたチルチャックの声は、目の前の彼から発せられたものではなかった。
慌てて駆け寄ってくるのは”本物の”チルチャックと、マルシルとイヅツミだ。
サキュバスが化けたチルチャックの脳天を、イヅツミのクナイが貫く。偽物とわかっていても、想い人が殺されるのは、気分がよくない。
「げっ……」
もっとも、本人はもっと気分が悪いだろう。頭から血を流して倒れたそれを見て、チルチャックが思い切り顔をしかめる。
「サ、サキュバスだとわかってても、ちょっと心臓に悪いね……」
「……おい、あれライオスじゃないか?」
なんの感慨もなさそうな顔で、イヅツミが指をさす。
駆け寄った先で、確かにライオスが倒れていた。センシと同じく恍惚とした顔をしている。一足どころか、二足も三足も遅かったようだ。
「ごめん、わたしが迷ったから……」
「おまえの所為なわけあるか! こいつが馬鹿なんだよ」
躊躇することなく追いかけていれば、ライオスは無事だったかもしれない。はそう考えて、顔を曇らせる。
しかし、即座にチルチャックに一蹴されて、は瞳を瞬いた。
「だから、余計なこと考えんな」
小さな手がぎゅっとの手を握る。は素直に頷いて、その手を握り返した。
「そのサキュバスとかいう魔物、私が倒してきてやる!」
そう宣言したイヅツミは、チルチャックが「ひとりじゃ絶対に無理だ」と言い含めたにも関わらず、どこかへ行ってしまった。
元より、イヅツミが行動を共にしているのは、成り行きのようなものだ。初めに比べればずいぶん協力的になったが、それでも協調性に欠けるのは、仕方のないことかもしれなかった。はそうやって、諦めをつけている。
「イヅツミめ、ほんとうに自分勝手な奴だな」
苛立たしげに呟くチルチャックをちら、と見やる。
私事と仕事をきっちりわけるポリシーを持ちながら、世話焼きで面倒見がいい。イヅツミを責める口ぶりではあるが、その実心配しているのである。
思わず笑みが漏れてしまって、チルチャックにじろりと睨まれる。は肩を竦めた。
「……なんか甘い匂いしないか?」
ふいに、チルチャックがあたりを見回す。
「甘い匂い?」
「ただのお粥だけど」
ライオスとセンシは、少しずつ栄養を与えながら回復させなければならない。二人のために作っていたお粥からは、当然ながらお粥の匂いしかしない。
はマルシルと顔を見合わせる。
「……いや、武器をかまえろ。もしかしなくともサキュバスだ」
「ええっ!?」
立ち上がったチルチャックが矢を手にする。とマルシルもそれに倣った。
「いいか。相手の姿を見れば、たちまち動けなくなる」
マルシルが緊張した様子で、杖を握りしめる。
いつも前線に立って戦うのは、ライオスとセンシである。二人が戦闘不能であることは、たちにとって大きな痛手だ。しかし、泣き言など言っていられやしない。
「誰かが魅了されたら、動ける奴がサキュバスを殺すんだ。いいな?」
「う、うんっ」
「了解」
「間違って攻撃したら大変だから、のサキュバスはチルチャックに任せるね」
緊張した面持ちではあるが、マルシルの瞳はどこか楽しげである。色恋沙汰に敏い。
チルチャックには損な役回りをさせてしまう。自分の姿をした魔物を倒すなんて、誰だっていやだ。申し訳ない気持ちでチルチャックを見やれば「わかってる」と、顔を背けられる。
「ごめんね、チルチャック」
「……べつに」
チルチャックの声はそっけないし、一瞥すらくれない。なにか言いたげにマルシルがソワソワしているが、近づく気配にそれどころじゃないと杖を握りなおした。
は大きく深呼吸して、身構えた。
鈴が転がるような笑い声が聞こえて、暗がりからサキュバスの姿が現れる。
白い指先がチルチャックに向かって伸ばされる。矢をつがえていたチルチャックの身体は硬直して、弦を引くことができていない。
えっ、と声を上げたのはマルシルだった。
はチルチャックに絡みつくサキュバスに向かって、短剣を投げつけた。息絶えたサキュバスを抱きとめる形になったチルチャックは、呆然としている。
「大丈夫? チルチャック」
「あ、ああ……」
「これって……」
サキュバスの顔を覗き込んだマルシルが「やっぱり!」と叫んだ。
「……っぽいハーフフット! えっ、うそ、え!? いつの間に」
「マルシル!」
顔を赤くしたチルチャックが、マルシルの言葉を遮る。
はよくよくサキュバスの顔を見つめてみるも、似ているのか自分ではよくわからなかった。から顔を隠すように、チルチャックがサキュバスを放る。
「…………」
顔に散った血を腕で拭いながら、チルチャックが立ち上がる。顔だけでなく、大きな耳も赤い。
その耳が、ぴくりと動いた。
暗がりから、さざめくように笑い声が聞こえてくる。ぞわり、と背筋を冷たいものが走って、は身を強張らせた。
にやにやしていたマルシルが、顔を引きつらせて後ずさる。
「嘘……たくさんいる……!?」
「お、落ち着け。同じように処理していけば大丈夫だ!」
音をよく拾い上げてしまうのか、チルチャックが耳を押さえながら声高に告げる。
「俺はを狙うサキュバスをやる。マルシルは俺の、はマルシルのをやれ」
「わ、わかった!」
「うん、任せて」
キャハハ、と甲高い笑い声をあげながら、先ほどと似たような姿のサキュバスが飛び出してくる。
ボボボ、とマルシルの魔法でサキュバスの首が爆発する。
杖を下ろしたマルシルが、微妙な顔でチルチャックを振りかぶった。
「っぽさはあるのに、ことごとく金髪碧眼なんだけど……」
「うるさい! 気のせいだ!」
「理想と現実が絶妙に混じり合ってて、なんか不快……!」
「言うほど似てるかな?」
「似てるよ! まあ、それはおいといて。この調子なら、なんとか撃退でき──」
暗がりから聞こえたのは笑い声ではなかった。パカラッ、パカッ、と蹄音が近づいて現れたのは、白馬にまたがる麗しいエルフだった。背後に薔薇が見えるような気がする。なぜか、死と書かれた眼帯をつけている。
ひゅ、とマルシルが鋭く息を呑んだ。
は冷静に短剣を放ち、急所を仕留めた。「あッ」と、マルシルが残念そうな声を上げるが、気に留める間もなく次々サキュバスが現れる。
「チルチャック、しっかり!」
マルシルのサキュバスを目にしたチルチャックが笑い転げるせいで、うまく回らない。
気がつけば、すぐ傍にチルチャック──の姿をしたサキュバスが立っていた。ぎくり、とは思わず動きを止めてしまう。チルチャックではないとわかっていても、すぐに武器を振りかぶることができなかった。
「きゃっ」
小さな身体にぶつかられて、は尻もちをつく。馬乗りになったチルチャックの顔が近づいてきて、は咄嗟に両手で顔を覆った。唇は奪われたくなかったし、たとえ偽物でもチルチャックの顔を前に、恥ずかしくなってしまったのだ。
「……」
いつになく甘い声で囁いたその唇が、首筋に触れる。悔しいが、は抵抗することができなかった。
やさしく揺すられる感覚に、意識が浮上する。
心配そうに顔を覗き込むチルチャックが見えて、はふにゃりと微笑んだ。
「チルチャック……ほんもの……」
両腕をその首に回そうと伸ばせば、顔を赤らめたチルチャックが飛び退く。「、起きた?」と、ライオスを揺さぶるマルシルが、こちらを向いた。ウキウキと瞳が輝いている。
ぼんやりとしながらは身体を起こして、はっとする。
「サキュバス……」
「あっ、そうか! サキュバス!」
の呟きに反応して、ライオスががばりと起き上がる。
水場の隅にサキュバスが積み重なっているのを見つけて、はライオスと顔を見合わせた。
「誰がこれを?」
「多分イヅツミが……それで、目が覚めたら彼女どこにもいなくて」
ライオスに答えるマルシルが、不安げに眉尻を下げる。
「まさかあいつ、俺の言葉を真に受けて……」
チルチャックが俯きながら小さく呟く。
──だったらおまえひとりで会いに行けよ。そのほうがずっと早い。
小さな諍いの中で発したその言葉を、チルチャックは後悔しているのだろう。正論に見えて、それは売り言葉に買い言葉に過ぎない。チルチャックのそういう不器用なやさしさが、は好きだ。
「探しに行かないと」
立ち上がろうとするチルチャックだが、まだふらついている。は咄嗟に手を伸ばした。
「チルチャック、無茶しないで」
「でも、」
ふと、ライオスが「あそこにいるのは?」と、口を開いた。
ライオスの指の先、噴水の翼獅子の像に凭れて眠るイヅツミの姿があった。がくりとチルチャックが脱力する。
「ほんッとうに気ままな奴だな!」
文句を言いつつも、内心ではほっと胸を撫でおろしているはずである。それは、のみならずパーティーみんなにも伝わっていた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
ぽん、とライオスに肩を叩かれたチルチャックが「誰が!」と吠えた。
サキュバスの正式名称はサキュバス・モスキート。つまりは蚊である。
吸血の際に麻酔効果のある唾液を注入するが、それが強烈な快楽を与えるのだという。ライオスの説明を聞いている間も、首筋がむずむずするのを感じる。
「効果が切れると、めちゃくちゃかゆくなる!」
ライオスが腫れた頬を掻きながら、告げた。
みんなも刺された箇所をぼりぼりと掻いている。唇を腫らしたチルチャックの顔を、は覗き込んだ。
「唇、奪われたの?」
「っな……」
「チルチャックの浮気者」
大きな耳に唇を寄せて、小さく囁く。
少しの意地悪くらい許されるだろう。チルチャックのせいで、とマルシルはサキュバスにやられてしまったのだ。
「そういうおまえだって……」
ぐい、と襟元を引っ張られたかと思えば、首筋に痛みが走る。吸いつかれたのではない。噛まれたのだ。
「痛い」
不満を漏らすから、チルチャックはふんと顔を背ける。そちらにはマルシルがいて、微笑ましげに目を細めた。
「また照れ隠し。チルチャック、のサキュバスが自分で嬉しかったんでしょ~」
「チッ、余計なことを……」
マルシルがソワソワしていたのは、あのときも照れ隠しで顔を背けたからだったのだろう。
なるほどと納得しながら、は痒くて痛い首筋を手のひらで押さえる。これで上書きしたつもりだろうか。おまえだって、とチルチャックは言うけれど──
「でもチルチャック、わたしは唇をちゃんと守ったよ?」
「……それは、」
「それは?」
「……すんませんでした」
チルチャックが視線を逸らしながら、腫れた唇を尖らせる。
「まあでも、実質あれもだったから!」と、マルシルが実に楽しそうな顔で、フォローをいれた。