言うまでもなく、は落ちこぼれだ。
 強い者に憧れるのは自然の摂理かもしれなかった。たった一振りで巨人を斬り伏せた彼の人が、の目には神様のように映った。姿かたちさえもろくに認識できなかったが、それでも“彼”は一等輝いて見えたのだ。
 リヴァイ──その名を知らぬ調査兵団はいない。も勿論、そのひとりである。


「また兵長の出迎えか」

 誰かが呆れたように言った。にとって、とリヴァイ以外はその他にほかならない。誰かが誰なのか、は本当に知らないまま、興味の欠片も抱かずに調査兵団が帰還する門へと向かう。
 凱旋、と言うほど立派な帰還ではない。
 今回の壁外調査でどれだけの人が失われたのか。それを責めるような街の人々を尻目に、今日も今日とては声を張り上げる。

「リヴァイ兵長! おかえりなさい!!」

 リヴァイの顔を知らぬとも、彼が無事に帰ってきていることを、は確信している。




 調査兵団の凱旋時、随分とやかましい声があると気づいたのは、だいぶ前のことだ。「おかえりなさい!」から始まり「今回も怪我一つないんですね、さすがリヴァイ兵長!」「人類の希望の星は今日も輝いています!」とやたらとリヴァイを褒めたたえる。
 いつも遠目にしかその姿を拝めなかったが、なんてことはない、彼女は調査兵団の一員だった。
 ハンジ・ゾエはその日、とても上機嫌だった。「いや~、前からどんな子かなぁって気になってたんだ。キミ、名前は?」ハンジは背後へと視線を投げる。うつむき加減で歩いていた彼女が、はっと息を呑んで顔を上げ、背筋を正した。

です」

 凱旋でみるとは印象が違った。
 ふうん、とハンジは軽く呟いて、目の前の扉を無遠慮に開け放った。

「お邪魔するよ」

 実に朗らかな笑みを向けたのだが、視線だけでひとを射殺せそうなほど凶悪な顔がハンジを出迎える。いつものように紅茶を飲んでいたリヴァイが、可笑しな持ち方をしたカップをソーサーに戻した。

「おい、クソ眼鏡」
「あっはっは、怖い怖い! ねえ、今日は合わせたい人がいてね」

 ハンジはの肩を抱き、リヴァイの目の前に立たせる。小柄な彼女は、ハンジの肩ほどしか背丈がない。それでも、座ったリヴァイを自然と見下す形になる。
 凶悪な面構えのまま、鋭い三白眼がを捉える。しかし、驚くほどの反応はない。

「あれ?」

 ハンジは拍子抜けして、の顔を覗き込んだ。戸惑うように見返され、ハンジのほうこそ戸惑ってしまう。

「えーと、もしかして、本人前にすると緊張しちゃうタイプ?」
「えっ……?」
「それとも、あまりに突然すぎて、びっくりしちゃった? ほらほら、憧れのリヴァイだよ。思ってたよりも小さ──っぐあ!」

 思い切り脛を蹴られて、ハンジは呻く。

「ひ、ひどいやリヴァイ……」
「黙れ」
「ねえ聞いた? この暴言。この暴力。あり得ないよね」

 はあ、とわざとらしくため息を吐いて、ハンジはの肩を抱いた。
 びく、と華奢な肩が跳ねたが、振り払うような真似はなかった。がぱちぱちと瞬きをして、確かめるように目を細める。


「……リヴァイ兵長?」


 え、今さら?
 ハンジの思いは声に出ないまま、唖然とした顔でを見つめる。
 これまでの鈍い反応と打って変わって、が顔を真っ赤にして慌てふためく。「あ、わ、こ、こんな末端の兵士にお声をかけて頂いて、あの、こ、光栄です」あまりにしどろもどろになっていて、ハンジはむふふとほくそ笑む。
 そうそう、この反応が見たかったんだよ。むふふふ、と気味の悪い笑みのまま、ハンジはリヴァイへ視線を移す。

「てめぇに声は掛けてねえ」
「あっ、そ、そうですよね。す、すみません、つい浮かれてしまって」

 がしゅんと音を立ててしぼむようだった。けれど、すぐに立ち直って、もじもじしながら右手を差し出した。「ああああの、握手してくだしゃい!」あ、噛んだ。ぷっ、とハンジは噴き出すが、リヴァイときたらろくすっぽ反応しない。
 恥ずかしそうにうつむきながら、がリヴァイの言葉を待っている。

「……チッ」

 鋭い舌打ちだった。しかし、が怯む様子はない。
 リヴァイが諦めたようにため息を一つついて、の小さな手を取った。

「……!」

 の身体が石化するかの如く、カチンコチンに固まった。すぐさま手を離したリヴァイが、随分と不機嫌そうに紅茶を飲み干し、荒々しく席を立つ。

「あれ、行っちゃうの?」
「黙れ」
「もう、手、洗えない……」

 が呆然とつぶやく。ハンジは腹を抱えて涙が出るほど笑った。「汚ねぇ、やめろ」とリヴァイの汚物を見るような目を受けてなお、がうっとりとしている。

「兵長にじかに罵られた……」

 さすがのハンジも笑うのをやめて、の脳内を心配した。








 ということが、数日前にあった。
 何故それをいま思い出さなければならないのかというと、が目の前にいるからである。リヴァイは眉間を押さえ、ため息をつく。凱旋時のやかましい声は勿論聞こえている。好ましいと思ったことは一度もない。
 薄暗い資料室でランタンを持って、なにやら文献を探しているらしいがこちらに気づく様子はない。

 それにしても、この資料室は埃っぽさが気になる。まともに掃除してねぇな、とリヴァイは棚の埃を指で拭った。

「あ! あんなところに……」

 が小さくつぶやいて、懸命に手を伸ばしているが、届きそうで届かない距離だ。「んん……っ」指先が目的のものに触れるが、引っ掛かりはしない。
 リヴァイはもう一度ため息をついて、の背後に立つ。
 それほど背が高いわけではないが、彼女よりは高い。難なく取れたそれをに差し出す。

 背後を振り返ったがはっと息を呑んだ。「ありがとうございます」と、小さく礼を言って、が受け取る。正直、拍子抜けだった。リヴァイは奇妙なものを見るように、を凝視した。
 ほんとうに同一人物が疑わしい。

「あ、あの……なにか?」

 じっと見下されたが、居心地悪そうに首をかしげる。

「てめぇ……」
「……え?」

 が目を丸くする。「り、っ」悲鳴じみた声が出るより早く、リヴァイは口元を手のひらで覆った。の顔が見る間に真っ赤になって、ぎゅっと閉じた目尻に涙が浮かぶ。
 苦しいのか、とリヴァイは少しばかり手をずらして隙間を作る。

「でけー声出すんじゃねぇ」
「……っは、い」
、だったな」
「は、はい」

 が声を潜めて返事をする。リヴァイはそれを確認すると、彼女を解放する。適当な椅子にどかりと腰を下ろし、足を組む。が資料を抱えたまま立ち尽くしているが、そんなことはどうだってよかった。
 人気のないところで休憩するつもりだったのだ。
 予想外にがいたが、大人しくしているのなら関係ない。

「黙ってろ」

 がひどく従順に、声も出さずにこくりと頷いた。



 ぱたん、と資料を閉じる音が小さく鳴った。リヴァイの言葉に従って、が言葉を発することはなかった。時おり盗み見るような視線を感じるが、何故だかリヴァイはそれを不快に感じなかった。
 席を立ったがランタンを持ち、灯りが揺らめいた。
 小首を傾げながら、資料をもとの位置に戻していく様を、リヴァイは黙ったまま見つめる。

 が資料を抱いて、棚を見上げる。助けを求めるような視線は寄こさない。ただ、なにかを探すように辺りを見回している。「脚立なかったかな」と、が小さく呟いて、はっとしたように手で口元を押さえた。
 リヴァイはおもむろに立ち上がった。
 コツ、と足音を立てて近づけば、がびくりと肩を揺らした。

「すみません、わたし、うっかり……」
「貸せ」

 からひったくるように資料を奪い、元の場所へ戻してやる。ぽかんとしたがすぐに破顔する。

「ありがとうございます」

 恥ずかしそうに、囁くように、その言葉を告げた。
 リヴァイはじっとを見下ろした。「へ、兵長、」それは蚊の鳴くような声だった。狼狽える様子が、凱旋時のやかましい姿とちぐはぐに感じた。

「……おい」
「っは、はい!」
「ついでにここの掃除をしておけ」
「了解しましちゃっ!」

 びし、と恰好だけはきれいに敬礼しているが、顔は恥ずかしさに今にも泣きだしそうだ。ハンジがいれば、例のごとく抱腹絶倒したことだろう。リヴァイはふん、と鼻を鳴らしただけで、さっさと踵を返した。

「……兵長の私服……」

 ぼそ、と呟かれた言葉は聞こえないふりをした。

(あなたはわたしの一番星です!)