「鶴見中尉とはどういう関係だ?」

 コツ、と冷たい銃口がの額を小突いた。やめろ、と言いかけた言葉が杉元の喉奥で消えて、ぞくりと背筋が冷たく震える。「俺を甲斐甲斐しく世話したのは、あんただろう」と、平坦な声で尾形が続けた。杉元は鋭く息を呑んだ。
 驚いた顔でが尾形を見て、困ったように眉尻を下げた。杉元の心臓が一層激しく早鐘を打ち出す。

「……やめろ、尾形!」

 杉元は慌てて銃を掴んだ。たとえ何があったとしても、に向けていいものではない。
 が「佐一さん」と呟くように杉元の名を呼んだ。振り向いた杉元は、もはや己がどのような顔をしているのか、わからなかった。果たして、裏切られたと感じたのはどちらだったのだろうか。

 ふん、と軽く鼻を鳴らして、尾形が銃を肩にかける。まとわりつくような視線でを見つめていて、杉元はそれを遮るように、彼女を背にした。しかし、の答えばかりに意識がいって、小さな呼気でさえも耳が拾う。
 の手が杉元の襟巻きを掴んだ。

「はっきりおっしゃってください」

 杉元は、首を回してを見やる。彼女は杉元を見なかった。自分を飛び越えて、尾形へ向ける瞳は、墨を垂らしたように黒い──悲しいのか憤っているのか、或いは動揺しているのか、感情が読めない。

「鶴見中尉と通じているのでは、と疑っておいでなのでしょう」
「……!」
「そうだ。物分かりがいいじゃないか」
「わたしは」

 が唇を結び、一瞬だけ杉元を見た。ぎくりと身体が強張る。

「……わたしは、佐一さんを裏切るような真似は、絶対にしません」

 おもむろに、の手が襟巻きから離れていく。
 なぜ彼女はこんなにも自分を信頼してくれるのだろうか。杉元にはそれがわからない。「へー、そうかい」と尾形が興味なさげに呟いた。

 杉元の当惑に気づいてか、が困ったように笑った。それはひどく悲しげで寂しげだった。
 なにか言わなければ、と思うのに開いた口からは言葉が出てこなかった。それを嘲るように小さくため息を吐いた尾形が踵を返した。

さん……俺は、…………」
「鶴見中尉には戦時中の御恩がありました。それをお返ししただけです」

 の言葉には淀みがない。しかし、それが真実なのかは、杉元には判断がつかなかった。なぜ、自分は彼女を信じられないのだ──
 結局、杉元はそれ以上なにも言うことができなかった。




 付いてくるな、とアシパが呆れたように言ったので、杉元はぽかんと間抜け面でその幼い顔を見つめた。

「えっ? えぇ~、なんで……」
「今の杉元がいると、獲物に気取られる」

 アシパの言葉の意味がわからなかったわけではない。杉元はさっと目を逸らした。
 はあ、とこれ見よがしにため息を吐いたアシパが、白石を共だってさっさと行ってしまう。いつの間にか尾形の姿はない。火の番をしているのは、だ。

 が顔を上げた。杉元を見て、ふっと表情をゆるめる。

「置いていかれてしまいましたね」

 杉元はを直視できなくて、不自然に視線を逸らしたまま、彼女の隣に腰を下ろした。がそれを気にするそぶりはない。

「……さん」

 小さくその名を呼ぶ。が不思議そうに、ぱちぱちと二度ほど瞳を瞬いた。
 気が立っている。普段と変わりないようにおどけてみても、戦場で染みついた殺意が、漏れ出てくるようだった。アシパの言う通り、野生の獣はすぐに勘づくだろう。「さん」と、杉元は噛みしめるように、もう一度名を呼んだ。

 が目を伏せる。その視線の先で、パチッと火が爆ぜた。
 杉元はの小さな手を握った。白くて、細い。この手は、幾人もの命を助けたし、心を癒した。が躊躇いがちに、杉元を見上げた。

「わたしは逃げたりしませんよ」
「……知ってるよ」
「佐一さん?」
「知ってるさ。さんのことなら、沢山知ってる」
「…………」

 杉元は握った手を引き寄せて、を抱きしめた。柔らかな肢体から金木犀の香りがした。「嘘ばっかり」と腕の中でが呟いて、杉元の胸板へ頬を摺り寄せた。

「だったら、さんのすべて、教えてくれよ」

 え、と驚いた声が上がったのが先か、唇が重なったのが先か。

「っ、ん……!」

 漏れ出た声を飲み込むように口付ける。「っさ、いち、」細切れの声は、制止なのかすらも判別がつかない。ちゅう、と下唇に吸い付いて、軽く歯を立てて食む。が襟巻きをぎゅうと握った。
 杉元にあったのは、紛れもない怒りだった。
 それはに対してでも、尾形に対してでもない。己自身への憤りだ。

 鶴見と内通しているのではないか、と一瞬でもを疑ってしまった。そんなわけがない、と言えなかった自分を恥じ入る。そして、を傷つけてしまったことが、なによりも許しがたい憤りだった。


「はあ……っ」

 唾液にまみれた唇が、大きく息を吸い込んだ。
 の潤んだ瞳が杉元を見る。ぞく、と背筋が粟立つ。杉元は身をかがめて、の鎖骨へと舌を這わせた。

「っひ……! あ、佐一さんっ、や……!」

 ぐいぐいと襟巻きを引っ張られ、杉元はしぶしぶ顔を上げた。「み、皆さん、戻ってきちゃいます……」と、が真っ赤な顔で、蚊の鳴くような声で告げた。杉元は、ぎゅうと心臓が掴まれた気がした。
 歯止めが利かない。

「うん……でもごめん、──

 がさっと佇まいを直して、指をさした。
 尾形の温度のない瞳が杉元を見ていた。「へっ」この上なく、間抜けな声が出た。

「昼間っから、随分とお盛んだな」
「あっ、いや、これは」
「ハハっ……悪い悪い。邪魔したな」

 尾形がどかりと腰を下ろした。

「好きに続けろよ」

 固まったままの杉元の耳に、の唇が触れた。笑みを含んだ声が「せっかちですね」と、囁く。杉元は、今さらながら赤面する。

「……ご、ごめん」

 が小さく笑って、人差し指を杉元の唇に押し当てた。

「わたしのすべて、暴いてくださいね」

 ごくり、と無意識に喉が鳴る。熱を持った指先が、杉元の顔の傷跡をなぞって、離れていく。
 杉元はしゃがみ込み、赤くなった顔を手のひらで覆う。「はあ~~……」大きなため息が、白く煙って消えた。

(この鼓動がどうか聞こえていませんように)