もう二度と、故郷の地を踏むことはない。
 がそんなふうに思ったのは、異郷で自分の置かれた状況をようやく飲み込んだ時だった。穀潰しと罵られようとも家族としてここまで育ててくれた恩もあったし、恐らく情もあった。けれど、金で戦場に売り払われたのだと知ってなお、家族を恋しく思うほどは愚かではなかった。

 いまとなっては、家族の記憶もほとんど褪せてしまっている。寂しいだとか、懐かしいだとか、そういう気持ちは戦場ですべて擦り切れてしまったのかもしれない。

 ただ──家の庭には、金木犀の木があって秋になると甘い香りを漂わせていたことは、よく覚えている。金木犀の香水を手にしてしまったのは、褪せた記憶を忘れたくない気持ちの表れなのだろうか。
 自身よくわからないけれど、この香りは心を落ち着かせてくれるものだった。


 すん、と後頭部に鼻を近づけられ、は首を竦めた。振り返ると、不思議そうに瞳を瞬く杉元と視線が合う。

「佐一さん?」
「いや、さんって、いつも甘い匂いするよなぁと思って」

 だからと言って、何も言わずに匂いを嗅ぐ行為は如何なものか。
 のそんな思いを感じ取ったのか、杉元が慌てて距離を取った。「触ってないよ!」と、両手まで挙げている。

 杉元の慌てぶりが可笑しくて、は思わずくすりと笑みをこぼした。が怒っていないと知ると、杉元はあからさまにほっと胸を撫で下ろす。それすらも可笑しい。
 は袂から、ハンケチーフを取り出した。
 ふわりと金木犀の香りが広がって「あ」と、杉元が目を丸くする。

「そうそう、この匂い!」
「これは金木犀の香水です」
「へえ……金木犀。さんにぴったりだよ、甘くて、どこか優しくて」

 大きな傷痕の残る顔に、杉元が柔和な笑みを浮かべる。「さんみたいだ」と、何の気恥ずかしさもなく告げるので、のほうが照れ臭くなってしまう。
 頬に熱が集まってくる。は杉元から視線を外し、顔を伏せた。

「実家の庭に金木犀が咲いていたんです。秋になるとこの香りが、庭から漂ってきました」

 この香水は、褒美をくれると言った鶴見に欲しいと言って貰った物だ。杉元が快く思わないことは目に見えているので、はそれを口にしなかった。
 ──さながら、金木犀の君と言ったところか。
 鶴見がそう笑ったのを覚えている。

さんは、故郷に帰ろうとは思わないのかい?」

 そう問いかける杉元の声音は、どこか沈痛そうな響きを持っていた。心優しい杉元は、が家族のもとへ帰ったほうがよいと考えているのだろう。
 知らぬ土地で、金塊を巡る争いに足を突っ込んでしまって、確かににも不安はある。

「思いません。家族はきっと、わたしは死んだものと思っているはずです」

 は顔をあげて、首を横に振った。「そっか」と答える杉元の声は、やはり沈んでいた。





 は戦うすべを持たない。
 刺青人皮を狙う囚人たちに狙われることは、決して少なくはない。それでも怪我を負うことが滅多にないのは、杉元が身を挺して守ってくれるからであり、アシパや白石がに危険が及ばぬように目を光らせてくれているからだ。
 
 足手纏いになりたくない。けれど、それ以上に杉元の傍にいたい──

 着物を正したは、アシパに向かって丁寧に頭を下げた。さすがにも、己の背中の傷はどうにもできない。

「お手を煩わせてすみません」
「気にするな。深い傷じゃなくてよかった、これなら跡にならずに済む」

 アシパがほっと笑みをこぼした。
 たとえ、傷跡が残ったとして、大した問題ではない。はとっくに行き遅れである。

「……入っていいぞ、杉元」

 アシパがため息交じりに告げると同時に、杉元がクチャに飛び込んでくる。そのあまりの慌てように、は驚いて目を丸くした。
 杉元に、ぐっと両肩を掴まれる。指先が食い込むほどの力が、アシパの「落ち着け」という一言で緩んだ。

「ご、ごめん。さん」

 杉元が項垂れる。
 は目の前の軍帽を見つめながら、肩にある杉元の手に、そっと手を重ねた。

「佐一さん、顔をあげてください」
「…………」

 ゆっくりと上げられたその顔は、悔しげに歪んでいた。杉元の噛み締めた唇から今にも血が滲んでしまいそうで、は思わず指先を伸ばした。下唇に触れれば、はっと杉元が息を飲む。
 アシパが杉元の背中を強めに蹴って、クチャを後にする。
 杉元の身体は揺らぐことがなかったし、痛みに呻くこともなかった。

 は気遣わしげに、杉元の顔を覗き込んだ。躊躇うように宙を彷徨った視線が、おもむろにを捉えた。
 あ、と思う間もなく、は杉元に抱きしめられる。

「頼むから、もう二度とこんな真似しないでくれ」
「佐一さん……」
「お願いだよ。俺のためにさんが傷つくなんて、あっちゃならないんだ」

 いつも無茶をする人が言う台詞ではない。杉元が怪我をするたびに、は肝を冷やしている。身体中の傷痕を目にするたびに、はその痛みを思って泣きたくなるのだ。
 は杉元の腕の中でかぶりを振った。

「お約束できかねます」
「っなんで……!」

 杉元の動揺が伝わってくる。思わずと言ったように二の腕を掴み、わずかに身を離した杉元がの顔を見下ろした。
 はじっと杉元を見つめ返す。

「佐一さんがわたしを心配してくださるように、わたしだって佐一さんが心配なのです。あなたは“不死身”だと自負するし、怪我の治りも確かに早い。でも、それが傷を負ってもよい理由にはなりません」
「だ、だけど、さん」
「わたしは危険を承知でここにいるのです。わたしのせいで、佐一さんの傷が増えるなんて、あってはいけません」

 の言葉に、杉元が言葉を詰まらせる。視線を逸らした杉元が「揚げ足とらないでよ」と、小さく呟いた。
 その顔が、拗ねた子どものようだったので、は小さく笑いを溢す。
 ふ、と杉元もようやく表情を和らげた。

「……さんは、強いね」

 それでもさ、と杉元は続けながら、を再び腕の中に収めた。

「俺に、さんを守らせてよ。さんが好きだって言ってくれた、こんな俺の手を……俺も、少しくらいは好きになりたいからさ」

 は目を閉じて、杉元の胸板にぴたりと頬を寄せた。
 聞こえる鼓動が少しばかり早いような気がする。これは、杉元が生きている証拠である。

「わたしが好きなのは、佐一さんの手だけではありませんよ」

 びくっ、と杉元の身体が跳ねた。は顔をあげたが、杉元の顔は背けられていて表情がわからない。ただ、耳が赤く染まっている。
 照れ隠しで抱きすくめられたは黙ったまま、先ほどよりも早い鼓動に耳を傾けた。

 いつか、自分の帰る場所が、杉元のところになれたらとは思う。それを口にする勇気はまだない。

 故郷の記憶は褪せても、「戻れるかい?」と杉元がやさしく声をかけてくれたあの夜のことは、きっとずっと覚えている。
 顔を埋めた杉元の胸元からは、汗と血の匂いに混じって、金木犀の香りがした。

らなくていい

(ただ手を握ってくれるだけで、ただ傍にいてくれるだけで)