長い前髪と分厚い眼鏡の奥、覗き込んでようやくうっすらと瞳が見える。色気のないジャージを着こんで、ひとつに括られた髪の毛はお洒落のかけらもない。相澤は、頭ひとつ分ほど背の低い女を、じっと見下ろす。
 彼女はそんな視線を受けて、どうやら怯えているようだった。ぐっと身を固くして、息を潜めている。
 目つきが悪い自覚はあった。相澤は視線を外し、ぽりと後ろ髪を掻く。

「……緑谷がいつもお世話になってます」

 はっ、と小さく息を呑んだ気配がして、が「い、いえ! それが仕事ですから」と、慌てて首を横に振る。相澤はもう一度視線を落としたが、の顔は俯いたままだった。

「いいや、いくら仕事でも、この子は酷すぎるよ。イレイザー」

 保健室の主であるリカバリーガールが、くるりと椅子回転させて振り向いた。苦い顔をしている。にべもないその物言いにがあたふたしているが、事実に他ならない。それについては、ぐうの音も出ないのだ。
 緑谷が群を抜いて個性のコントロールが下手くそなのは言うまでもないが、段階をすっ飛ばしてそれを使わざるを得ない状況を作ってしまっているのは、指導側の落ち度である。つまり、相澤をはじめとした教師であり、プロヒーローたちだ。まだ未成熟の身体を酷使すれば、将来どうなるのかは容易に想像がつく。

「面目ない」
「……フン。あたしらにできることも、限界がある」
「わかってます」

 相澤はため息交じりに答えると、ベッドに横たわる緑谷を見下ろした。包帯の巻かれた患部はいまだに腫れている。

「まあでも、次の授業には出られるだろうさ。叩き起こしてやんな」

 文字通り、相澤は緑谷を叩き起こして、尻をせっついた。
 あわあわしながら教室に戻っていく緑谷の背を見送り、相澤はもう一度ため息を吐いた。実験的に個性を使用して、そのたび保健室送り──合理性のかけらもないことを緑谷は繰り返している。緑谷の頭は悪くないどころか、頭脳派と言っていい。ヒーロー好きが高じて情報収集が得意だし、あれこれと熟考するタイプだ。

 ただひとつ、個性の使い方だけが致命的に下手である。相澤にとってみれば、理解できないし、共感したくない。考えなしの無鉄砲ではないことだけが救いだ。

「最初の頃を思えば、ずっとマシなんですけどね」

 に話しかけられると思っていなかった相澤は、思わず瞠目する。
 緑谷が寝ていたベッドを手慣れた様子できれいに整えたが、不思議そうに相澤を振り返った。だいぶ距離が近いが、それでも視線が交わっているのか定かではない。

「わたしも個性が発現したときは、大変で」

 あははと苦く笑ったようだが、口元がゆるい笑みを描いただけで、表情の変化はよくわからなかった。の個性について、相澤はすぐに思い至ることができなかった。

「あんたはいまも苦労してるだろうよ」
「ば、ばっちゃん、」

 やめてよ、とが恥ずかしそうに情けない声を上げた。

「学校ではリカバリーガールと呼びな」
「う、はい……」

 がわかりやすくしゅんと肩を落とすので、相澤はふっと小さく笑う。「笑われた……」と、がさらに身を縮こませて、顔を俯かせる。つむじと赤くなった耳がよく見えた。とがった耳が彼女の個性を窺わせた。

 そういえば──プレゼントマイクが何やら彼女について、饒舌に語っていたような気がする。あれはいつもうるさく、如何せん真面目に耳を傾けていたなかったために、記憶の引き出しは開かなかった。
 のつむじを見ていても仕方がない、と相澤は判断する。

「じゃあ、俺はこれで」

 お疲れさまです、とが俯いたまま頭を下げた。生徒にするようについその頭に手を乗せそうになって、相澤は中途半端に持ち上げた手を、己の髪をくしゃりと掴んで誤魔化した。






 相澤は眉間の皺を指先でほぐしながら、パソコンをシャットダウンした。
 個性を発動していなくても、画面を集中して見ていたせいで、ドライアイが悪化した気がする。相澤は目薬に手を伸ばし、それが空であることに気づいて小さく舌打ちした。今しがたほぐしたばかりの眉間の皺が、ぐっと深くなる。

「はあ……」

 ヒーロー科とはいえ、所詮教師は教師である。デスクワークが多いのは致し方ないことだ。もっとも、目下相澤を忙しくさせているのは、生徒ではなく先日のセキュリティ突破事件──
 こきり、と首を軽く鳴らして、相澤は荷物をひっつかんで立ち上がる。


 何気なく見やった保健室から明かりが漏れていて、相澤は出入口ではなくそちらへ足を向けた。

「リカバリーガール、目薬を……」

 がらり、と保健室のドアを開けてから、ノックをするべきだったと気づく。保健室にいるのは、そこそこ付き合いの長いリカバリーガールだけではない。はっ、と息を呑んで振り向いたのは、だった。
 振り向いた拍子に前髪がふわりと浮いて、大きく開かれた瞳が相澤を捉える。

 ぞわ、と背筋を悪寒が駆け上った。それが個性だと気がついたのは、相澤のヒーローとしての経験と勘に他ならない。反射的に個性を発動させる。

「あ……」

 が間抜けな声を上げて、よろめきながら立ち上がる。
 ドライアイがつらい、と頭の片隅で考えながら、相澤はつかつかと歩み寄って距離を詰めた。びく、と震えて怯えた顔をしたが、呆然と相澤を見上げる。

「何をした」

 敵意はないようだが、相澤はいつでも捕縛武器を使用できるように構えながら、の顔を覗き込む。
 ひとのことを言えた義理ではないが、長い前髪から覗く瞳が相澤を映し出す。いつもは分厚い眼鏡のレンズが遮っていて表情がわからないが、いまは彼女の戸惑いや怯えがはっきりとわかる。その瞳にじわりと涙が滲んだことに気づいて、相澤は個性を発動させたまま、少しだけ距離をとった。

 おかしい。確かに彼女の個性は自分に向けられたはずだ。相澤の個性が効いているということは、意図的に発動されたものであるのには間違いない。

 ──まずい。
 ふ、と瞬きをした間に、相澤の個性と共にの緊張も解けたようだった。慌てた様子で涙を拭ってから、机の上に載っていた資料などをばらまきながら、眼鏡を探り当てたがそれを掛けた。

「……!」

 いつもの見慣れた姿になったを、相澤はまじまじと見下ろした。もう、個性を発動させる必要はなさそうだった。


 ごめんなさい、と蚊の鳴くような声が告げて、がふらりと膝を折る。咄嗟に支えた身体は触れずともわかるほど、震えていた。相澤が何かを言うより先に、が口を開いた。

「お身体は何ともありませんか……?」

 ぎゅ、との手が相澤の服を縋るように握る。
 あんたはいまも苦労しているだろうよ、と昼間耳にしたリカバリーガールの言葉が脳裏を過る。
 個性の制御が不十分だとでも言うのか。仮にも雄英高校の看護教諭が──ふと、支えている背中に妙な感触があることに気づいた。それが何か確かめようと、相澤は指先を動かした。ちょんと触れただけで、がびくっと跳ね上がった。

「っやン……」

 妙に艶めいた声だった。
 相澤も、保健室の空気さえも凍ったように固まる。が耳まで真っ赤にして俯いた。ただでさえ、身長差からいつもつむじが見えるのに、それが更に見やすくなる。相澤は、何だか顔よりもつむじのほうが見慣れた気さえする。

「す、すみません。は、羽根は、触らないでもらえますか……」
「……羽根」

 成程、と納得して、相澤は手を離した。そういえば、ジャージも羽織っていない。地味な無地のTシャツだが、それがかえって彼女の体型を顕著にさせていた。これまで何度も接していたのに、ジャージの下がこんなに豊満だったとは知らなかった。
 そういえば、の目を見たのも、初めてのように思う。

 気まずい。相澤は視線を逸らすと、を支えながら床に散らばった資料に手を伸ばした。

「あっ。そ、そんな、結構ですから……」

 と言いつつも、の手はいまだに相澤にしがみついたままだ。腰が抜けたのだろう。
 相澤は黙って拾った資料を机に置くと、を抱き上げた。「きゃっ」と、小さく悲鳴を上げたが、それを恥じ入るように両手で口元を覆った。相澤は、そっとをがら空きのベッドへと座らせる。

「ごめんなさい、相澤先生」
「いや……こちらこそ、怖がらせたようですみません」
「い、いえ! あの、わたしが」
「個性について聞いても?」

 が小さく息を呑んで、顔をあげる。「あ、その前に目薬を借りても?」そもそもの目的を思い出し、相澤は目頭をぎゅっと抑えた。個性を使用したせいで目が痛い。ぽかんとしたが、目薬の場所を指さして教えてくれた。



 目的を果たして、相澤は隣のベッドに腰を下ろす。緊張した様子のが、ベッドの上で正座して待ち構えていた。相澤は楽にするように言ったが、が足を崩すことはなかった。

「わたしの個性はサキュバスなんです」

 ああ、それで羽根。相澤は指先の感触を思い出し、納得する。

「目が合うと、催淫してしまうんです。眼鏡があると大丈夫なんですが……誰もいないと思って、油断していました。ほんとうにすみません」
「そうなると、異形型のはずだが……」
「……?」
「ああ、俺が消せるのは発動型と変形型なんです」
「わたしの個性、消せるんですか……?」

 個性の分類とは、いまだ曖昧である。
 尖った耳、羽根という身体的特徴を持つが異形型であるのは間違いないが、瞳から発せられる催淫効果は、本来本人の意思で発動できるのかもしれなかった。
 さら、との長い前髪を指先で払いのける。

「あ、わ、あいざ」
「ああ、すみません。ちょっと気になって」
「う、」

 がぎくりと身体を強張らせたので、相澤は身を引いた。

「ご存じなかったんですね……面白おかしく噂されているみたいだったので、てっきり」

 さっと俯いたが、言いづらそうに呟く。
 面白おかしい噂。相澤は眉をひそめ、のつむじを見やる。プレゼントマイクが騒いでいたのは、そのような下世話なものだっただろうか。思い出せない。はあ、と相澤はため息を吐いて立ち上がる。

「遅くなってしまいましたね。帰るなら、家まで送ります」
「……え」

 そもそも、相澤が下校しようとした時刻もすでにだいぶ遅かった。保健室を訪れてから、思った以上に時間が経っている。が時計を見やって「わ、もうこんな時間っ」と、慌ててベッドを降りようとして躓く。正座のせいで足でも痺れたのだろうか。
 傾いた身体を相澤は片腕で受け止める。

 こうして雄英高校の看護教諭を務めているということは、曲がりなりにもプロヒーローなのだろうが、とてもそうは見えなかった。衝撃で少しだけズレた眼鏡を、が照れ臭そうに指先で元に戻す。

「……ヒーローネームは?」

 え、とが抱き留められたままの格好で固まる。わかりやすく狼狽えたが「い、言いたくありませんっ」と叫ぶように言って、相澤の腕を抜け出した。
 慌てて帰り支度をするを見ながら、相澤はくつくつと笑った。

(瞬きが惜しいのは、個性のためじゃない)