(100題「羽根の在り処」続き)













 唐突に腕を掴まれて、ぐいっと身体を引っ張られる。思わず、反射的に踏ん張ってしまったせいで、バランスを崩した身体が傾いた。ぽす、と軽い衝撃とともに受け止めてくれたのは腕を掴んだ張本人に違いない、とは瞑った瞳を開けて呆然とする。

「おっと、ごめんごめん」

 謝りながらも悪びれる様子はない。
 見覚えのあるその顔を見つめながら、はゆっくりと瞬きをする。「いやあ、声は掛けたんだよ? でもちゃん、全然気づいてくれないから」と、ホークスがこれまた悪びれずに笑った。

 ホークス、とは脳内で男の名前を噛みしめるように、思い浮かべた。ウィングヒーローで速すぎる男の二つ名を持つ、このプロヒーローは、初めて会った頃よりも更に有名になっている。
 先程から誰かが呼び止めるような声がしていた気もするが、それが自分に向けられたものだとは露にも思わなかった。

 はホークスの顔から視線をずらして、掴まれたままの腕を見る。それに気づいたホークスが素早く手を離した。
 驚くほど全く忍んでいないので、人目をこれでもかというくらい集めている。その背中の羽根は隠せないのか。そもそも隠す気がないのか。プライベートだから、とホークスが一応断りを入れて、写真のために構えられたスマホに向かって羽根が飛んでいく。相変わらず、反応が速すぎる。は伏せた瞳で周囲を見てから、ホークスを見上げる。

 にっこり、とホークスが笑みを深める。胡散臭いような、不気味なような、よく分からないが嫌な感じがして、は怪訝に眉をひそめた。

「福岡においで」

 予想だにしない言葉だった。意味を理解しかねて、はろくに反応もできなかった。
 立ち尽くすの手を、笑みを浮かべたままのホークスが握った。

「ま、立ち話もなんなんで、行きましょう」

 ホークスの手が腰に添えられたと同時、ふわりとした浮遊感に襲われる。小さく息を飲んだは、ぎゅっと目の前の男にしがみつく。を抱きすくめたホークスが羽根を広げて空へと飛び上がった。

「ちょ……」

 ちら、と視線を地面へと向けて、すでにそれなりの高さに位置していることに気づく。よもや落とされることはないと思いつつも、はホークスへと抱きつく力を強めた。

「ああ、いいね。もっとくっついてください」
「な、せ、セクハラです!」

 は抗議するが、離れることなどできるわけがなかった。はは、とホークスが少しも悪びれることなく、愉快そうに笑い声をあげた。



 お高いホテルのお高い一室に、ホークスはあろうことか、窓から入った。
 どこか喫茶店にでも連れていかれると思っていただが、有名人にはそんなところではゆっくり話もできないのかと思い至る。

「コーヒー? それとも紅茶?」
「いりません。長居するつもりはないので」
「まあまあ、そう言わずに」

 速すぎる男の異名を持つホークスが、のんびりとした口調で電気ケトルのスイッチを入れた。すぐに湯が沸く音が聞こえてくる。

 は控えめに部屋を見渡しながら、見るからに高級そうなふかふかのソファに腰を下ろした。ホークスが小さく鼻歌を歌って、上機嫌な様子でカップに湯を注ぐその背を、は見つめる。
 男の考えが読めないことが不気味だった。

 ホークスに声をかけられたなら、普通は喜ぶのだろうか。

「はい。コーヒーにしたけど、飲める?」

 差し出されたソーサーには、きちんと砂糖とミルクも添えられていて、そんな気遣いは不要だと思った。は小さく頷くが、カップに手をつける気にはならなかった。

「福岡においで、とはどういう意味ですか」

 ホークスがゴーグルを外して、テーブルに置いた。気怠そうな瞳がを見る。

「俺のとこに就職しなよ」
「……わたしは進学するつもりです。県外に出ることも考えていません」
「ああ、犯罪心理学を学びたいんだって? ヒーローを目指すのはやめたのに、正義感に溢れるっていうか」

 ホークスが一度唇を結び、その顔から笑みを消した。

「そんなことしても、君の家族は──

 は表情を変えずに、ホークスから視線を外した。
 雄英高校を除籍になった時点で家族の関心は、ないと言っていい。ヒーローになれない娘など、進学しようが就職しようがどうだっていいのだ。そうとわかっていても、他人から家族のことに口出しされる筋合いはない。

「そうそう、君のご両親からはもう承諾を得てるよ」

 カチャ、と小さな音を立てて、ホークスがカップをソーサーに戻す。ミルクも砂糖も入っていない、濁りのないその濃褐色の水面が揺れるのを、はじっと見つめる。

「というかね、もう大喜びだったんだよねー。そりゃあまあ、その気持ちは分からなくもないけど、娘さんを下さいって初対面の男が言うんだよ? もうちょっと警戒してもいいと思うけどね」
「……勝手すぎます」
「んん~? それって、俺が? それとも、君のご両親が?」
「どっちもです」

 は睨むようにホークスを見たが、彼は軽く肩をすくめるだけだ。

 ふいに、ぞわりと肌が粟立つ。
 ひゅっと風を切って四方から向かってきた羽根が、に届く寸前で宙にとどまった。「あれ、だめでしょう。一般人が個性使ったら」と、咎めるような台詞をのんびりと言いながら、ホークスがソファーから腰を上げた。

 は答えることができずに、意識を集中させる。気を抜けば、この羽根はあり得ない速度でに向かってくるだろう。見えざる力がその羽根の動きを止めているが、ぐぐっとこちらに向かおうとする力と拮抗していて、ともすれば負けそうになる。

「へぇ、これがサイコキネシスか。便利そうだね」

 ホークスの指が、宙にピン留めされたような己の羽根に触れる。そして、ふーんと不思議そうに瞳を瞬かせる。
 そんなゆるい表情をしているのに、羽根の一枚一枚は彼の意のまま、に敵意を持って向かおうとしている。額ににじんだ汗が、こめかみを伝い落ちていく。の個性サイコキネシスは、本人の気力や集中力によってその力量が左右する。

「なんの真似ですか!」

 さすがに声を荒げてしまうが、ホークスの態度は変わらない。プロヒーローが一般人を傷つけることはないだろう、という確信はあるが、何故こんな試すようなことをするのか理解できない。
 意識がぶれるような感覚がして、の身体が前方にふらつく。慌ててテーブルに手をつくと、波立つコーヒーがわずかに溢れた。

 あ、と思う間もなく、眼前に羽根が迫っていた。はっとして目を瞑る。その羽根はを傷つけることなく、ふわりと身体を持ち上げるとベッドへやさしく下ろした。
 意味がわからない。

「一分半か。結構持ったね、これでもわりと本気だったんだけど」
「……」
「はは、そんな怖い顔しないでよ。ちょっと見てみたかったんだって」

 は脱力して、やけにやわらかいベッドへと身を沈める。何を考えているのかよくわからない顔をして、ホークスもまたベッドに上ってくる。二人が乗っても広々としたベッドは、少しも軋まない。
 は身を捩り、彼に背を向けた。「来ないでください。セクハラ」です、とが言い切る前に、ホークスの手が肩に触れて仰向けにされる。

「淫行で訴えますよ」
「うわ、怖い」

 と言いつつ、ホークスが怖がるそぶりは全くない。その証拠に、男はを組み敷いて、思い切りしかめた顔を撫でるように指を這わせる。

「俺のとこにおいで。ついでに永久就職なんてどう? ほら、俺って将来有望だし」

 はホークスをじっと見つめる。それはもう、将来は有望すぎる男だ。こんなふうに言えば、どんな美女もコロッと落ちるに違いない。個性はちょっとばかり珍しいかもしれないが、それ以外は特筆すべきところもないは「悪い男ですね」と呟いて、ふいっと顔を背けた。
 ふ、と吐息を漏らすようにホークスが苦笑する。

「悪いけど、これは真剣な話」
「信じられると思います? だいたい、何故わたしなんかに? というか、こうして会うのは二度目ですし、前に会ったのは」
「一年と十一ヶ月ぶり」

 ホークスが間髪入れずに答える。は眉をひそめた。

「記憶力には自信あるんだ、って言わなかったっけ?」
「……とにかく、約二年ぶりに現れて、突然だとは思いませんか」

 横を向いたの顔を、ホークスの指が正面へと戻した。その手を振り払わないの様子を見て「疲れちゃった?」と、笑いを含んで問いかける。
 情けないが、その通りだった。もしも今も雄英に在籍して、相澤の指導を受けていたら、もっとマシだっただろうか。個性を使うのは久しぶりで、懐かしささえ覚える倦怠感で口を開くのも億劫だ。

「ま、暴れられるよりいいか」

 ホークスの唇が押し付けるようにして、の口を塞いだ。予想だにしない事態に身体を硬直させるに対し、ホークスがわずかに唇を離して囁く。

「俺が本気だってこと、わからせてあげないとね」







 何故って言われてもさ、一目惚れだったんだからしょうがないよねぇ。ほら、体育祭でずいぶん目立ってた君を見たときに、ね。あんな派手にぶっ放してたんだからどんな顔してんのかと思えば、まさかの仏頂面って。

「そんな顔してた君を笑わせてみたかったんだ」

 すやすやと眠る横顔に語りかけながら、ホークスは薄く開かれた唇を指先でつつく。

「ほんとはもっと早く迎えに来てあげたかったんだけどね。あーあ、こりゃ速すぎる男なんて名が泣いちゃうね」

 ん、とが小さく声を漏らしたが、目覚める様子はなかった。
 面白がって、ホークスは己の羽根を一枚操って、のすべらかな頬をくすぐった。眉間に小さな皺を刻んでから、もぞりと身をよじったがふっとかすかに笑う。

「俺と家族になろうよ、ちゃん」

 ホークスは穏やかな顔で、の額に唇を落とした。彼女はまだ夢の中のようなので、ホークスもまた目を閉じて、やわらかいベッドに身を委ねた。

リネン

(それは羽毛のようにふわふわと二人をやさしく包んだ)