倒れたミスルンを肩に担いだとき「ミスルンさま!」と、聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、カブルーは振り返る。
果たしてそこには、血相を変えて駆けてくる一人のエルフの姿が見えた。
「おそばを離れてしまい、申し訳ございません」
担がれたままのミスルンに向かって膝を付き、首を垂れる。まるで、自分に頭を下げているようだ、とカブルーはエルフのつむじを見下ろした。
「……、」
ミスルンが力なく、気怠げに名を落とした。
と呼ばれたエルフが立ち上がり、ミスルンの顔を心配そうに覗き込む。
「ミスルンさま、お顔色が……」
「とりあえず、身を隠せる場所を探しましょう」
重いんで、とはさすがに口にしなかった。がミスルンに肩を貸そうと身を乗り出す。
「いや、一人で大丈夫なんで」
カブルーはとの身長差を考慮して、キッパリと断った。が固まる。
ぐったりとした身体を背に担いで、カブルーはさっさと歩き出す。ダンジョンの深層で立ち止まっているなんて危険すぎる。
「行きましょう」
カブルーよりずっと小さなでは支えるどころか、邪魔になる。
いちいち説明するのも面倒で、カブルーは立ち止まったままのを促した。ミスルンは小柄で細身だが、力を失った身体はそれなりに負担である。
「は、はい!」
水の音に気づいて、カブルーは歩調を速めた。どうやら扉の向こうから聞こえてくるようだった。小走りでついてくるもそれに気がついたようで「扉の向こうを確認します」と、カブルーに確認を取った。
カブルーの頷きを見てから、が慎重に扉を開ける。先ほどカブルーが見つけて拝借したライオスたちの寝袋は、彼女が抱えているとひどく大きく見えた。
「大丈夫そうです」
が拍子抜けしたような顔で振り向き、告げる。
扉の中へ足を踏み入れたカブルーもまた、同じように拍子抜けした。カブルーの欲した水場、そして身を隠せる場所まで、まるで用意されたかのようだ。
素早く寝床を作ったが「ミスルンさまをこちらに」と、カブルーを見上げた。
「……都合がよすぎて気味が悪いな」
ミスルンを横たえたカブルーは、あたりを見回して小さく呟く。ミスルンが掠れた声で何かを言ったので、カブルーは視線を落とした。
「お前が欲したから迷宮が用意したんだ。偶然ではない、あまり欲するな」
目を閉じたまま、ミスルンがぽつぽつと告げる。
不安げにミスルンの顔を覗き込むが、カブルーを振り返ってまなじりを力ませる。
「ミスルンさまは、魔力切れを起こしています。あまり負担をかけないでください」
「魔力切れ……」
カブルーは呟きを落とし、思案する。
術者が魔力切れを”わからない”ことがあるのだろうか。
カブルーはミスルンから、へと視線を移す。カブルーは、ミスルンと共に穴に落ちた。カナリア隊とは完全に分断されてしまったと思っていたが、まさかあの穴に飛び込んで追いかけたのか。
そんなわけがないとは思うものの、それにしたっての格好は──
「…………」
エルフらしく美しい顔をしているのに、見てくれはボロボロである。
ミスルンを追って相当の無茶をしたのだろう。「あなたもボロボロですね、休んだらどうですか?」と口にできたのならよかったが、なんせエルフのプライドは高い。正直に言っていいものか、カブルーは悩む。
がカブルーの視線に気づいて、目を伏せた。長い睫毛が頬に影を作る。
「ミスルンさま、わたしの魔力をお分けします」
そう言って、ミスルンの手を両手で握りしめるの姿は、祈りを捧げるかのようだった。
「ミスルン隊長」
カブルーの呼びかけに答えて、じわりと額に冷や汗を滲ませたミスルンがおもむろに目を開く。その顔色は悪いが、ほんのわずかに血色が戻ってきているような気がしなくもない。
「あなたの身体は何か問題を抱えていますね」
「……、」
が何か言いたげに振り向くが、カブルーは気にせず続けた。
「説明してもらわないと力になれません。隠していること、全部教えてください」
「後ではいけませんか? ミスルンさまをお休みさせてあげてください。きっと、十分に眠ってもいらっしゃらない」
がカブルーの言葉を遮り、ミスルンに近づくのを拒むように立ち上がった。かと思えば、その身体がふらりと傾く。
カブルーは咄嗟に手を伸ばして、を抱き寄せた。
「ちょっと! あなたにまで倒れられたら困ります」
思わず、語調が強まる。
カブルーの腕の中で、がびくりと身を竦めた。
「す、すみません。いえ、すこし眩暈がしただけです。わたしは大丈夫です」
「……休め、」
「は、はい。申し訳ございません、ミスルンさま」
が素直に頷いて、腰を下ろして壁に寄りかかる。項垂れるようにしていたから、すぐに寝息が聞こえてきた。
カブルーはそれを横目で見ながら「それで」と、口を開いた。
「話してくれますね?」
「……お前は知りたがりだな。その性質は、迷宮では命取りになるぞ」
そんな忠告など聞きたくはない。カブルーは眉をひそめ、先を促した。
ミスルンを何とかこうとか寝かしつけ、カブルーは一息吐く。
目を閉じて、静かに呼吸するの顔は、それはもう作り物のように美しかった。ミスルンが話をする間も、カブルーがちょっと声を荒げても目を覚ますことがなかったことから、相当疲れが溜まっていたことが伺える。
ぼんやりとその寝顔を見つめていると、ふいにが飛び起きた。
「すみません、つい……!」
慌てて立ち上がるが、すでに眠りに落ちたミスルンに気づいて「え?」と、不思議そうに瞳を瞬く。
「ミスルンさまが、お眠りに……」
「いま眠ったところです」
「あなたが? いえ、失礼しました。カブルーさま、ミスルンさまの身の回りのお世話をしてくださり、ありがとうございます」
名を知っていたのか。
深々と礼をするのつむじを、カブルーは驚愕しながら見つめた。エルフらしくない。
「別に、成り行きです」
カブルーの素っ気ない答えに、が顔をあげた。
相変わらずボロボロではあるものの、その顔色は眠る前よりもよく見えた。がぱちぱちと瞳を瞬いてから、ふっと表情を緩めた。
「それでも、カブルーさまのおかげには変わりありません」
何だ、この呆れるほどの善人は。カブルーはを睨むように見て、真意を探る。
「あのですね……そもそも、こうなったのは俺のせいなんだし、ほんとうに礼を言われる筋合いはありません」
「……それは、そうかもしれません」
が気まずげに、すこしばかり顔を伏せた。
「それより、その身なりを何とかしたらどうです? 怪我はないんですか?」
の乱れた髪に指を通せば、驚くほどサラサラとしていた。手櫛だけで、あっという間に元通りである。
そこで初めて、自身のボロボロ具合に気づいたらしいが、さっと顔を赤らめた。
調子が狂う、とカブルーは視線を逸らした。
「すみません、夢中で気づきませんでした。壁という壁を壊しながら来たから……」
見た目に反して、随分と脳筋である。カブルーの呆れた視線に、ますますが恥ずかしそうに身を小さくする。
あちこち破けたマントを脱いで「ボロボロ……」と、悲しげに見つめている。ため息をひとつ吐いてから、が体中の汚れを払い落した。カブルーはその様子を不躾に観察する。
カナリア隊の一員にしては、罪人のようにも看守のようにも見えない。耳に切れ込みがないということは、看守なのだろうか。それにしては、若いというよりも幼さを感じる気がする。
ふと、がカブルーのほうを向いた。目が合う。
どきりと胸が跳ねたのは、不意を突かれたせいだろうか。それとも、その美貌のせいか。
「……顔、汚れてますよ」
カブルーが伸ばす手を、警戒することなくが見つめている。触れた頬は、滑らかで柔らかく、熱を持っていた。
「きれい」
思ったことが口から出てしまったのかと思ったが、その言葉を発したのはカブルーではなかった。
「きれいな瞳ですね、カブルーさま」
がやさしく微笑む。
カブルーは「どうも」と、顔を背けて素っ気なく答えた。
両親のどちらにも似ていないこの色が、カブルーは好きになれなかったけれど、褒められるのは悪くない。そんなふうに思ってしまったせいか、じんわりと頬が熱かった。