「お前に足りないものはなんだ?」

 そう問われて答えに窮したのは、わからなかったのではなく、あまりにたくさんあり過ぎたためである。口を噤んだままのに対し、相澤が人差し指でトントンと机を叩く。苛立っているというよりも、それはにプレッシャーを与える目的で行われていた。
 相澤が求める答えを見つけ出せなければ、もう終わりなのだという予感がした。

 一応、それなりに受験勉強に時間を費やして、ようやく入学した雄英高校のヒーロー科なのだから、卒業まで在籍したいところである──とはいえ、相澤が担任を務めるのクラスの生徒は、もはや片手で足りるほどにしか残っていない。容赦なく告げられる除籍処分は、いずれに回ってくると気づいていた。それを避けるすべをは知らない。
 じっと相澤のいかにもやる気のなさそうな、やや充血した瞳がを見つめる。個性を持つその瞳は、どうしたって特別には見えなかった。

「向上心」

 ふー、と長いため息を吐いて、相澤が目を閉じた。

「競争心」
「……」
「信念、正義感、努力、勇気」
「……おい、足りないものがあり過ぎだ」

 もういい、と相澤が眉間に皺を刻んだ。
 はよく見た表情だな、とぼんやりとした感想を抱きながら、呆れかえった相澤の顔を見つめる。「よくそれでヒーローになろうと思ったな」と、相澤が指先で眉間を押さえた。

「先生、わたしも除籍ですか」

 相澤のドライアイがを見る。「そうだ」と、ひどく簡潔で短い返事だった。にや、と相澤の唇が歪む。

「……と、言ったらどうする?」
「どうって、……」
「お前はいつもそうだな。自分のことのくせに、どうでもいいって顔をする」

 そんな顔をしているのだろうか、とは手を頬に当てた。

「確かにお前が言ったものも足りないが、一番はアイデンティティだ」
「アイデンティティ……」
「本当にヒーローになりたいのか? 何故雄英を目指した? それを自分自身が理解していないようなら、お前はヒーローを目指す資格すらない」

 がたん、と音を立てて相澤が席を立つ。
 は言葉もなく、ただ視線で追いかけた。

「おめでとう。お望み通り、除籍処分だ」

 そりゃあ勉強は大変だし、個性の強化などはより大変で辛いものだったが、除籍処分がめでたいわけがなかった。しかし、は何も言えなかったし、相澤もそれ以上の言葉はなく教室を出て行った。
 相澤の言うことは、いつも大抵正しい。
 段々減っていくクラスメイト。それでも感じるのは、焦燥感でも恐怖でもなく、ただの予感だった。

 は小さくため息を吐いた。確かに、にはヒーローを目指す資格すらない。




 雄英高校のヒーロー科に入学した際、諸手を挙げて喜んだヒーロー一家である家族は、除籍になったに失望して、興味をなくした。「はいつもそう、楽しいことも悲しいことも、何にもないみたいな顔」と、落胆した母が目を伏せて、苦い顔をした。
 ──そうして、は輪郭をなくす。


 どこかで悲鳴が聞こえる。突如として、壁のように目の前に立ちはだかった巨体は、を見てにやりと口元を歪めたようだったが逆光でよく見えなかった。
 街中を歩いていてヴィランと遭遇する確率はいかほどだろうか。
 はただ首が痛むくらいに持ち上げて、巨体を見上げる。軽い一振りで頑丈な建物を粉砕した大きすぎる手が、こちらに向かって伸ばされるのがわかっても、はその場を動かなかった。相澤や母親が指摘したような顔をしているのだろうな、とはぼんやりと思いながら、近づく指先を見つめる。

 しかし、突然視界がぶれて、浮遊感に襲われる。とん、と軽く地面にお尻から着地する。そして、瞬きの間に巨体が地面に伏している。

「物騒な世の中だよねぇ」

 頭上から声が落ちる。「怪我はない?」と、にこやかなのにどこか胡散そうな笑みを浮かべて、男が手を差し出した。
 背には大きな翼が生えていた。

「……怪我、は、ないみたいです」

 はそう答えながら、彼の手を借りることなく立ち上がった。「それは良かった」と、男は気にした様子もなく差し出した手をすぐに引っ込めた。色の付いたゴーグル越しの目元が、少しだけやわらいだように見えたが、気のせいかもしれない。
 一瞬の静寂ののち、あたりがどっと騒めいて波のように人が彼に殺到する。傍にいたは人混みに弾き出され、よくよく顔を見ることもままならなかった。

「ホークスだ!」

 ホークス、と呼ばれた男は「はいはい、ホークスですよ。ヴィランの後処理あるから下がってねー」と、軽く肩をすくめた。キラキラとした瞳を向けられる彼は、疑いようもなくヒーローであるらしかった。
 助けてもらっておいてお礼も言っていないことに気づいて、は頭を下げた。
 彼がそれに気づいたかはわからないし、気づいていようといまいとにはあまり関係がなかった。もうヒーローには関心がない。




「ねえ君、雄英の子だよね? 体育祭で派手な個性ぶっ放してたでしょ」

 ナンパかと思うくらい軽い調子で声をかけられたので、はそれが自分に向けられたものとは気づかなかったし、よもやそれがホークスホークスと大勢の人にチヤホヤされていたヒーローだとも思わなかった。
 辛うじて雄英、体育祭、派手な個性という言葉を耳が拾って、はたと足を止める。
 体育祭では確かに個性を使って派手な演出をした。けれども担任である相澤にはすこぶる不評で「もうちっと楽しそうにできないもんかね」と苦言を呈された──はちら、と男を一瞥して、また歩き始める。

「人違いです」
「えっ、嘘だー。俺、結構記憶力には自信あるんだよね」
「……」

 ふわ、と浮かんで、男がに行く手を阻むように降り立つ。狭い路地というわけではないが、大きく翼を広げられては右にも左にも行けない。

「わたしがその雄英の生徒だとしても、わたしはあなたを知りませんし、」
「……俺を知らない?」

 男が驚いたように目を見開いて、それから苦笑を漏らす。

「はは、ごめんごめん。それじゃあ警戒するよな」

 先ほどと同様に、男の手のひらがに向けられる。はその手を見てから、男の顔を見た。地面に転がっているわけでもないに対して、手を差し出す理由がわからなかった。

「ウィングヒーロー、ホークス」

 よろしく、と言ってホークスが差し出した手を伸ばして、無理やりの右手を握る。
 はそこでようやく、速すぎる男の異名を思い出した。詳しいことは知らないが、やたらとメディアで取り上げられていたので、の記憶にも残っている。

 ヒーローを本気で目指していたと思っていたのに、有名なヒーローのことすらろくに覚えていない。
 は両親の失望がよくわかったし、やはり相澤の言葉は正しかったのだと思う。

「名前、聞いてもいい?」

 ホークスの手は、の手を握ったままだ。「いやです」と、は手を振りほどいた。
 呆気にとられたようにホークスが唖然と目を丸くしているが、すぐに気を取り直した様子だった。肩を震わせて、小さく声を立てて笑う。

「まあいいや! またね、ちゃん」

 バサッと羽音を立ててホークスが飛び立つ。ひらりと羽根がの頬を撫でた。
 またねの意味も、名前を知っている理由も、にはなに一つわからないし知りたいとも思わない。ただ、握られた右手には、彼の熱がまだ残っているような気がした。

(赤い羽根は一枚も残していかなかったくせに)