ぎゅうっ、ときつく傷口を縛れば、杉元の顔が痛みに歪む。
 不死身の、と二つ名があろうとも、痛覚がないわけではない。出血だってする。適切な処置をしなければ傷口から感染症にだって至る。杉元の身体は鍛えられているけれども、ごく普通の肉体で、死とは決して無縁ではない。

 は一度手を止めて、窺うように杉元を見た。目が合うと、杉元の眉尻が申し訳なさそうに下がる。情けなくも見える表情を浮かべたその顔には、血飛沫が飛んでいた。

「佐一さん、まだ血が付いていますよ」
「え? 何処だろ……」

 杉元が全く見当はずれの場所を甲で擦る。は濡れた布で、そうっと杉元の頬に触れる。
 きょとん、と瞳を瞬かせる杉元がまるで無垢な子どものように見えて、は小さく笑った。「佐一さんったら、食べかすを付けた子どもみたい」と言えば、杉元が不服そうに眉をひそめた。

 大きな傷跡を顔に刻んだ大の男に対する言葉ではないか、と思うものの、笑いが収まらない。小さく肩を揺らしながら、は再び手を動かす。

「ちょ、さん、笑いすぎだって」
「ごめんなさい」
「笑いながら謝られても、全然誠意を感じないよ!?」

 不満げに唇を尖らせるから、尚更子どものようだった。けれど、それを指摘してはまた機嫌を損ねるのは明白だったので、はもう一度謝罪を口にして手を動かす。

 一つ一つの怪我は、それほど大きなものではない。しかし、小さいと言えるほどの程度でもなかった。唾をつけときゃ治る、と白石が冗談めいて言うが、には放っておくことなどできなかった。
 巻きつけた包帯を結んで「終わりましたよ」と、は微笑んだ。

「いつもありがとう。さんがいてくれて、助かるよ」

 杉元が目元を柔らかく細めて、やさしく笑んだ。
 返り血を浴びるほど苛烈な戦いを繰り広げていた男と、同一人物であると言うことが、不思議に思えるくらいやさしい顔で、やさしい物言いをする。

「血を落としてきますね」

 は杉元の上着を手に立ち上がる。
 ふいに、杉元の手がの手首を掴んだ。大きな手は、の手首を指がゆうに余るほどに覆っている。力を込めれば骨を折ることもできそうなくらいだ。

「……さんは、俺が怖くないのかい?」

 俯きがちに、杉元が呟くように問うた。軍帽のせいで表情がよく見えない。
 は膝をついて、杉元の目線に合わせる。手首を掴むその手に、はもう一方の手を重ねた。ぴく、と杉元の指先が小さく跳ねたようだった。

「佐一さんを怖いと思ったことなんて、一度だってありません。だって、わたしはあなたがやさしいことを知っています」
さん……」

 杉元がおもむろに顔を上げる。

「あなたのこの手は、人を殺めるだけではありません。アシパちゃんを守るし、わたしの手を引いてくれる。恐れる必要なんて、どこにもないでしょう」

 くい、と杉元が軍帽を下げて目元を隠す。
 恥ずかしそうに赤らんだ頬までは隠せていなくて、はくすりと笑った。

「すげー殺し文句じゃん……」

 ぼそりと落とされた声は、どこか悔しげだった。



 もぞりと動く気配を感じて、は身体を起こした。すぐ傍では、アシパがすやすやと寝息を立てている。アシパの寝顔に自然と頬が緩む。
 視線を巡らせれば、大きな背がすぐに見つかった。

「傷が病みますか?」

 背が揺れて、弾かれたように振り返る杉元の鋭い視線が、を射抜いた。しかし、すぐにその瞳はを見て丸く見開かれる。

さん。傷は何とも……あ、ごめんよ、起こしちゃったね」
「いえ、なんだか寝付けなくて」

 は軽くかぶりを振った。そっか、と小さくこぼした杉元の手に、銃剣が握られていることに気づく。の視線に気づいた杉元が、気まずそうに目を伏せた。

「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」
「いや、さんが謝ることなんて! 俺が油断してただけだし……」
「近くに行っても構いませんか?」

 杉元の視線が躊躇うように宙を彷徨う。
 は杉元の返事を待って、その場に留まる。ちら、と杉元がを一瞥して、慌てたように軍帽を深く被り直す。

「……うん」

 小さな返事が聞こえ、は顔を綻ばせる。アシパを起こさぬように気をつけながら、は杉元の傍に腰を下ろした。

さん、寒くないかい」

 気遣わしげに顔を覗き込む杉元には、先ほどの剣呑な雰囲気は消え失せていた。

「はい、大丈夫です」
「そう? もっと近づいてもいいよ」

 杉元の手が肩を抱いて、間にあった拳二個分ほどの距離を埋めてしまう。近づくと昼間に治療した傷の消毒液の匂いがした。恐らく、包帯の下の傷はもう塞がっている。
 細く長いため息を吐き出して、杉元が己の手のひらを見つめる。
 もまた、その手に視線を落とした。

さんはああ言ってくれたけどさ」

 杉元がぐっと手を握りしめる。

「こんな血塗れの手が、さんの手を引いてもいいのかな、って俺は思うよ」

 自嘲するような、諦めたような、緩い笑みが杉元の口元には浮かんでいた。
 こんなにも近くにいるのに、杉元の心がすごく遠くにあるように感じる。その目に映らない。手を伸ばしても届かない。どんな言葉も耳に入らない。
 ──彼は、今も戦場にいる。

 はぐっと眉をひそめる。
 両手で杉元の頬を挟んで顔をこちらに向けさせて、視線を合わせる。

「佐一さん」

 たとえ、血の匂いが染み付いていたとしても、杉元は杉元だ。この大きな手は、にとって最も安心できて信頼できる手だ。何度もを助け、救ってくれた。
 杉元の手はやさしい。それをどうかわかってほしい。

「そんなふうに言わないで。わたしは、あなたの手が大好きです」

 杉元が虚を突かれたように瞠目する。ゆるゆると眉尻が下がって「そっか」と、杉元が先ほどよりずっと小さい声を漏らす。

 は怒っている。同時に、ひどく悲しかった。
 眦に力を込めるが、堪えきれずにぷくりと浮かんだ涙が、目尻を伝い落ちた。は手を離し、慌てて顔を伏せる。

さん?」
「……佐一さんのお傍に、置いてください」

 杉元の心に触れたい。
 は杉元の肩口へと額を寄せた。

 戸惑うように、持ち上げられた手は躊躇いがちにの身体を包んだ。杉元の身体から香るのは、消毒液と汗の匂いで、血の匂いなどではない。

さんが嫌だって言っても、離してあげないよ?」

 杉元がおどけながら、ぎゅうとを抱きしめる。「望むところです」と、は杉元の背に手を回して答えた。
 腕の力がすこしだけ緩んで、杉元がの顔を覗き込む。

さんのこと、この手で守るよ。絶対」

 杉元のすこしだけかさついた指先が、の目尻をなぞって、涙の粒を拭った。


「……杉元ぉ…………むにゃ……」

 ごろん、とアシパが寝言と共に寝返りを打つ。
 びくっとと杉元は肩を揺らして振り返るが、アシパは相変わらず夢の中にいるようだった。そろりと目を合わせて、小さく笑い合う。

「明日に備えて寝ましょうか」
「寝坊なんかしたら、アシパさんに叩き起こされちまう」

 立ち上がりかけたの腕を掴んで、杉元が身を寄せる。ほんの一瞬だけ、唇が触れ合う。

「おやすみ、さん」

 杉元が一等やさしく微笑んで告げる。まるで、顔のみならず全身に傷跡を刻む男には、見えやしない。は杉元の手を取って、頬を擦り寄せる。

「はい、おやすみなさい」

 今度こそ立ち上がって、はアシパの隣に横たわる。しかし、しばらく杉元が横になる気配はなかった。「さん、可愛すぎるよ……」という杉元の呟きは、誰も聞いてはいなかった。






「おい杉元、起きろ!」

 気持ち良さように寝息を立てる杉元の頭を、アシパが思い切り小突く。「んあ?」と、寝ぼけ眼を擦りながら杉元が、ようやく起き上がった。

「……あれ、もう朝? っていうかアシパさん、痛いんだけど!」
「いつまでも起きないお前が悪い」

 ふん、と鼻を鳴らすアシパには悪びれる様子がちっともない。

「佐一さん、おはようございます。大丈夫ですか?」
「お、おはよう、さん」
「ふふ、寝坊してしまいましたね」
さんがやさしく起こしてくれてもいいんだよ?」

 杉元が気まずそうに目を逸らし、唇を尖らせる。
 やさしく、では起きなかった結果がこうなのだが、は苦笑を漏らすだけで何も言わなかった。

「傷は痛みませんか? ちょっと見させてくださいね」
「ん? あー、もう大丈夫」

 杉元が包帯を取り払ってしまうが、言葉通り大丈夫そうである。いつもながら、驚異的な治癒力だ。「ほーら、言ったろ? 唾つけときゃいいんだって」と、白石が茶々を入れてくる。

「佐一さん、だからと言って無理はなさらないでくださいね。わたしはあなたが怪我を負うたびに、肝が冷えます」
「う……わ、わかってるよ」

 は杉元の大きな手を両手で包んだ。骨ばって、すこしかさついて、あたたかい手がにはこの上なく愛おしい。たじろぐように唇を結んだ杉元の頬が、赤みを帯びる。

「はいはいお二人さん、イチャつくのは俺たちが寝てる間だけにしてくれよ~?」

 白石が間に割り込んで、に向けてぱちりと片目をつぶってみせる。
 杉元の顔がさらに赤らむと同時に、の頬もさっと紅潮する。アシパだけが、不思議そうに首を傾げていた。

げていかないで

(祈るように、あなたの手を握る)