このまま死ぬのかもしれない。
 そんな風に考えることができる程度には、意識が回復してきているようだった。身体は思うように動かないままだったがが、周囲の音やにおいを拾うようになっていたし、身に触れる感触を知れるようになっていた。

「尾形さん、今日はとても天気がいいですよ」

 耳に心地の良い声だった。顔も名前も知らない。
 すべらかな手が手当てを施し、身を清めていく。ほのかに甘い金木犀の香りを残していた。





「若い女はいるか」
「あらあら、元気になったと思ったらそんなことをお聞きになるなんて、よほど生命力が強くていらっしゃるんですねぇ。さすがは兵士さまですわ」

 上品な物言いであったが、そこに含まれる感情はいいものではないだろう。ふん、と尾形は軽く鼻を鳴らした。中年の看護婦に興味はない。

「残念ですけど、みんな私くらいか、それより上のおばさんばかりですよ」
「金木犀の香りのする女だ」
「……ああ、それならきっと、鶴見中尉がつれてきた子のことです」

 尾形はぐっと眉をひそめる。鶴見と懇意にしている女、となれば警戒するべきだ。しかし、それよりも興味が勝った。「たしか、ちゃん……だったかしらね」と、看護婦が呑気な様子で続ける。

「あなたのお世話だけを言いつけられていたみたいですよ」

 ほかの看護婦にも探りを入れてみたもののあまり有用な情報は得られなかった。しかし、尾形には名前を知れただけで十分だった。
 その程度の興味だった。頭の片隅に、その名を置いておいたことすら、尾形は長らく忘れていた。



 ふっ、と鼻先に覚えのあるにおいを感じて、反射的に手を伸ばした。掴んだ手首の先を辿れば、女が目を丸くしている。「あ、あの、」と、戸惑うように視線を彷徨わせて、ちいさな力で尾形の手を振り払うような仕草をした。そんなものは尾形にとっては抵抗のうちに入らない。
 、とその名を聞いても、なにも感じなかったが──尾形はふっと口元に笑みを描いた。

「そうか」
「尾形さん? どうなさったのですか」
「……」

 じぃ、と見つめるとがたじろぐ。彼女は尾形を知っているような素振りを見せることはなかった。もしかしたら、その関係性を杉元らに隠そうとしているのかもしれない。

「尾形、その手を離せ」

 不穏な空気を纏って、杉元がまさしく割り入る。ぐっと腕を掴んでくる手に込められる力は馬鹿力と言うほかない。杉元の額には青筋が浮かんでいる。
 なるほど。アシパ以外にもこういった反応をするのか。
 尾形は新しい発見を得た。「いやに過保護だな」と、ぽつりと呟き、言われた通りに手を離す。

 背丈の低いが、すっぽりと杉元に覆われて姿を隠す。
 ふん、と尾形は鼻を鳴らした。

 どういった経緯でが杉元たちと共にいるかは知らない。そこは大して重要ではない。
 まだ鶴見中尉と懇意にしているのだとしたら。様々な可能性が浮かび上がる。ただの鈍くさい女だと思っていたが、それはそう演じていただけに過ぎないかもしれない。人畜無害かと思えば、とんだ危険因子だ。

 ただ、自体はなんてことはない。尾形ならば如何様にもできる。厄介なのは杉元だ。手出ししようものなら、先ほどのように邪魔が入るだろう。
 不死身の、などと大層な二つ名を持つ元兵士は、それにたがわぬ実力を持っている。
 杉元の口ぶりでは故郷に女を置いてきているらしいが、好意を寄せてくる女を無下にできないのか、やたらとに甘い。反吐が出るほどに。

「……まあいい」

 今はまだ、と尾形は心中で付け足した。
 の手の感触を思い出しながら。

さくてかな

(求めていたのはその手だった)