は、と意味もない吐息が唇から漏れた。
ずれ落ちそうになった眼鏡を「おっと」と、小さな呟きと共に人差し指が戻してくれる。ぐっと肩を抱く手を妙に意識してしまって身体が強張るが、見上げた横顔はいつもと変わらない表情の塚内で、は緊張と焦燥を覚える自分を恥じ入る。
「大丈夫? なんかまた妙なことに巻き込まれてるね」
「あ、え、すみません……」
はじめて塚内に世話になったのはいつだっただろうか。
思春期を迎えて、の個性は頭角を現したような気がする。この眼鏡を掛けるようになるまで、様々な場所で多くの人を惑わせてしまった。サキュバス──自分の個性ながら、はこれが恐ろしい。
「で、知り合いなの?」
塚内に問われ、は力なく首を振った。
最近は常に眼鏡をしている。そうすれば、所構わず催淫してしまうことはないと知ったからである。いつ、どこでこの見知らぬ男を惹きつけてしまったのか、には見当もつかなかった。
頬を赤らめた男がうっとりと目を細める。「ひっ」と、は思わず塚内のコートを掴んだ。
この熱の籠った瞳を見るのは久しい。はぎゅっと目を瞑って、塚内に縋りついた。うーん、と塚内が小さく呟き、のんびりとした仕草で後ろ首を掻いた。
「ごめんね、ちゃん。ちょっと動きづらいな」
塚内がやさしく諭すように言って、の身体を自分の背中側へと押しやった。
「さて、どうしたものか」
塚内の頼もしい背中を見ながら、はもうすでに安堵していた。
ぴと、と冷たい缶コーヒーを頬に当てられ、は小さく飛び上がった。お疲れ様、と穏やかに笑んだ塚内が缶コーヒーを手にしている。は頬を手のひらで押さえながら、塚内を見上げる。
「久しぶりだね、君が警察のお世話になるの」
「非行に走ってるみたいな言い方しないでください……」
はは、と塚内が悪びれずに笑って、ベンチに腰を下ろした。に差し出したコーヒーと同じものを、塚内がプシュっと音を立ててプルタブを開ける。
「大分時間取らせちゃったね」
休日の昼下がり──だったのが、いつの間にか日が暮れて、空は夕焼けに染まっている。は窓の外を見ながら、缶コーヒーのプルタブに人差し指を掛けた。しかし、指先が震えて上手く力が入らない。
「……っ」
「貸してごらん」
それに気がついた塚内が蓋を開けてくれる。
ありがとう、と言いたかったのに、唇からは震えた吐息が漏れただけだった。
は足元に視線を落とす。ぽん、との頭に大きな手が乗せられる。「頑張ったね」塚内のやさしい声が降ってきて、は堪えきれずにぐすっと鼻を啜った。
怖かった。
涙がこぼれ落ちそうになって、は慌ててハンカチを瞼に押し当てる。こんな小さな涙の粒も、の個性の一部として、多少の催淫効果を有している。は自分の体液が、他人に触れていいものではないことを知っている。
「家まで送ってあげたいところだけど、仕事があってね。大丈夫かい?」
「あ……ばっちゃんに連絡したから、」
「そうか。それなら安心だね」
塚内がやさしく微笑む。仕事があるといったのにもかかわらず、ベンチに腰を下ろしたままの塚内を、は不思議に見つめた。
「ちゃんのお迎えがくるまで、少し休憩」
笑いを含んだ声でそう言って、塚内はコーヒーを飲む。
もまたその様子を横目に、コーヒーを口に含んだ。冷たい液体がすうっと食道を通っていく。どうやら缶コーヒーは無糖ブラックだったらしい。は思わず眉をひそめた。
「……苦い」
塚内がはは、と笑った。