死ぬよりも苦しい目に合わせてから殺してやりたいくらいだったが、これ以上この男がのことを考えていることのほうが許しがたかったので、南雲は男の首をサクッと斬り落してしまった。
 ごろんと地面に転がった男の首を、何の感慨もなく足蹴にする。
 名前も知らないような殺し屋だ。

 普通は、家への報復なんて考えない。命がいくつあっても足りないからだ。彼らは、依頼以外の殺しはしない主義だが、噛みついてきた者には慈悲も容赦もない。

「……南雲?」
くんだ~、久しぶり」

 南雲は軽く右手を上げて、にこりと笑った。
 と一番年の近い、彼女の三番目の兄が訝しげな顔をしながら近づいてくる。「ORDERが何やってるんだ」と、転がった首の顔を確かめて、ため息を吐く。おそらく、目的は南雲と同じだったのだろうが、こちらのほうが早かったようだ。

「まあいい、手間が省けた」

 南雲に飛び掛かってこないところを見ると、まだとの婚約の件は耳に入っていないらしい。
 の母親が言っていたように、彼女の兄たちのシスコンぶりは少々常軌を逸している。さすがの南雲も、三人によってたかって命を狙われれば骨が折れるに違いない。だからといって、を諦める気など南雲にはさらさらなかった。

 家の立場はあくまで公平であり、殺連とぶつかることなくうまく付き合ってくれているからこそ、ORDERは動かない。家は決して、秩序を乱す存在ではない。

 けれども、力を持ちすぎた彼らは、確かに殺連にとっては目の上のたんこぶのようなものだ。
 いかに家族に溺愛された末娘といえど、ひとり手に入れたところで、どうにかなるような一族ではない。だから、”がその気になれば婚約者と認める”なんていうのは、おそらく家にとっては小さなお遊びに過ぎない。どちらに転んだとしたって、痛くもかゆくもない。
 ORDERのひとりといっても、彼らにとって南雲など、所詮その程度なのである。はそれがわかっていないからこそ、真面目に南雲に向き合ってくれる。そこが可愛いところでもある。

「そういえば、坂本くんのこと聞いた?」
「……その名前を出すな。懸賞金のことなら知っている」

 途端に不機嫌になるので、南雲は変わらないなぁと思いながら、横顔を眺めた。
 家の三男は、JCC時代の同級生である。つまり、坂本のこともよく知っているのだが、暗殺のエリート一家の一員でありながら、JCC時代万年二位の座に甘んじる他なかったことは彼にとって屈辱で黒歴史なのだ。

「うちは関わる気はない。もとより、あいつはもう一線を退いているだろう」
「そうなんだよね~」
「……懸賞金をかけた奴は誰かわからないのか?」
「うん、残念だけどね。ま、坂本くんならどうにかなるでしょ。流石にならないかな~」

 「どう思う?」と、南雲は振り向いたが、すでに興味なさげに背中が向けられていた。まあ、もともと仲良しでもない。南雲は肩を竦めて視線を外した。

「南雲、それの片づけはこっちでやっておく」
「えー、いいの?」
「そのつもりだったからな。だから、さっさと消えろ。おまえのアホ面は見てるだけで腹立たしい」

 ひどい言われようである。
 未来の義弟になるかもしれないのに、と喉まで出かけた言葉を「あははひどいな~」と、南雲は笑い声に変えた。

「じゃ、またね~くん」

 南雲はひらりと手を振って踵を返した。




 壁に描かれたバツ印を見つめながら、は不快に眉をひそめる。そこらじゅうが血だらけで、靴底が誰とも知らぬ血で汚れてしまった。
 不機嫌な顔をそのままに振り返って、物言わぬ遺体を見下ろす。派手な殺し方である。
 まるで、見せつけるかのよう──

 殺しの依頼がかぶることは、まれである。家は暗殺一家としての誇りを持っているため、ダブルブッキングはご法度なのだ。当然、依頼者はそれを知っている。
 聞くところによれば、このところ行われている殺し屋殺しは、殺連とのかかわりが深い組織に対するものだ。これは、殺連への見せしめであり、家への宣戦布告ではない。しかし、先を越されたとなれば不快極まりないのも致し方ないだろう。

「無駄足を踏んでしまいましたわ」

 は小さくため息を吐く。
 ターゲットがすでに息絶えているのならば、もうここに用はない。はちらりとバツ印を見やってから、血みどろの部屋を後にした。


 久々の仕事だというのに、出鼻をくじかれやる気も失せていたが、神経だけは尖っていた。普段なら、これだけ気配を殺して近づかれては、とて気づかなかったに違いない。
 反射的に掴んだ手首が思った以上に太くて、は咄嗟に指先に力を込めた。男。それもかなり大柄の──その存在を視界に捉えた瞬間、の手は振り解かれ、距離をとる間もなく抱きすくめられていた。反撃しようとして、しかし、は身体から力を抜いた。

「南雲さん……」
「仕事モードのちゃん、久々に見たな~」

 の呆れた声に、いつもの調子が返ってくる。
 南雲の腕はすっぽりとを包んでいたが、強い拘束ではないため抜け出そうと思えば抜け出せた。は首を捻って南雲を見上げる。ちょうど首元のタトゥーが目に飛び込んできて、そこを切り裂いてしまえたらどれだけいいか、と頭の中でひどく物騒なことを考える。もちろん、そんなふうに思っていることは顔にはおくびも出さない。

「珍しい。ちゃんから、血の匂いがする」

 すん、と南雲が鼻を寄せてくるので、は首を竦めた。

「やめてくださる?」
「ごめんね、つい。でもほんとに珍しいね、ちゃんの殺しは綺麗なのに」

 の不機嫌な声と漏れ出た殺気に、南雲がぱっと手を離した。「もしかして」と、南雲が背を屈めての顔を覗き込む。

「手柄を横取りされちゃった?」
「……」
「現場にバツ印が残されてたりして?」
「面白がっていらして?」

 ふん、とは鼻白んだ目を南雲へと向けた。しかし、南雲は微塵も気にする様子もなく、ふぅんと小さく呟く。南雲の顔から笑みが消えたことに気づいて、は眉間に皺を寄せた。

「そっちにもちょっかいをかけるとはね」
「……家に? まさか、そんな殺し屋が──
「だから僕らが動いてる」

 南雲の静かな声が、の言葉を遮った。
 僕ら──ORDER、つまり殺連直属の特務部隊が動かざるを得ないほどの存在、ということである。

 一度離れたはずの南雲の腕が、再びの身体に絡みつく。苦しさは一切なかったが、南雲の腕からは抜け出せそうになかった。

「気をつけてね~、ちゃん」

 耳元に落ちてきた南雲の声は、いつもよりも真剣みを帯びていた。南雲が身を案じてくれているのだとわかって、うれしいような悔しいような、胸にちくりと棘が刺さったような気持ちになる。
 幼い頃から殺しの技術を叩きこまれたとはいえ、末娘に両親も兄たちも甘い。
 たぶん、南雲の足元にも及ばないからこそ、こんなふうに心配されてしまうのだ。現に、殺し屋殺しの後手に回ってしまった。

「わたしを見くびらないで、南雲さん」

 目いっぱい険のある声を出せば、南雲の笑い声が耳朶に触れた。
 南雲の腕が緩むどころか、ぎゅうときつくなる。ほんのわずかに息苦しさを覚えて、は南雲の背中を拳で叩いた。それなりの力を込めたはずなのに、南雲は痛がる素振りすらしない。

「もうちょっとだけ」

 少しだけ甘えるような声音に、思わずちょっとならまあいいか、と絆されてしまったが、南雲の言う”ちょっと”はにとっては全然ちょっとではなかった。我慢できずに、足を踏んだり肘打ちしたりしてみたものの、南雲はケロッとしているばかりだ。眉ひとつ動かさない。
 こんなかたちで、実力の差を思い知らされるとは。は怒りと情けなさと恥ずかしさで赤くなった顔で、南雲を睨みつける。

「かわいい」

 南雲が目を細める。そこには揶揄するような響きがなくて、だからは、握った拳を振りかぶることができなかった。

「……いい加減になさって」

 声に含めた険をわずかに潜めてしまった理由を、は知らない。知りたくもない。

椿蜜の味

(それを、知ってはいけない)