の頬を涙が伝っている。
ホークスはそれを目にした瞬間、あまりの驚きとショックで、頭を殴られたような錯覚さえ覚えた。
泣き虫で困ってるんです、と以前恥ずかしそうにが語っていたことを、ホークスは揺れる脳みそで思い出す。汗も涙もすべからく、彼女の体液には治癒と催淫効果がある。
がいつも自分の体液が他人に触れぬよう、人一倍気を遣っていたことくらい、気づいていた。気づいていたけれど、ホークスは触れたいと思っていた。
拭ってやりたいな、と思ったのに、手は持ち上がってくれなかった。唇からは乾いた呼気が漏れるばかりで、名前すらも呼べなかった。
ぴくりとしか動かなかったホークスの右手を、の柔い手のひらがそうっと包んだ。
「よかった、ホークスさん……」
その声は掠れて、震えていた。
人目を憚らず泣く理由が、よもや自分であるとは考えもしなかった。
顎先まで伝った涙をの甲が拭う。弾けた涙の粒が散って、ホークスの肌に落ちた。
できることなら、涙を指で拭って、震える身体を抱きしめたかった。羽根の一枚すらも動かせない。ホークスはなんとか応えようと、指先に力を込める。きゅ、と挟み込んだの指先は、驚くほど冷たかった。
「……っ」
が片手で顔を覆う。指の隙間から涙が落ちて、の膝を濡らしていく。
──信じますよ。当たり前です。
躊躇いなくそう言ってくれたの信頼に応えて、ヒーローらしい格好いいところを見せたかった。
ホークスは重い瞼を閉じる。手に、冷たい感触をだけを感じる。
自分のなかにまだ“鷹見啓悟”が残っていたとは、我ながら驚きである。その名を耳にして、柄にもなくホークスは動揺した。
がもう一度「よかった」と心底安堵した声を漏らして、ナースコールを手にした。
青い炎に焼かれた喉は、その機能をすぐには取り戻してはくれなかった。に伝えたいことも、言わなければならないことも、ホークスには山ほどあった。
ホークスの唇が動いたことに気づいて、がそこに指を添えた。
「いまはゆっくり休んでください」
が泣き笑いの顔で言うから、ホークスはただ目を閉じるしかなかった。
思い返してみれば、休暇らしい休暇など、なかったような気がする。ぼんやりと窓の外を眺めながら、自分を縛るものがいまは何もないのだと思って、ホークスは不思議な気持ちになる。
速すぎる男だけに、生き急ぎ過ぎていたのかもしれない。
『さん』
スマホに指を走らせると、無機質な音声が文字を読み上げた。
「ホークスさん、どうかしましたか?」
すい、とが顔を覗き込んでくる。その距離がいつになく近いので、らしくもなくホークスのほうがどぎまぎしてしまう。の瞳は相変わらず眼鏡で見えやしないが、ホークスのゴーグルがない分、隔てるものがいつもより少ない。
「…………」
指が固まったように動かない。
こんな機械を通して、ホークスの言葉を伝えたくなかった。
酸素マスクに手をかけると、の表情に険が走る。「ホークスさん」と、一段低い声とともに、手を押さえられる。ホークスはを窺うように見た。
「明日退院とはいえ、万全じゃないんですよ。まだ喋っちゃだめです」
『どうしても?』
「どうしても、です。ホークスさんだってわかってるでしょう」
『そりゃわかってはいますけど、ちょっとくらい大目に見てくださいよ。厳しいなぁ、さん』
ぐ、との眉間に力がこもる。
いつもの軽口を流せるほど、の情緒は安定していなかったらしい。言葉を言い募ろうとしたはずの唇から、震えた吐息が漏れて、ホークスの頬に触れた。
ホークスの手を、の手が縋るように握る。
「ふざけないでください。わたしが、どんな気持ちで、」
震える声が湿っぽい。
が慌てて背を向けた。ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。
ホークスは呆然と震える背中を見つめた。
泣いている。いや、泣かせてしまった。
ホークスは解放された手をに伸ばすが、けれどベッドからでは届きそうになかった。仕方なく、スマホを手にする。
『さん、こっち向いて』
「……、」
の肩が跳ねる。『向いてくれないんなら、俺がそっちに回り込むしか』文字を打つ途中で、がホークスの手を止めた。
ぱたっ、と手元に、の涙が落ちる。の指がそれを素早く拭った。
「自分がどんな状態だったか、わかりますか。わたしは、あなたが死んでしまうじゃないかって怖くて、こわくて、っ」
嗚咽が、の言葉を飲み込んだ。
こみ上げた衝動をそのままに、を抱きしめたかった。けれど、ホークスの痛む身体にそれは難しく、怪我が煩わしくて仕方がなかった。
スマホごと押さえ込まれた手を動かして、の指を絡めとる。
愛おしい、とこの気持ちはやはり、機械なんかでは伝えられない。
が俯かせた顔をゆっくり上げる。どれだけ近くても、眼鏡に阻まれ、の瞳を見ることは叶わない。それをが一番望んでいないことを知っているから、ホークスは眼鏡をずらすことなく、指先で涙を拭った。
「……涙、」
濡れた指先に視線を落として、が眉をひそめた。このぐらい、とホークスは肩をすくめて小さく笑うが、がかぶりを振って丁寧にその指をハンカチで拭う。
なんだかいけないことをさせているような気分になって、ホークスはさっと目を逸らした。
「泣き虫で、ほんとう、嫌になります」
が途方に暮れたように呟いて、濡れたハンカチを目元に押し当てる。
時おり、ホークスにはが年下に見える。それを言うと、きっとは心外だと憤慨するだろうから、口にしたことはない。蠱惑的な外見とは裏腹に、は素直で、純粋で、そのうえ初心だ。
「おれは」
思った以上に掠れた声が出て、だけでなく、ホークスまで驚いてしまう。ぎょっとしたがホークスを凝視している。
「すきですよ」
泣き虫なところもはもちろん、俺を突き放せない甘さも──全部、すきだ。
想いをすべて言葉にすることはできなかった。
ちょっと話しただけで咳き込んでしまって、ホークスは内心で舌打ちする。が慌ててホークスの背を撫でた。
「だめって言ったじゃないですか」
『すみません。でも』
ホークスはそこまで打って、指を止める。が不思議そうにホークスを見つめる。
『どうしても伝えたくて』
の頬にさっと赤みが差す。が逃げてしまう前に、ホークスは絡めた指をぎゅっと挟み込む。長い前髪から除く眉毛が、八の字を描く。
あまりにわかりやすい反応に、くすりと思わず笑みが零れる。
「ほ、ホークスさん、」
『はい。なんですかさん?』
「もう、おやすみになってください。そろそろ帰ります」
ホークスの身体も疲労を訴え始めている。退院したら、やることは山積みでもある。
明日からのことを考えると、ため息が出そうだが、これもヒーローの務めである。これ以上、を失望させたくはない。
『わかりました。じゃあ、おやすみのキスをお願いします』
「な……」
が絶句している。ふ、とホークスは笑っての手を解放し、身を横たえた。
ちょっと揶揄うだけのつもりで、本気ではなかった。ホークスは、にそんな度胸があるとは思っていない。残念ながら、とのキスはホークスが半ば無理やり奪ってばかりである。
「おやすみなさい」
言葉とともに、唇に柔らかい感触が触れる。反射的に、ホークスはぺろりとの下唇を舐めていた。すぐに動けたなら、の後頭部を押さえていただろう。
がさっと身を離した。
身を起しかけて、しかし、の手がそれを阻止した。ホークスは瞳を瞬く。
「……おやすみのキスは、そんないやらしくありません」
がすこし怒ったふうに言って、鞄を手にすると、スタスタと病室を出ていく。
ひとりになった病室で、ホークスは天を仰ぐ。
想定外すぎて、感情がついていかない。とりあえず、この赤くなった顔をに見られる心配はなさそうで、ホークスは人知れずほっとする。
いい夢が見られそうだ。ホークスは口角を上げながら、瞼を下ろした。