「あ……」
大きすぎる手のひらが、わたしの頬に触れて、その親指がぐいと唇を割って舌先に触れる。ぐっと腰をかがめて近づくきれいな顔に緊張しながら、わたしは目を閉じる。唇に、やわらかい感触がして、すぐに離れていった。
何度もしているはずなのに、いつもこの瞬間は緊張してしまう。
流川くんはいつものように、なんでもないような涼しい顔をしているから、なんだかずるい。わたしばっかり、恥ずかしがったり、焦ったり、いちおう年上なんだけどな。先輩だとか後輩だとか、そういうのを彼は初めから感じさせない。
手のひらが動いて、首筋をたどって、肩へと降りていく。もう片方の手が、腰からお腹のほうへとTシャツを捲りあげて侵入してくる。直接肌に触れてくる手に、わたしは驚いて、慌ててその腕を掴む。
「る、流川くん? ちょ、」
わたしの言葉を遮るように、唇がふたたび重なる。
ぐぐ、と掴んだ腕がわたしの力に逆らって、さらに上のほうへと進んでくる。ブラジャー越しに胸を揉まれて、身体が強張る。「っふ、んん…る、」キスがどんどん深くなっていって、わたしはろくにしゃべれないし、いつの間にか流川くんの腕を掴んでいたはずの手は、すがるように流川くんのTシャツを掴んでいた。
「……は、ぁ……っ……」
離れた唇は、目尻をちゅっとついばんで、耳へと近づく。「……、」流川くんの首筋から汗のにおいがした。この、練習で目いっぱいかいた汗が、とてつもなく色っぽいのでわたしはいつも密かにどぎまぎしている。やけに熱っぽい声が、吐息とともに耳に吹き込まれて、わたしは首をすくめる。
流川くんは、とんでもない肉食系男子だ。
なにがクールでかっこいいだ。全然ちがうじゃないか。女子のみんな、だまされてる。
だって、こんな、
「今すぐしてえ」
耳たぶを食まれる。いやだって言ったって、どうせ、わたしはこの獰猛ないきものに食われるほかない。ああ、わたしはさながら小さな草食動物のように、ただ身を小さくすくめた。
練習で疲れているのに、なにもさらに疲れることをしなくてもいいのに、と思わなくもない。しっとりと汗ばんだ流川くんの鍛え上げられた身体から、わたしは目を逸らしながら身なりを整える。とっくのとうに日が暮れてしまっているから急がないと、と張り付くTシャツの不快感に眉をひそめながら、捲り上げられたそれを引っ張って伸ばす。
あれ、と埃っぽくて薄暗い、体育館の用具室に目を凝らす。脱ぎ捨てたはずのあれが見当たらない。
小さな笑い声が聞こえて、わたしは流川くんを振り返る。そして、その手にあるものを見て、思わず絶句した。
「か、返して……」
顔から火が出るほど恥ずかしい。涙目で訴えると、流川くんはわたしを手招きした。もちろん、上裸のままなので、わたしは近づくのをためらう。けれど、こうしている間も、下半身がスースーして落ち着かない。
わたしは覚悟を決めて、流川くんの傍へと寄った。
ぐい、と流川くんの腕がわたしの腰に巻きついて、引き寄せられる。むき出しの胸板に倒れこむことになって、その密着度に心臓が爆発しそうなほど、ドキドキしてしまう。
「っ」
「なにを返してほしいって?」
「わ、わたしの、」
流川くんは意地悪だ。あえてわたしに言わせようというのだ。じわ、とますます涙がにじんで、ついにはぽろりと溢れてしまった。
「わたしの、パンツ、返して」
流川くんの唇がちゅっと触れて、涙を舐めとる。
わたしの足を持ち上げて、流川くんがそのつま先にパンツを通す。「ほら、返したぞ」ふふん、と言い出しそうなほど得意な様子の流川くんを尻目に、わたしはそそくさとパンツとジャージを履いた。
「早く帰ろう、流川くん」
「……ん」
わたしの言葉に、ようやく流川くんが動き出す。学校の、こんなところで、こんなことをしていたと誰かに知られたら、とわたしは気が気じゃないのだが、流川くんは少しも焦ったりする様子はない。
「あの、流川くん、こういうの……が、学校では、困る」
「……が悪い」
「えっ! な、なんで」
「練習終わり、いつもエロい顔で見てくんのどっちだ。どあほう」
「な……!?」
え、エロい顔、って!?
わたしは自分の顔に手を当てる。練習後の汗まみれの流川くんの色っぽさに、密かにどぎまぎどころか、思いっきりバレていたことに驚きと恥ずかしさに襲われる。わたしはそのまま両手で顔を覆って、しゃがみこんだ。
「さっさと帰んぞ」
用具室に鍵をかけた流川くんがそう言ってわたしの手を引くので、うつむいたままそのあとに続く。
「……エロい顔なんてしてないもん」
「はいはい」
「……してないったらしてないもん」
「はいはい」
「る、流川くんっ、わたし、そんなつもりじゃ」
流川くんが足を止めて振り返った。「そんなつもりじゃ、ないもん…」わたしは怖気づきながらも、そう言って、流川くんを見上げる。切れ長の瞳がじっとわたしを見下ろす。
「……わかってる。あんた、いまだに慣れないしな」
なにに、とは言わなくてもわかった。「流川くんの意地悪……」わたしがつぶやくと、流川くんはふっと小さく笑った。
「いまさら」
くしゃり、と流川くんの大きな手が、わたしの髪を撫でた。
「もう」と、わたしは頬を膨らませてぐちゃぐちゃになった髪を手で撫でつけながらも、まんざらではない気持ちで流川くんと手をつないで歩いた。
わたしの取り柄は一途なところで、中学時代は三年間ずうっと同じ人に片想いしていたくらい、それは筋金入りだ。そして、一学年下の彼が同じ高校に入学してきて、ああやっぱり格好いいなと思ってしまうほど一途に片想いしていた。「一歩間違えば、ストーカーよね」と彩子ちゃんに突っ込まれたけど、わたしから一途さを取ったらなんの取り柄もなくなってしまう。
「その顔とかプロポーションとか、色々あるんじゃない?」と彩子ちゃんに言われても、美人でスタイル抜群の彩子ちゃんでは説得力がない。
付き合ってほしい、と流川くんに言われて、わたしは生まれてこの方告白なんてされたことがなかったので、どこかに一緒にきてほしいという意味かと考えてしまったほどだ。でも、その白すぎる流川くんの頬がうっすらと赤くなっていたので、それがそういう意味なんだと理解できたのだ。
「え、っと……わたし?」
「あんた意外にだれがいる、どあほう」
混乱の上で思わず、こんなやりとりをしたのも、懐かしい思い出だ。
まだ、心のどこかで彼のことを一途に想っていたのだけれど、長い片想いをしていても告白する度胸もないし、なにも起こらなかったし、とわたしは流川くんと付き合うことに決めた。正直、流川くんのことを好きという気持ちはあまりなかったけれど、付き合ううちにそういう気持ちは生まれるのかなと考えていた。
中学時代、彼を想っていた気持ちと同じように、一途に好きになれるのかな──そんなふうに、不安になることもあったのは、わたしの心の中だけのひみつだ。
「あんたが流川と付き合うとはねぇ……ていうか、あんたは桜木花道のことが好きなんだと思ってたわ」
窓の外では、花道をはじめとした桜木軍団がぎゃあぎゃあと騒いでいる。ああそうか、彩子ちゃんにわたしの一途さを話したとき、相手がだれとは言わなかった。
「花道は……幼馴染という名の腐れ縁で、そういうのじゃないよ」
あの馬鹿の面倒をみてほしい、とバスケ部のマネージャーに半ば無理やり誘われたのには、もしかしたら彩子ちゃんなりの気遣いだったのかな。
わたしは笑って、花道たちに小さく手を振った。花道の隣にいる洋平くんを見ても、いまはもう胸が苦しくなることはない。流川くんと付き合うことを伝えたとき、花道はそれはもう怒りに怒ったのだけれど、洋平くんはおめでとうと笑ってくれた。そこで、わたしの片想いにピリオドが打たれたのだ。
花道の、以前とは見違える短い髪を見ながら、わたしは流川くんのことを思った。花道とそりが合わない人。そして、わたしの恋人。彼はいつも、バスケットのことばかり考えているのだろう。
ぽろ、と落ちた涙を、流川くんの指先が拭った。わたしは泣き止もうとするのだけれど、ぽろぽろと涙が溢れて落ちていく。
やけに英語の勉強をしていると思ったら、そういう理由だったのか。
「まだ、行くと決まったわけじゃねえ」
「……うん、」
「いまから泣いてどうする。どあほう」
そうだね、って笑いたいのに、わたしはうつむいて泣くことしかできない。流川くんは、とても才能のあるバスケットプレイヤーで、わたしなんかとは違うところをすでに見据えている。全日本高校選抜のメンバーに選ばれて、どんどん流川くんが、わたしの手なんか届かないような存在になってしまいそうでこわい。
流川くんの腕がわたしを抱きしめる。涙が、流川くんの胸元を濡らしていく。
わたしはぎゅっと流川くんの背中に手を回して、目いっぱいの力で抱きついた。「泣き虫でごめんね」ほんとうに、わたしは泣いてばかりだ。湘北が試合に勝っても負けても泣いていたし、流川くんにちょっと意地悪されても泣いていた。
「いまさらなに言ってやがる」
呆れた物言いのわりに、流川くんの手はやさしくわたしの頭を撫でた。
「……応援、する」
「……」
「大丈夫、わたし、一途なのが取り柄だから」
そう、当初の不安なんてどこへやら、わたしは流川くんのことが大好きだった。恥ずかしいから、そんなこと言えやしないのだけれど、この想いはどうか伝わってほしい。
「だから、留学くらい、なんてことないよ」
わたしはなんとか笑って、顔を上げた。
そっと流川くんの手が頬に触れて、唇が重なる。背の高い流川くんが、こうやって腰をかがめてキスをしてくれるのが、わたしは好きだった。わたしは自然に流川くんの首に腕を回す。
「流川くん、っていい加減やめろ」
そう言う流川くんは、珍しく照れたような顔をしていた。わたしは流川くんの言いたいことがわかって、笑う。む、と流川くんが眉をひそめた。
わたしは首に回した手で流川くんの顔を引き寄せ、自分からキスをした。
「好きだよ、楓くん」
楓でいい、って流川くんは言ったけど、それはさすがにまだハードルが高い。そういえば、流川くんは初めからわたしのことを呼び捨てだったな、と思うとなんだかおかしくて小さく笑う。ふふ、と漏れた笑い声ごと飲み込むように、唇が重なった。