薄暗い部屋には血のにおいが充満していた。事切れた兵士の傍ら、壁に背を預けた姿を見て、は小さく息を呑んだ。首が可笑しな方向に曲がっている兵士の名こそ知らないが、顔には見覚えがある。瓜二つの双子の片割れだ。そして、もう一方は──

 足を踏み入れることを拒むようにたたらを踏んだ身体を叱責し、は男に駆け寄った。軍帽の下から鋭い視線がに向けられるが、戦場を見てきたせいか、それに身を竦ませるほど繊細な心は持ち合わせていなかった。
 は医者ではないし、ここは病院ではない。できることなどたかが知れているが、それでも命が消えていくのをただ見ているなんて、あまりに歯がゆい。

 用意していたたらいに張った湯に手ぬぐいを浸し、ぎゅっと絞って飛び出た腸を覆い隠す。男の手を退かせようとするも、頑なに腹部を押さえて動かすことができなかった。
 これだけの重傷を負っているというのに、力を込めることができるのか。

「まさに風口の蝋燭だな、杉元……」

 をこの場に呼びつけた鶴見が、目を細める。
 目の前の荒い呼吸を繰り返す男の口元が、ゆるく弧を描く。頬を貫通する竹串すら、意に留めていない様子である。

「助けろ」

 それは、怪我人とは思えぬ傲慢な態度だった。

「刺青人皮でもなんでもくれてやる」

 にやりと鶴見が笑う。はその顔に底知れぬ恐ろしさを覚えて、思わず目を伏せた。
 鶴見はにとってかけがえのない恩人だが、敬服しているわけではない。脳の損傷による影響なのか、時おり見える狂気じみた面は、の背筋を寒くさせてならない。

、杉元を死なせるな」

 そうして、鶴見の怒号のような指示が飛んだ。街で一番の病院に連れて行ったとして、この傷では助からない可能性もある──「万が一の時には、刺青人皮の場所を聞き出せ」鶴見の声が耳元に落ちる。





 担架に乗せられた杉元が馬の荷台に乗せられる。
 もまた兵士とともに馬車荷に乗り込み、杉元の大きな傷跡の走る閉じられた瞼を見つめた。「大丈夫です、頑張ってください」と意識が途切れてしまわぬように、声をかけ続ける。
 ふいに杉元の目が開いた。声を上げる間もなく、素早く立ち上がった杉元が、のすぐ傍にいた兵士を殴り飛ばした。あまりのことに、兵士が荷台を転がり落ちても、悲鳴すら出てこなかった。唖然と杉元を見上げていれば、手綱を握る兵士もまた馬上から引きずりおろしてしまう。

 重傷者の動きではなかった。「お、お身体に触ります」と、かろうじては喘ぐように言った。
 馬に跨った杉元が振り返るが、その視線はを見てはいなかった。はっとして後ろを振り返れば、馬に乗る鶴見が追いかけてきている。

「掴まってろ! アンタに危害を加えるつもりはないっ」

 手綱を掴んで、馬の速度をあげながら杉元が叫ぶ。背後に迫る鶴見の手には銃が握られているのが見えて、は身を低くして荷台にしがみつく。

 唐突に、鶴見の馬が崩れ落ちた。
 は驚いて屈めていた身体を起こしたが、鶴見に大事はなかった様子でそのまま駆け出すのが見えた。胸に沸いたのが安堵なのか憂慮なのか、にはわからなかった。



 町はずれで馬が止まる頃には、すでに追っ手の気配はなかった。邪魔でしかない荷台を外していくのだろう。馬から降りた杉元が近づいて、を見下ろす。
 飛び出た腸こそ偽装だったようだが、満身創痍であることに変わりはない。

「アンタはここに置いていく。悪かったな、巻き込んで」

 杉元がきまり悪そうな顔をして告げた。

 顔の傷がひどく凶悪な相貌にさせているが、には恐怖はなかった。杉元の記憶には残っていないのかもしれないが、は覚えている。戦時中に触れた彼のやさしさを知っている。

「……佐一さん」

 杉元が驚いたように目を瞠る。訝しむような視線を向けられるのは無理もないことだ。

「どこかで会ったこと、あったっけ?」
「昔のことです」

 は苦笑して、かぶりを振った。けれども、杉元は納得したように口を結んだ。の身なりや手際から、看護婦だと思い至ったのだろう。
 手際よく馬から荷台を外す杉元の背を、は黙って見つめる。

 不死身の杉元──ひどい怪我をしては病院の世話になっていたが、医者も驚くほどの回復力ですぐに戦場へ戻っていた。鬼神の如く戦場で戦うという彼は、病室で見る限りでは、とても誠実で驚くほどやさしかった。

「佐一さん、せめてお怪我の手当てをさせて頂けませんか?」
「いや、今は時間が惜しい。もう行かないと」
「……では、どうかわたしを連れて行ってください」

 は杉元の腕に手を添えた。引き留めるほどの力を持って掴むことはできなかった。
 杉元が狼狽えるのがわかって、は手を引いた。困らせるつもりはなかった。しかし、離れていくの手を杉元が掴んだ。

「乗って。急ごう」

 杉元が困惑を残しながらも、そう促した。は杉元の後ろに乗馬して、怪我に障らないように気を付けながらしがみつく。
 ──やはり彼は途方もなくやさしい。


 アイヌの少女に容赦なく棒で叩かれる杉元を前に、はどうすればいいのかわからなかった。けれど、叩かれるがままの杉元の傷が心配になって、は慌てて身を滑り込ませた。

「ま、待ってください。あの、佐一さんの手当てを、」
「……誰だ? おい杉元、女を作ってくるとは、捕まってた割りには随分と余裕じゃないか」
「お、女? いえ、わたしはそういうのでは」

 年端もいかない少女から紡がれる言葉とは思わず、はぎょっとする。杉元を殴っていた棒を振りかぶる格好のまま、少女が胡乱げにを見上げる。
 吸い込まれるような青い瞳を向けられて、はたじろぐ。
 杉元が庇うようにの前に立った。

「アシパさん、彼女は看護婦だ」

 ぱちり、とアシパが大きな瞳を瞬く。は屈みこんで、アシパと視線を合わせた。

と言います。どうか佐一さんの手当てをさせて頂けませんか?」

 アシパがようやく手を下ろした。「アシパだ」と、名乗る少女は毒気が抜かれたように、あどけない顔をする。

「では佐一さん、少し傷みますけれど、我慢してくださいね」
「えっ、やだ、痛くしないでぇ~」
「……、消毒液はこれか? 私がやろう」
「あッ、ちょ、アシパさ……痛っ! すんごい痛いんだけど、アシパさん! アシパさんっ、聞いてる!?」
「あ……ま、まずはお水で傷口を洗って、」

 アシパがジャバジャバと傷に向かって消毒液を振りかけるので、逃げ腰の杉元には涙目になっている。
 は慌てて水筒を取り出し、アシパの手を止めた。

、杉元にやさしくしてやる必要はないぞ。これはすべて自業自得だ」

 アシパが不機嫌そうに、杉元を睨みながら言った。杉元が頬に二本の串を刺したまま、ははと力なく笑った。それから、やさしい眼差しでアシパを見て、眉毛を下げる。

「そうかもしれませんね。佐一さんは、不死身だと自負して、無茶をしがちですもの」

 それでもはなるべくやさしい手つきで、傷口に触れた。病院と違って十分な設備も薬もないが、持ち合わせた生薬で気休め程度に鎮痛効果を期待する。「少し、堪えてくださいね」と、は杉元の頬を貫通する竹串を慎重かつ素早く抜いた。
 塞がれていた小さな穴から血が滲み出てくるので、清潔なガーゼを押し当てる。
 何かを言いかけた杉元の唇に、は人差し指を押し当てた。

「ごめんなさい、今は口を動かさないで」

 もの言いたげな瞳がを見るが、それには応えずに手を動かす。傍で見ているアシパがちょっかいをかけることはなかったが、やはり不機嫌そうな顔で杉元を睨んでいた。
 けれど、すべての治療を終えた頃には、アシパの怒りも不機嫌も治まった様子だった。

「まったく、仕方ない奴だな。杉元は」

 ため息交じりに言って、小さな手が杉元の背を叩く。「いて」と、ほぼ反射的に声を上げた杉元の顔は、穏やかな表情でアシパを見やった。そして、少しだけ緊張した様子でに向き直る。

、さん。その……ありがとう」
「いいえ、佐一さんのお力になれたのなら、よかったです」
「それで、さんはこれから……」

 アシパが杉元の脛を蹴る。そして、手には先ほどの棒が握られている。

「おい、まさかこんなところに放り出すつもりか? 無責任にもほどがある」
「いえ、いいのです。わたしのことはお気になさらず、捨て置いて構いません。無理を承知で付いてきたのは、わたしですから」

 ぎゅう、とアシパが眉間に皺を刻んだ。
 散らかした道具を片付けるの手首を、杉元の手が握った。

「アシパさんの言う通りだ。危険だとわかっていたのに、さんを巻き込んだ」

 杉元の真摯な視線が、苦悩するようにふっと逸らされる。は握られた手に、もう一方の手を重ねて、杉元の顔を覗き込んだ。

「わたしが望んだのです」
「……さん」
「佐一さんと一緒にいても、よろしいのですか?」

 は杉元の事情を詳しくは知らない。何故、杉元が鶴見の元で怪我を負っていたのか、そして鶴見の言う刺青人皮とは何なのか、知らないのだ。杉元が逸らした視線を戻して、の手を握り返した。

「危険だよ?」
「それでも、わたしは佐一さんのお傍にいたいのです」

 は念を押すように言って、杉元を見つめた。
 もう二度と会うことはないと思っていた。こうしてまみえたのは、にとっては僥倖である。杉元が、再び視線を外した。その頬がかすかに赤みを帯びているのは、寒さのせいだけではないようだった。

がいれば、多少の怪我をしても安心だな! 杉元」

 アシパの笑顔につられるように、杉元も小さく笑みをこぼした。

「じゃあ、よろしく。さん」

 はほっと息を吐いて、「はい」と頷くと微笑みを返した。途端に杉元が不自然に視線を逸らした理由を、は知らない。

誰もいない

(いないと知ってなお、でもようやくあなたを見つけられた)