じりじりと肌を焦がすような日差しと、蝉の鳴き声に、ははたと気づく。最近雨に降られないと思ったら、どうやら梅雨が明けていたらしい。
 ──夏はあまり好きではない。
 まず、夏という文字を見たくない。どうしたって、夏油傑を思い浮かべてしまう。そして、毎年好きでもない向日葵を見に行った記憶が蘇って、げんなりする。夏になったことに気づいてしまって、は少しうんざりした気持ちになった。

 仕事に追われていると、あまりにそれ以外に関して頓着がなくなる。それこそ、季節の移ろいにも気づかないほどに。
 別にそれを誰に咎められるわけでもないので、は今さら直す必要もないと思ってはいる。

「……それで、傘を持ち歩いていたわけですか」

 七海に心底呆れたふうに言われて、はさすがに少しまずいかな、と考える。
 というか、日傘ではなく雨傘を持っていることに気づいていたのなら、突っ込んでほしかった。そうしたら、もっと早くは夏を認識できただろう。

 けれど、七海を責めるのはお門違いである。
 は曖昧に笑って、食後のコーヒーを口にした。ファミレスの、どこにでもあるような特徴のない苦味が喉を通っていく。美味しいという感動はないけれど、代わり映えのないこの味は、を日常に引き戻してくれるような気がしている。

「もう少し、しっかりした方だと思っていました」
「……」

 七海が小さくため息を吐いた。
 は空になったカップの底から、七海の顔へと視線を移す。
 視線が合わないまま、七海がジャケットを掴んで、伝票を手にして立ち上がる。その流れるような動作を、はただ目で追いかけた。

「出ないんですか」
「……いいえ、出ます」

 遅れて席を立つを、七海は先に行かずに待ってくれている。

「七海さんは、」

 はその先の言葉を一旦飲み込んだ。七海が無言のまま、目線だけでを促す。
 先ほどの七海の言葉を借りるのなら「もう少し、冷たいひとかと思っていた」のだが、それを正直に伝えるのは憚られた。

「見た目に違わず、しっかりしていますね」

 七海が眉をひそめる。
 としては、咄嗟に褒めたつもりだったのだが、何か気に障ったのかもしれない。

 は、七海をよく知らない。
 五条の後輩で、社会人経験のある一級呪術師で、時間外労働が嫌い。それらは七海について、知っていて当然のことばかりである。仕事終わりにこうして食事に付き合ってくれたり、必ず家まで送り届けてくれるのは、七海のやさしさなのか、仕事仲間としての義理なのかすら、には判別がつかない。
 はっきりとわかるのは、五条にはない気遣いだということだけだ。

「行きますよ」

 素っ気なく言って、七海がさっさと歩き出す。けれども、に合わせたその歩幅が、やはりやさしいのだ。
 は七海の背中を見つめる。

 七海はきっと、を置いてはいかない。

 ぼんやり立ち尽くしていると、七海が立ち止まって振り返った。「何してるんです」と、七海がの手を引いた。

「夏だと気づいた途端に、夏バテですか?」

 ふ、と七海が小さく笑った。
 七海にからかわれたのだと気づいたのは、会計を終えて、ファミレスの外に出てからだった。手が繋がったままであることにも気づいて、急に恥ずかしくなる。体温が上昇したのは、クーラーの効いたファミレスから出て、ぶわりとした熱い外気に包まれたせいだけではない。

「七海さ、」

 ぐいっ、と手を引かれて、抱き寄せられる。のすぐ傍を自転車が走り抜けていった。

「大丈夫ですか」
「あ、はい、ありがとうございます」

 七海の手が、ひどく自然に離れていく。
 は俯いて、触れていた手で頬を覆う。熱いのが、頬なのか指先なのかわからない。

さん? ……まさか、本当に夏バテですか」

 腰を屈めた七海に顔を覗き込まれて初めて、は彼の長身に気づく。そうして、サングラスの奥にある瞳がはっきりとわかるほどの近さであると、何故だが妙に意識してしまう。
 は呆然としながら「いいえ、平気です」と首を横に振った。

 怪訝そうな顔をしつつも、七海がひとつ頷いて、首元のネクタイを緩める。「送ります」と、その一言は、いつも通り平坦な声音をしていた。



 食事でも、と七海と初めて一緒に仕事をした際に言われ、は咄嗟に近所のファミレスを思い浮かべて、何も考えずにそれを口にした。
 どうせ一度きりだと思ったからだったが、の思惑は外れてしまった。七海と仕事を共にするたび、こうしてそのファミレスに来ている。学生じゃあるまいし、もっとおしゃれな店を思いつけばよかった、とは七海と食事をするたびに思う。たまには違う店でも、と思うのだが、七海がの家の近くでと言うので、思いつかずに結局同じファミレスに足を運ぶ。

 安易に近場を選んだばっかりに、ファミレスからの住むアパートまで、七海は徒歩で送り届けてくれる。この道を並んで歩くのも、慣れたものだ。
 必ず車道側を歩いてくれる七海を、はちらりと見やる。

 緩んだ襟元から、男らしい喉仏が覗いている。七海のことを“呪術師”としか認識していなかったせいで、男女の差異がやけに目につく。
 七海に視線を気取られる前に、は目を伏せた。

 の手を掴んだ七海の手は、大きかった。触れた胸板は硬かった。の身体をすっぽりと覆えるほどに、七海の背は高い。
 ふと、よく車を出してくれる伊地知を含めた三人で食事をしたことはない、という事実には気づく。

さん、どこに行く気ですか」

 ふいに、七海がの腕を掴んだ。

「どこって、」
「アパート、通り過ぎますよ」

 七海がため息を吐く。
 くい、とサングラスを押さえる指先を目で追って、は七海の瞳に視線を吸い寄せられる。

「七海さん、海に行きませんか」
「…………は?」

 七海の眉間にぐっと皺が刻まれる。「夜の海に、ですか」と、問う七海の声は、困惑していたし呆れていた。

「いえ、夜の海はやめておきましょう。嫌な感じがしますから」
「というと?」
「お休みの日に、明るい海を見に行きませんか」
「…………」

 七海が眉間を指先でほぐし、サングラスを外した。思えば、裸眼を目にするのは初めてかもしれない。

「次の休みはいつですか」

 断られるとばかり思っていたので、七海の言葉を理解するのには数秒を要した。慌てて取り出したスマホを落としそうになって、の手ごと七海がキャッチしてくれる。
 七海が画面を確認して「……ではこの日に、迎えにきます」と、素早く予定を入れた。

 十時~七海建人。
 は打たれた文字を視線でなぞり、それから七海を見た。

「おやすみなさい、さん。お疲れ様です」
「あ、は、はい。お疲れ様さまでした」

 軽く会釈をし合うのは、いつも通りだ。けれど、スマホを確認すると、カレンダーにはしっかりと予定が記されている。はそれを見て、夢ではないのだと実感した。

「お茶でもどうぞ、って言うべきだったかな……」

 後悔はいつだって後からやってくるのだ。





「へー何それウケる」

 五条がメニュー表から目を逸らさぬまま、興味がなさそうに言った。五条にやさしい言葉など期待していないは、そんな態度を気に留めることもなく続ける。

「どうかしてますよね。七海さん、見たことない顔してました」
「ふーん、どんな?」

 五条がようやく顔をあげた。は七海のように眉間に皺を寄せてみる。

「七海のそれはフツーだよ」
「五条くんにはそうかもしれませんね」
「……」
「明日が約束の日なんですけど、何を着ていけばいいと思いますか?」

 七海とプライベートで会うのは初めてである。自分から誘っておいてなんだが、想像がつかなかった。

の好きにすれば? べつに、恋人の好みに染まりますってタイプじゃないでしょ」

 五条がにべもなく言って、頬杖を付く。
 いかにものことを理解してます、という体が気に食わない。

「五条くん、それは違います。七海さんとはまだ恋人ではありませんし、好かれたいと思うから着る服に悩むんです」

 五条はなまじ顔がいいだけに、女心をひとつも理解しようとしない。気遣いに欠けようとも、女性には不自由しないせいだろうか。
 す、と片手を上げたかと思えば、五条がウェイトレスに注文を済ませる。自分のパフェと、の分のコーヒーを頼んで、メニュー表をテーブルに放った。そうしてソファにふんぞり返る様は、実に尊大げだ。

「まあ七海なら、僕ほどではないにしろ優良物件だし? 浮いた話のひとつもないにはいいんじゃない?」
「五条くんが優良物件? わたしにしてみれば、事故物件ですけど」
ちゃん? 何言っちゃってんの?」
「もう茶番は結構なので、七海さんの好きそうな服装だけ教えてください」

 五条が片眉を跳ね上げ、組んだ足を組み替える。

「七海の好みねぇ……」

 五条が考えるそぶりをする。しかし、たっぷり間を空けたのち「僕が知るわけないでしょ」とにっこり笑われて、は思わず拳を握りしめた。


「ま、心配いらないって。は何着ても可愛いよ」

 ひらひら、と片手を振って五条が「んじゃ、おつかれー」と去っていく。五条との仕事は基本、現地集合現地解散である。
 は小さくため息を吐く。無駄な時間だった。







 夏油傑の幼なじみ──そう聞いて、七海は明らかに嫌だという顔をしたし、「お断りします」とはっきりと口にした。しかし、そんなものが五条に通じるわけもなかった。あれよあれよという間に、七海の前にはその幼なじみが立っていた。

「すみません、五条くんがご迷惑をおかけします」

 丁寧に頭を下げる姿を見て、七海は考えを改めた。五条と違って随分と“まとも“である、と思ったのだ。
 五条より三歳年下でありながら彼を五条くんと呼ぶのは、彼の後輩ではない証拠だった。と五条の関係は、幼なじみの親友であり、親友の幼なじみなのである。

「慣れてますので。初めまして七海です、よろしくお願いします」

 顔をあげたがほっとしたように笑みをこぼしたのを、七海は何故かよく覚えている。


 約束の時間ちょうどにチャイムを鳴らせば、パタパタと慌ただしい足音と共にドアが開いた。
 いつもの動きやすそうな格好とは打って変わり、ふわふわとしたワンピース姿である。「七海さん」と、そう呼ぶの声がわずかに上ずっている。

「おはようございます、さん」
「あ、お、おはようございます」

 いつもはひとつに結ばれている髪が、会釈に合わせて肩を滑る。

「何だか緊張しちゃいます」

 が頬をうすらと染めて、はにかむ。
 これまで仕事で何度も顔を合わせているというのに、まるで別人のように柔らかい雰囲気を纏っている。これが彼女の本来の姿というのなら、抜けたところがあるのも納得がいく。今のに対して、しっかりしている印象は受けない。
 七海とて、戸惑いを覚えるし、緊張もしている。

 ふと、昨夜突然家を訪ねてきた五条の言葉が脳裏を過ぎる。「クソ真面目に仕事ばっかりしてると思ってたけど、案外仲良くやってたみたいだねぇ」と、ニヤつくその顔まで浮かんでしまい、七海は脳内で力一杯引っ叩いた。

 助手席のドアを開けたところで、がぽかんと立ち尽くしていることに気づく。

さん?」
「あっ、いや、海に行きたいって言っておきながら、移動手段を考えていなかったというか……七海さんに運転してもらおうなんて思ってもいなかったので、びっくりしてしまって」
「あなたは本当に……しっかりして見えて、抜けていますね」

 う、とが言葉を詰まらせる。

「乗ってください」


 車を走らせていると、がうつらうつらとしていることに気づいた。昨日は五条と仕事だったようだし、疲れているのだろう。

「寝ても構いませんよ」

 七海が言えば、が慌ててかぶりを振る。

「そんな、助手席で眠りこけるわけには……!」
「疲れているんでしょう」
「緊張して眠れなかった、だけ、……です」

 の声が尻つぼみになっていく。恥ずかしそうに俯くを横目で見て、七海は小さく笑った。

「穴があったら入りたいです……」
「そうですか、穴がなくてよかった」
「うう……」

 が赤くなった顔を両手で覆う。ちらりと見えた耳が真っ赤だった。

「そ、そういえば! 七海さん、下のお名前は建人さんというんですね」

 気を取り直すように、が声を張る。
 どうやら、眠気はどこかへと飛んでいったらしい。

「知らなかったんですか」
「すみません……七海さんは、わたしの名前わかります?」

 七海はあえて、に視線を向けなかった。ハンドルを握る手に、わずかに力がこもる。

さん」

 七海がその名を口にするのは、初めてだった。
 左側からの視線を感じるが、七海は運転に集中するふりをして、前を向き続けた。クーラーはしっかりと効いているはずなのに、じわりと手に汗が滲む。

「イケボの破壊力、とんでもないですね……」

 が何やら小さく呟いて、窓の外へと顔を向けた。
 七海は視線が外れたことに安堵し、無意識に強張っていたらしい肩の力を抜いた。ハンドルを握り直す。

 海は、もうすぐそこだった。


 時期が時期とはいえ、平日の昼間のビーチに人影は少ない。潮風を受けて、のワンピースの裾がはためき、髪がなびく。

「やっぱり、夏は海ですね」

 つい最近まで梅雨明けにすら気づいていなかった人の台詞ではない、と思いながら、七海は目を眇めた。
 砂浜に足を取られながら海辺へ寄ったが、振り返って七海を手招きする。「七海さん!」と、いつになくはしゃいだ様子で、声が弾んでいた。

「あまり近づくと濡れますよ」
「大丈夫です。それに少し濡れたって、すぐに乾きます。こんなに晴れているんですから」

 が楽しげに笑って、サンダルを脱いだ。ちゃぷり、と小さく音を立てて、海へ足を踏み入れる。
 波に足を取られたら手を差し出せるよう、七海は少し離れた位置に立ってを見守る。足先が時折波に触れて、砂が纏わりつく。不快だが、これ以上離れたくはなかった。

「……毎年、夏になると、夏油くんは向日葵畑にわたしを連れて行きました。わたしは海が見たかったのに」

 の声は、ほとんど波の音に紛れていた。
 ふいにがよろけて、七海はその手を咄嗟に掴む。靴が濡れる感触がしたが、七海は構わずを抱きとめた。

 がおもむろに顔をあげた。近い位置で視線が交わる。

「七海さんといると、わたしはいろんなものを蔑ろにしていたことに気づきます。ずっと一緒にいた夏油くんにもちゃんと向き合わなかった。海に行きたいって、言えばよかったんですよね」

 ぎゅ、とが七海の手を握りしめる。

「夏油くんのこと、好きでも嫌いでもなかったんです。ただ、ずっと近くにいたし、このまま一緒になるんだろうなって漠然と思ってました。わたしの人生なんて、どうでもよかった」
「……、」
「わたしは自分のことも大事にできなくて、でも、七海さんは……」

 が目を伏せた。瞬きのたびに、睫毛がわずかに上下する。その動きは忙しない。
 繋がった手から、の緊張が伝わってくる。七海はを見つめて、ただ言葉を待った。

「わたしの目を見て、わたしのくだらない話に耳を傾けてくれて、わたしの手を取って、わたしのために足を止めてくれる」

 の顔が次第に俯いていく。髪の合間から見える耳が、赤い。「そのことが、すごく、うれしいって気づきました」と、が蚊の鳴くような声で告げた。
 七海は込み上げた衝動をそのままに、の身体をきつく抱きしめた。

 は無頓着がすぎる。
 周囲は、が思うよりずっと、彼女を大事にしている。
 あの五条が、のために時間を割いて、仕事を共にしているのが何よりの証拠である。不真面目ではあるが、五条は腐ってもたった四人しかいない、特級呪術師の一人なのだ。

 夏油の幼なじみ。七海にとって、嫌な記憶を呼び起こす存在だと思っていた。けれど──

「当たり前です。私はアナタを愛してますから」

 打ち寄せた波が、七海の靴はおろかスラックスの裾までもを濡らす。けれど今は、そんなことなど些細なことだった。

「七海さん、濡れて……」
「すぐに乾くと言ったのは、さんでしょう」

 はっと顔をあげたの頬に手を添えて、七海は身を屈めた。確かめるように、至近距離での瞳を覗き込めば、ゆっくりと瞼が伏せられる。
 唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬だった。

 唇が離れると同時に、七海の腕を抜け出したがくるりと背を向けた。

さん」
「は、はい」
「こっちを向いてください」
「ま、待って、なな」
さん」

 びく、と跳ねた肩を掴んで、引き寄せる。「ず、るいです」と、恨めしげに七海を見上げた顔は、真っ赤だった。
 七海は笑みを堪えきれず、小さく吹き出す。

「よろしければ、さんもぜひ“建人”と呼んでください」

 幼なじみであった夏油ですらもなれなかった、彼女の特別になりたい。
 夏になれば、いくらでも海に連れて行こう。

 赤くなった頬に手を這わせば、手のひらにその熱が伝わってくる。が目を逸らした。

「恥ずかしいので、顔、見ないでください……」
「わかりました」

 七海は頷いて、を腕の中に閉じ込める。「これなら、顔は見えません」と、七海が言えば、が黙って背に手を回してくる。
 可愛いひとだ、と無意識に呟きが落ちて、の手が軽く七海の背を叩いた。

嫌いです

(でも、あなたとなら夏を好きになれる気がします)