シャワーを止めて、ため息を吐く。
流れてくる水滴が鬱陶しくて、閉じた瞳を開ける気になれなかった。疲れた、と口に出すのは容易い。けれど、同じようにループを繰り返すセツを前にして、弱音を漏らすことは憚られた。
あと何度、繰り返せばいいのだろう。答えのない問いが、頭の中をぐるぐると回って離れてくれない。
ふいにシャワールームのドアが開いた。湯気が外へ逃げていくのと同時に、冷たい空気が肌を撫でるのがわかった。ドアを開けたつもりのないは、不思議に思いながら目を開ける。
「あ……」
引きつれた声にふさわしい、怯えた顔がそこにはあった。
ぱち、ぱち、と瞬きをするたびに、睫毛の先の雫が頬に落ちていく。は呆然と、レムナンの赤くなったり青くなったりする顔を見つめた。
次第に湯気が消えていく。
「あっ、えっ、っきゃ……!」
はようやく状況を理解して、慌てて背を向ける。焦り過ぎたせいで足が滑って、身体が後ろへ傾いた。「危ない!」と、レムナンにしては大きな声が、シャワールームに響いた。
「だ、大丈夫、ですか……?」
「…………」
不安げな声が、の耳朶に触れる。
首をわずかに捻るだけで、レムナンの顔が確認できた。ただ、レムナンの目はぎゅうと閉じられていて、視線が合うことはなかった。
背中に触れるレムナンの服が、濡れていくのを感じる。
「す、すいません……いつも……は、誰も……いない、ので……」
「い、いえ、ロックし忘れたわたしが悪いんです」
目を閉じたままのレムナンが、に手を貸して体勢を整えてくれる。その手が震えていることに気がついて、は申しわけない気持ちになる。にも、レムナンにとっても、不幸な事故だった。
「ハプニングの予感だZE!」
慌ててロックしたドアの向こうから、楽しげなSQの声が聞こえた。
「あり? 大きな声が聞こえた気がしたのに……おーい、誰かな?」
「……です」
「? おひとりサマかにゃ?」
「そうですけど……」
声に動揺は現れなかったが、密着した身体はびくりと震えてしまった。
はちら、とレムナンの様子を窺う。レムナンもの様子を窺うように薄目を開けていて、図らずも目が合ってしまった。
「……、」
レムナンの顔が泣きそうに歪む。だって泣きそうな気持になった。
「ちえっ、じゃあSQちゃんはお暇するのです」
つまらなそうな呟きとともに、足音が遠ざかっていく。ドアが開いて閉まる音を確認して、は肩の力を抜いた。ほっと吐き出した息が二の腕に触れたせいか、びくっ、とレムナンの身体が跳ねる。
はそうっとレムナンを見上げた。
いつも伏し目がちなせいでよく見えない瞳だが、これだけ近づけばその色さえもよくわかった。
「えっと、離れますね」
「は、はい……」
の言葉に、レムナンがぐっと目を瞑る。眉間の皴がレムナンの苦痛を表していて、は自責の念に駆られる。ドアをきちんとロックしてさえすれば、こんなことにはならなかった。
は急いでバスタオルを身体に巻きつけた。
「ごめんなさい、わたしのせいで」
レムナンの服が、しっとりどころかしっかり濡れてしまっている。「わたしは出ますから、ここを使ってください」と、レムナンと立ち位置を変えようと足を踏み出す。
「えっ……!?」
「え?」
驚きの声を上げたレムナンに、もまた驚いて首を傾げる。
信じられないと言わんばかりにを見つめた竜胆色の瞳が、さっと伏せられる。レムナンの白い頬が、見る間に赤く色づいて、耳までもが紅潮した。
「、さんの……あとは、ちょっと……」
もじもじと告げたレムナンが「すいませんっ」と、隣のシャワー室へと飛び込んだ。とんだ言い逃げである。
しばし、呆然と立ち尽くしたは、湯冷めしてしまった。踏んだり蹴ったりな目に遭ったおかげで、止まることのなかったマイナス思考はどこかへ飛んでいた。
「大丈夫?」
小さくくしゃみをしたの顔を、セツが心配そうに覗き込む。
セツの手が額に伸びた。少し恥ずかしかったが、は目を閉じてそれを受け入れる。セツのやさしさは、身も心も軽くしてくるような気がした。
「熱はないみたいだね」
「うん」
「でも、無理は禁物だ。今日は早く休んだほうがいい」
「うん……」
じっとルビー色の瞳に見つめられて、はぎこちなく頷く。メインコンソールに集っていたひとはもう思い思いに動き出していたが、さすがに照れ臭い。
「……あ、の……、さん…………」
あまりに小さな声に、はセツと顔を見合わせた。
レムナンが不安そうに、そわそわと視線を彷徨わせる。待てど暮らせど、その先の言葉が続きそうにもなくて、セツが苦笑を漏らした。
「レムナン。悪いが、を部屋まで送ってやってくれないか? 少し体調を崩しているみたいなんだ」
レムナンがはっと息を呑んで顔をあげた。目が合ったのも気のせいかと思うくらい、レムナンの瞳はすぐに伏せられた。
こくり、とレムナンが小さく頷く。
「では、お願いします」
気を利かせてくれたセツにも礼を言って、レムナンと一緒に廊下に出る。D.Q.O.の廊下は、二人並び歩いても問題のない広さだが、レムナンはの半歩ほど後ろをついてくる。
物理的な距離から、心理的な距離を感じる。この距離は、きっとなかなか縮まらない。
レムナンの生い立ちを思えば、仕方のないことだろう。一方的に相手の事情を知っているというのは、何だかいけないことをしているようで、居た堪れない気持ちになる。いつか、ループを終えたとき、セツ以外のみんなとどんな関係でいるのか考えるのが怖い。
ばかりが、みんなの新たな一面を知っていく。みんながを知ってくれることはない。
──でさえも、自分を知ることができない。
体調を崩しているから、思考が悪いほうへ向いてしまうのだろうか。気持ちが沈んでいって、自然と視線も下を向いた。
「さん、」
「あ……は、はい。すみません、すこしぼーっとしてました」
「……僕の、せい……ですよね」
「えっ」
は思考が読まれたのかと錯覚した。
「風邪を……引いて、しまった……んです、よね……」
レムナンが気まずそうに、フードに口元を埋めた。は瞳を瞬く。
「……すいません…………」
レムナンが項垂れる。
は、柔らかそうな白銀の髪を見つめる。それから、剥き出しの肩から二の腕へ視線を移しす。色白で線が細いが、骨張ったそれは確かに男性のものだとわかる。
もう一度、レムナンの頭を見上げる。肩を落としてこうべを垂れようと、よりも目線が高い。
レムナンは、男だ。そんな当たり前のことを、急に、まざまざと突きつけられるようだった。
「謝らないでください。今朝のことは、忘れましょう。お互い、不注意が招いたことですし、どちらが悪いというわけでもありません」
「わっ、忘れ、……られ、ないです……」
レムナンが声を振り絞る。ぎゅ、とレムナンが目を瞑って、ますますフードに口を隠す。
「すいません! ぼ、僕は……最低、です……っ」
走り去るレムナンを、は呆然と見つめる。
忘れられない。
何故、とは首を捻る。異性との関わりを苦手とするレムナンにとって、シャワールームの出来事はラッキースケベでもなんでもなく、トラウマを刺激する一件だったに違いない。そのため、忘れたほうが互いにとって身のためだと思ったのだ。
もしかして、忘れられないほど、衝撃的なものを目にしたのだろうか。
は胸元に視線を落とす。そこにSQほどの肉感はない。
「……あれ、。どうしたの? レムナンは?」
不思議そうに首を傾げるセツに対し、答える言葉をは持っていなかった。
自室で、改めてレムナンの情報を確認する。
銀の鍵が求めているものが何なのかはよくわからないが、レムナンに関する情報はすでに集め終えている。まだ、知らない一面があるのだとして、それを知っていかなければならないのだとしたら──
は、ベッドに身体を投げ出して、目を閉じる。
正直言って知りたくないと思う。が何より知りたいのは、自分自身のことである。もう幾度もループを繰り返しているのに、記憶が戻る気配がない。グノーシアと戦う恐怖と、記憶喪失である不安が、に付き纏って離れてくれない。
「あ……あの、……さん……」
空耳かと思うほど、かすかな声量だった。はおもむろに身体を起こす。
「レムナン? どうし」
「訂正、します。僕は、……僕、は」
言葉を遮られると思っていなかったは、目を丸くする。
常のレムナンからは考えられない。よもやグノーシアか、とは怪訝に思いながらドアを開けた。レムナンはすぐそこに立っていた。
顔をあげて、は言葉を失う。
「忘れたくないんです」
真っ赤な顔をしたレムナンが、はっきりと告げる。瞳が真っすぐを見つめていた。
──こんな、レムナンは知らない。
「……突然、すいません。……ゆっくり、休んで……ください」
レムナンがぎこちなく微笑む。
フォン、と音を立ててドアが閉まってもなお、はその場から動くことができなかった。
コツン、とドアに額を預けると、その冷たさが伝わってくる。レムナンの熱が伝染したのかはわからない。ただ、鏡で顔を確認しなくたって、先ほどのレムナンにも負けないくらい赤面していることはわかる。
思わず胸を押さえると、ドキドキしていた。
「……え?」
こんなふうになる自分だって、は知らなかった。