「やあ! 無理を言ってすまないね、くん」
オールマイトの為ならば、無理だって何だってすると言いたいところだったが、は俯きがちに「いえ」と小さな声で答えた。明かに気乗りしないの肩をぐっと抱き寄せて、オールマイトが満面の笑みを向けてくる。
「そのドレス、すごく似合っているよ!」
「……エンデヴァーさんが用意してくださって」
身体のラインが拾われすぎている気がしたが、着ないわけにはいかなかった。
マーメイドラインのパーティドレスはのために誂えられたようで、サイズもぴったりな上、背中が大きく開いて羽根を潰すことがない仕様だ。そして、深いスリッドのおかげで尾も窮屈ではない。
髪も化粧もパーティのために整えたが、眼鏡だけは外せないため、やや滑稽な格好になってしまった。
できればパーティへの参加も避けたかった。オールマイトの頼みを無碍にできるわけもなく、はこうして会場に足を運ぶに至ったのだ。
オールマイトの隣にいるだけで、視線を集めてしまっているのを感じて居心地が悪い。肩に乗ったオールマイトの手をやんわりと払い、は眉尻を下げる。
「相澤くんにも悪いことをしちゃったね」
「え?」
「こんなに美しいくんを、私が独り占めだなんて、申し訳ない」
オールマイトの指先が、の眉毛をなぞる。「華やかな場で、華やかな格好で、そんな顔は似合わないよ」と、歯を見せて笑う。
「ただでさえ、こういう場は苦手なんです。知っているでしょう」
「そう言わずに、ほら笑顔笑顔」
今度はの両頬を指先が押し上げる。仕方なく、はぎこちなくも微笑んだ。
オールマイトがぐっと親指を立てる。
「驚いた。オールマイトがこんなに綺麗なお嬢さんを連れているとは」
「デイブ。ああ、紹介しよう。彼女はくん、元プロヒーローで雄英高校の看護教諭をしているんだ。くん、私の親友の……」
「はじめまして、さん。デヴィットだ」
柔らかな笑みと共に右手を差し出される。
デヴィット・シールドだとすぐにわかって、は緊張しながらその手を取った。
「と言います」
「はは、そんなに緊張しなくても。どうかパーティを楽しんで」
ぽん、との肩を軽く叩くと、オールマイトと視線を交わして離れていく。個性の研究の一人者で、オールマイトのアメリカ時代の相棒──オールマイトと同じく、ひどく気さくだ。
は緊張のあまりじんわりと滲んだ手汗に気づいて、ハンカチで拭き取る。己の体液は容易く他者に触れていいものではない。
「くん」
ウエイターから受け取ったシャンパンを、オールマイトが差し出してくれる。
「デイブの言う通り、パーティを楽しもう」
そう言って掲げられたグラスに、はそっとグラスを合わせる。
満足そうに笑みを深めたオールマイトの手が、自然な仕草で腰に回されるが、振り払う気にはなれなかった。パーティのパートナー役を引き受けた以上は、オールマイトの隣で微笑みを浮かべるべきだろう。
はさっと視線を会場内に向けるが、轟の姿は見つけられなかった。
I・アイランドで行われる博覧会I・エキスポのプレオープンに招待されたエンデヴァーに頼まれ、代理で来た轟の付き添いをは任されている。オールマイトに呼び出され先に会場に来たのだが、轟もパーティに参加する予定だったはずだ。
「乾杯の音頭とご挨拶は、来賓でお越しいただいたNo.1ヒーロー・オールマイトさんにお願いしたいと思います」
司会者の言葉に、はオールマイと顔を見合わせる。拍手が喝采する中、出ていかないわけにもいかないだろう。
「デイブ、聞いてないぞ……」
少し恨みがましいような声音だったが、デヴィットの方は肩を竦めるのみだ。「行ってくるよ」と、オールマイトが壇上に足を向ける。
マイク越しのオールマイトの声を聞きながら、は再度会場内を見回した。
悠長にしていられたのはそこまでだった。
壇上のオールマイトや会場内のプロヒーローが拘束される中、もまた床上に倒れ込んだ。慌ててオールマイトを見る。オールマイトが拘束具を壊してしまわないのは、ヴィランがI・アイランドにいる全人口を人質に取ったためだ。オールマイトが首を横に振る。
「焦凍くん、どこに……」
彼の個性は強いとはいえ、まだヒーローの卵だ。万が一何かあったら、エンデヴァーにも相澤にも顔向けができない。傍にすらいてあげられないなんてあまりに歯痒い。
視線を巡らせながら、は雄英高校の生徒が誰一人見当たらないことに気がついた。
まさか無茶をしているのでは──の背筋を冷たいものが伝った。
の個性はサキュバスである。分厚い眼鏡はの意思と関係なく、催淫してしまう瞳を隠すためだ。視線を合わせる必要はない。ただ瞳を見られるだけで惑わせる。ここで眼鏡を外しても、ヴィランだけをどうにかできる便利な能力ではないのだ。
はプロヒーローだったけれど、戦いは得意ではない。
ちら、とオールマイトを窺うと、屈強な肉体からほんのわずかに湯気のようなものが見えた。
デヴィットとその部下が、ヴィランに連れ去られて暫く経った。
オールマイトの活動限界が近い。だいじょうぶ、とオールマイトの唇が動くのがわかった。けれど、大丈夫じゃないことは明白だった。
眼鏡のレンズの下、涙がにじむ。
ふいに、拘束具が壊れた。は素早く立ち上がって、オールマイトに駆け寄った。壇上のオールマイトはすでに立ち上がっていた。
「オールマイトさん!」
背の高いオールマイトが、に合わせて腰を屈める。
唇が合わさる。舌先が触れ合うが、そこにいやらしさなど一切なかった。
「ありがとう。力が湧いてくるよ」
「行ってください!」
が言い終える前に、オールマイトの姿は消えていた。
激しい音と揺れが上階から聞こえてくる。
会場内のヴィランはヒーローたちがあっという間に制してしまった。は上に向かいながら、そこに轟がいるのだと確信めいたものを感じていた。ヒーローを目指す者として、このような状況で大人しくできるわけがない。
高いヒールが邪魔になって、は靴を脱ぎ捨てて走る。幸い、元プロヒーローと名乗れる程度には身体を鍛えている。そこ彼処に戦いの後が残っているが、生徒たちの姿はない。それに安堵すればいいのか、生徒たちの個性と思われる痕跡に怒りを覚えればいいのか、にはわからない。
爆音が聞こえて、ひどい揺れが起こる。はよろけて壁に寄り掛かった。
静かにならないのは、オールマイトが苦戦しているということだろうか。活動限界が近かったとはいえ、ただのヴィランならば一撃で終わるはずだ。
不安が募る。は深いスリッドを更に引き裂くと、速度を上げて屋上へと急いだ。
「オールマイトさん……!」
屋上のドアは開け放たれており、飛び込んだ先には信じがたい光景が広がっていた。ひび割れた地面に、視界を覆い尽くすほどの金属の塊や、柱。何より、あのオールマイトが押されている。
金属を操る個性だとしても、規模があまりに大きすぎる。
「てめっ、なんでここに……!」
「爆豪くん? あっ、焦凍くん、やっぱりここに居た!」
轟の一張羅は見るも無残に破けて、上半身の左側が露わになっている。は轟の剥き出しの肌に手を這わし、大きな怪我がないことを確認して息を吐いた。
小綺麗な顔を引っ叩きたい衝動を抑えて、は「馬鹿!」と声を張り上げた。
「お願いだから、危ないことばっかりしないで! 心配になるでしょう」
「……悪い。けど、今はそれどころじゃ」
「わかってる、後でもっと怒る。爆豪くん、腕見せて」
ボンボン爆発させている爆豪の格好もまた、ひどい。「あァ?」と態度はひどいものの、をまるっと無視しないあたり、やはり真面目だしやさしい。
どう見ても個性の使いすぎである。手のひらが相当痛むはずだ。
「みんなして無茶しすぎだよ。後で怒るからね……っ」
は爆豪の手のひらに、唇を押しつけた。生徒たちだけで、なんとかしようとしていたのだと思うと、自分の情けなさに目頭が熱くなる。
「来るのが遅くなって、ごめんね」
爆豪があからさまに目を逸らし、舌打ちをする。
の腕を引いて、自分の背に押しやったのは轟だ。これではどちらが保護者なのかよくわからないではないか。堪らず踏み出した足はしかし、大きな揺れによって止まり、は思わず轟の背にしがみついた。
華奢だと思っていたけれど、目の前の背中は存外広い。そして、肩周りの筋肉の隆起が手のひらに伝わってきて、は慌てて手を離した。
「あっ、ごめんね」
「あんたの個性は戦い向きじゃない。俺の後ろにいろ」
「そ、そういうわけには」
いかないよ、と言い終える前に、轟の顔は前を向いていてすでに後頭部しか見えない。ちら、と一瞥をくれた爆豪が金属の塊に向けて爆発を放つ。爆風がの前髪を揺らした。
峰田の頭部からの出血と鼻血が気になるが「峰田には近づくな」と、轟に制される。は戸惑いつつ、視線を巡らせる。他の生徒たちに、大きな怪我は見受けられないようだった。
を守るように伸ばされた轟の左腕に触れる。「怪我をしている人がいるなら、行かなくちゃ」の視線の先には、オールマイトの身体が宙に囚われている。抵抗するようにぐっと強張った腕の力が抜けて、の手によって身体の横へと下される。けれど、の手が離れる瞬間に追いかける指先があって、睨むような強い轟の視線があった。
結ばれた唇は行くなとは言わなかったし、轟の指がに届くこともなかった。は轟の指先をきゅっと握る。
「ごめんね。ありがとう、焦凍くん」
何か言いたげな瞳が伏せられる。「わかった」と、短く答えた轟に頷いて、は駆け出す。足場は不安定だったが、靴を脱ぎ捨てたおかげで何てことはない。
行手を阻むように金属の塊が向かってくるが、爆豪がそれを吹き飛ばす。
ヴィランの手がオールマイトの左脇腹を掴んだ。そこにある古傷をは知っている。オールマイトがらしくもなく、苦痛の声を上げた。
「オールマイトさんっ!」
金属の塊がオールマイトを押しつぶすようにいくつも向かって、何本もの鉄の柱が突き刺さる。「マイトおじさまぁっ!!」悲痛な少女の声が木霊する。
は足を止めない。ヒーローは、諦めてはいけない。
──塊を打ち砕く一撃があった。
そこに込められたパワーは幾程だったのだろう。一瞬にして金属の塊を吹き飛ばし、あたりに爆風が巻き起こる。また無茶をしている、とは飛ばされないように身を隠しながら、眉を顰める。
「いい加減にしなさい、緑谷くん! わたしだって怒るときは怒るんだから!」
瓦礫の陰から出てきたオールマイトと緑谷を見つけて、は叫ぶ。
よろよろと身体を起こした緑谷が振り向いて、驚いた顔をする。緑谷の状態はどうみたって満身創痍だ。オールマイトもまた、苦笑を漏らしている。
「先生っ?」
「くん、」
何とか二人の元まで辿り着いて、は乱れた息もそのままに、自身の左手首を小さなナイフで切りつけた。突然のことに絶句する緑谷の身体を抱き起こして、傷口に流れ出る血液を落とす。
「痛みが、引いていく……」
目を丸くする緑谷を傍目に、はオールマイトに向き合う。そして、緑谷と同じように、己の血液を傷口へ垂らす。
「わたしは、限界を超えていくあなたのことが、」
心配です、と告げることができなかったのは、オールマイトに唇を奪われたからだ。
「えっ、オールマ……いや、せ、先生……!?」
「さて、手を貸してくれ。緑谷少年」
慌てふためく緑谷に、オールマイトが笑みを浮かべて手を差し出す。どことなく顔を赤らめた緑谷が、表情を引き締めてその手を取って立ち上がる。
「ありがとう、くん。さあ、安全なところへ」
その大きな背中は、いつも見てきた平和の象徴に違いなかった。
──顔は隠しても、豊満ボディは隠さず! オールマイト熱愛発覚か!?
──親友デヴィット・シールドにも紹介済み! 結婚秒読み!?
──眼鏡美女の正体は……!
そんな見出しが踊る週刊誌には、I・アイランドのパーティ会場で撮られたらしい写真がデカデカと掲載されている。あろうことか、壇上で交わしたキスさえも載せられている。
は週刊誌を慌てて閉じて、元の場所へと戻す。
思わぬものを目にしてしまい、の心臓が忙しなく動き出す。心配しなくても、この写真の女性とジャージに身を包む自分が同一人物だとは誰も思わないだろうが、それにしたって堂々と撮られすぎている。
はあ、とため息をひとつ零す。休日の病院の待合室は、人気がなく静かだ。
ふいに伸びてきた手が、今し方が戻した週刊誌を取って「これはまた、綺麗に撮られていますね」と、声が降ってくる。よく知ったその声に、ははっと顔を上げた。
「あい、ざわ、せんせい」
「夏休み、満喫されたようで」
パラパラと週刊誌をめくりながら、の隣に相澤が腰を下ろした。「み、見ないでください」と、週刊誌を取り上げようと手を伸ばすが、ひょいと相澤の手が遠ざけてしまう。
わざとの手が届かない位置まで高く掲げて、オールマイトとの記事を見るものだから、は眼鏡の下で泣きそうになる。
「せ、先生っ……」
思わず躍起になって手を伸ばすと、ふいに相澤の手が伸ばしていないの左腕を掴んだ。ぎくりと身体が強張ったのは、傷のあるほうの手だったから──長袖ジャージを捲られて、手首に巻かれた包帯を目視される。
「見ないで、」
は先ほどと同じ台詞を繰り返す。情けなくも、声が震えてしまった。
週刊誌を放った手が、の頬に触れる。少しかさついて、ほんのりと冷たさを感じる指先だ。
「顔色が悪い」
「……いつもの、ことです」
「だが、いつもは自分の足で帰っている。迎えが必要なのは珍しいとばあさんから聞いた」
「I・アイランドの疲れがまだ」
ふい、とは顔を背けた。
は定期的に病院で体液を採取している。の涙や汗などのあらゆる体液には、催淫効果と治癒効果がある。催淫をなくして、治癒だけを抽出する方法が研究されているのだ。血液にはほとんど催淫効果がないのに、治癒効果が高いことから中でも特に注目されているため、いつも多量の血を抜かれるのだ。
貧血状態に陥るのはいつものことで、少し横になれば回復するのが常だ。けれど、今日は休んでも体調が芳しくなく、仕方なくリカバリーガールに連絡したのだが失敗だった。タクシーを使えばよかった。
こんなところを、相澤に見せたくなかった。
自分が研究対象であることが情けなくて、恥ずかしいような気持ちになる。体液の採取は、ただ採血して終わりではない。
「……帰りましょう」
立ち上がると、くらりと眩暈がした。けれど、それを悟られないように、はぐっと踏みとどまる。
「先生」
「は、い」
「俺はこれでも忙しいんだ。生徒と違って夏休みは休暇じゃない。わざわざあなたを迎えに来たのは、ばあさんに頼まれたからだけじゃないんですよ」
え、と呆けた声が漏れる。
「オールマイトからI・アイランドのことは聞きました。週刊誌のことも散々謝られましたがね……それでも、こんなものを見せられたら妬ける」
「やける」
「嫉妬です」
「shit……」
の脳が理解を拒んでいた。座ったままの相澤に引っ張られて、距離がなくなる。
忌々しげに舌打ちをした相澤の唇が、押し付けるような力強さで、の油断しきった唇に触れた。反射的に結んだ唇を、相澤の舌先が強引にこじ開ける。
オールマイトの口づけとは違う。いやらしくて、官能的で、荒々しくの呼吸を奪う。ろくに抵抗ができないのは、体調不良のせいだけではないと、自身わかっている。わかってしまう。腰に回った相澤の手がジャージの下に潜って、背にある小さな羽根の形を確かめるように触れる。
「ッあ」
小さな声を呑み込むように、相澤の唇が隙間なく重なる。
は拳を作って、扉をノックする程度の力で相澤の胸を叩いた。力が入らない。
「……やきもち、と言えばわかりますか?」
吐息がかかる距離で、相澤が囁く。
は涙でぼやけた視界で相澤を見つめる。
「本気ですか? その気持ちは、相澤先生の本心じゃないかもしれないって、思いませんか? だって、わたし、」
きゅ、とは唇を噛みしめる。涙が落ちてしまわないように、まなじりに力を込めなければいけなかった。
「恋だの愛だのに、理屈を求めるほうが合理性に欠けるでしょうに」
「そんな、ことは……」
「個性を恐れるくせに、個性を使う道を選んだあなたを尊敬してます。顔半分見えなくても恥ずかしがっているのがわかるところが、可愛いと思ってます。泣き虫だろうに、必死に涙をこらえるあなたが愛しい」
相澤の手が眼鏡に伸びる。は動くことができなかった。間近で視線が交わる。
「この素顔を見れるのが、俺だけならいいと思います」
相澤の親指が目尻に触れて、溜まっていた涙を拭う。「触っちゃ、だめですよ……」そう言うの声には力がなく、目を閉じて相澤の手のひらに頬を寄せる。
ふ、と吐息だけで笑った相澤が、啄むだけのやさしい口づけを落としてすぐに離れる。
眼鏡が元の位置に戻されて、は瞼を押し上げた。
「血色、良くなりましたね」
にや、と相澤の唇が揶揄いを含んだ形に歪む。
「……わたし、も」
「ん?」
「意地悪で、だけどやさしくて、生徒思いな相澤先生のことが……好きです」
相澤の瞳が見開かれる。その視線が気まずげに逸らされ、首元の捕縛武器で口元を隠してしまう。「不意打ちか、」ぼそ、と呟かれた言葉は、小さく不明瞭だった。
を膝の上から退けて立たせると、相澤も立ち上がる。ごく自然な仕草で手を取られ、互いの指が絡まる。相澤がふ、とやさしげに笑んだ。
「ばあさんに感謝だな」
にやにやと笑うリカバリーガールの顔が想像できて、は「や、やめてください」と小さく唇を尖らせた。