ガン、と壁を蹴りつけた足が、の行く手を阻んでいる。すらりとしたおみ足を呆然と見つめてから、は顔をあげた。「ラキオ」と、これまた呆然と呟けば、不機嫌そうに片眉を跳ね上げる。

「何のつもり?」

 それはこっちの台詞、と思いながらも、は口を噤んだままラキオを見つめた。
 一言えば、十返ってくる。話し合いを終えたばかりで、ラキオと言い合う気力はなかった。

 物言わぬに苛立ったのか、ラキオが大きくため息をついた。「嘆かわしいね」と、肩をすくめてかぶりを振れば、頭の羽根がふわりと揺れる。

「少しはマシかと思っていたのに、期待外れにもほどがあるンじゃない?」

 期待されていたとは微塵も感じられないが──は目を伏せて、いかにも悲しげな顔をして見せた。兎にも角にも、なるべく穏便にやり過ごしたいのだ。
 ラキオがふん、と小さく鼻を鳴らした。

「おやおや、よく回る口はどうしたンだい? ああ、反論の余地もないって? 当然だね」
「…………」
「何とか言ってみなよ。愚かな君にも、言いわけくらいできるだろう? 泣き言があるなら聞いてあげてもいいさ。ほら、懺悔のひとつでもしてみたら?」

 どうやら、納得のいく答えが得られるまで、足を退かす気はないらしい。そうと気がついて、はげんなりする。こんなことになるくらいなら、ラキオの誘いに乗るべきであった。
 しかし、ここ最近のループを思い出すと、ラキオと手を組もうという気にはどうしてもなれなかった。
 何度ラキオを守り切ることができなかったか、はもはや数えていない。

「ごめんなさい。あの、わたし、ラキオの足を引っ張るんじゃないかと思って」
「君ごときに足を引っ張られたくらい、僕には何ともないンだけど。そんなことすらわからないなんて、ほんとうに憐れだね」

 下手に出てもこれである。
 はむっとした気持ちを顔に出さないように気をつけながら、ちらりとラキオを窺う。
 口を開いたことですこしは溜飲が下がったのか、ラキオが足をおろした。ひら、と舞う服の裾が蝶のようで、美しかった。

 ラキオの物言いは、敵を作りすぎる。これは、ループ当初からわかりきっていたことだが、いまは身に染みるほどだ。すぐにコールドスリープされるラキオを守るのは、容易ではないのだ。

「……ラキオ、今日の話し合いを思い出してください。あと一票でコールドスリープされるところだったんですよ」
「あン?」

 長い睫毛に縁どられた瞳が、大きく見開かれてを映した。「っは、それが?」と、ラキオが挑発するように嘲笑う。

「この僕をコールドスリープするほど、馬鹿じゃない……と、信じたいものだね」
「ラキオ」
「うるさいな。まさか、僕に説教でもするつもり? 冗談だろ」
「説教なんて」

 するつもりはないが、溜まっていた不満が口をついてしまいそうで、は唇を結んだ。

「やれやれ、君はガッカリだ」

 思ってもいない口ぶりで告げて、ラキオが踵を返す。
 その背中が見えなくなって、ようやくはため息を吐いた。どっと疲れてしまった。



 後になって冷静に考えてみると、ひどい態度だったかもしれないなとも思う。がループしていることなど、“今回の”ラキオが知る由もなければ、まして彼を守るために奮闘したことだって知りえない。
 これでは、ただの八つ当たりだ。

 協力の申し出を断るにしても、もうすこしいいやりようがあったかもしれない。「いやです」と咄嗟に口にしてしまったのは間違いなく悪手だった。これでは、もラキオのことを言えない。なるべく、円滑な人間関係を築くように気をつけていたのに──
 ぎゅ、と胸の前で両手を握りしめて、はラキオの部屋の前に立つ。
 取りつく島もないかもしれないと思いつつも、非礼を詫びておきたかった。けれど、ドアを叩く勇気がなかなか出ない。

「……なにしてるンだい」

 てっきり室内にいるとばかり思っていたのに、背後からラキオの声が聞こえて、は飛び上がりながら振り向いた。

「ラ──

 喉がぐっと不自然に詰まって、言葉が出ない。
 ヘッドホンを外し、化粧を施していないその姿は、いつもの派手さがない。いつかのSQと違って、にとっては見慣れたラキオの素顔だった。だから、驚いたのはそこではない。
 やわらかくうねる髪の毛先は、まだわずかに水分を含んでいるようだった。雫の落ちる肩がほんのりと赤い。シャワーを浴びてきたのだ、と理解した瞬間にはラキオの腕を掴んでいた。

 ふいを突かれたのか、ラキオからはさしたる抵抗もない。そのせいで、腕を引く力加減とのバランスが崩れて、はラキオとなだれ込むようにして目の前の部屋に飛び込んだ。

 倒れる。
 そう思って、はぎゅっと目を瞑ったが、予想した衝撃は訪れなかった。

「危ないな、まったく」

 咄嗟に踏ん張ったらしいラキオが、の身体を支えていた。ひどく近くに声が落ちて、は閉じた目を開けることができなかった。触れ合ったところからラキオの体温が伝わってくる。
 ──ラキオはいま、何も身に着けていない。

「ふ、服を、着てください……!」

 返事がない。身体が離れる気配もない。
 はそろり、と薄目を開ける。くっきりとした鎖骨が目に入った瞬間、の身体はベッドに投げ出されていた。

「きゃっ」
「あははははっ! 必死になにを言うかと思えば」
「ら、ラキオ、」
「くだらない。肉体的特徴になンの意味があるっていうんだい?」

 ぽたり、とラキオの髪から落ちた水滴が、の頬を濡らす。馬乗りになったラキオが、の頬に指先を這わせた。

「ああ、君程度なら僕でも、肉体的に支配できるのかもしれないね。ふぅん……生意気な口を黙らせるには、こういうやり方もあったみたいだ」

 ラキオの指が顎先を伝って、喉元へと降りていく。ごくり、との喉が震えて、ラキオが不服気に目を細めた。

「……この僕が、そんな真似をするわけがないだろう」

 ラキオがため息を吐く。そうして、あっけなく上から退いた。
 はのろのろと身体を起こして、喉に手を当てる。

 そうだ、ラキオがそんなことをするわけがない。それは彼の美学に反する。
 けれど、やろうと思えばやれるのは事実だった。ラキオは、男性としては華奢で小柄だが、それでもよりは背が高いし骨格も違う。
 心臓がうるさい。は左胸を押さえて、鼓動を落ち着かせようと努めた。

「それで、土下座でもしに来たの?」

 いつの間にか服をまとったラキオが、いつもの調子で挑発する。無理やり動かした唇からは、震えた吐息しか出なかった。ラキオが眉をひそめる。



 おもむろに伸びたラキオの手が、の鼻を摘まみあげた。驚きに身を引けば、ごつんと壁に後頭部がぶつかる。

「いたっ……」
「いつまで呆けてるつもり? と違って、僕は忙しいンだけど? 僕と君の時間の価値が同じだなんて思ってないだろうね?」
「えっ、あ、」
「わかったら、さっさと出ていってくれない?」

 ラキオのマシンガントークにすっかり気圧されたは、ぐいぐと背を押されるまま退出せざるを得ない。

「あっ、その、さっきは」

 すみませんでした、とはそう口にするつもりだった。けれど──

「ごめん。悪ふざけが過ぎたよ」

 不貞腐れたような声が、ドアが閉じる音に紛れて聞こえた。ラキオが謝罪をするなんて。は信じられない気持ちで振り返ったが、そこには無機質なドアがあるだけである。

「あの、わたしのほうこそ、失礼な物言いをしてしまってすみませんでした」

 ドアの向こうから返事はなかったし、開くこともなかった。はそっと苦笑を漏らして「おやすみなさい、ラキオ」と告げた。
 物言わぬドアをじっと見つめて、言うか言わまいか迷った末に、は口を開く。

「また明日」





 朝一番に部屋を訪ねてきたを見て、ラキオは心底呆れた顔をしてみせた。しかし、開かれたラキオの唇からは小さなため息が漏れただけで、マシンガンのような文句は飛んでこなかった。

「すみません、こんな時間に。昨日の今日でおこがましいとは思うんですけど」

 おもむろに伸びたラキオの手が、乱れたの髪を透いて、曲がった襟元のリボンをきれいに結び直す。ラキオの無事をいち早く確かめたくて急いだのだが、手ずから直されるほどひどい格好だったのだろうか。
 指の感触がの動きをぴたりと止めてしまう。唇が、言葉を紡げない。

 美しく彩られた指先が離れていくのを、は黙って見ていた。そんなを一瞥して、ラキオがついと視線を逸らす。
 我に返ったは、途端に恥ずかしくなって、慌ててうつむいた。

「あ、えっと、その」
「…………」
「もう遅いかもしれないんですけど、まだその気があるなら……わたしと手を組みませんか?」

 沈黙が降りる。コツ、と足音が聞こえて、落とした視線の先にラキオのつま先が入り込んだ。
 が視線を動かすより早く、ラキオの指が顎先を持ち上げた。「それがひとにものを頼む態度?」と、冷ややかな視線と声がに突き刺さる。

「見せてみなよ、君の誠意ってやつをさ!」

 愉快げに口角を上げたラキオが、高らかに告げた。

 土下座を強要されている──と、すぐに気づくことができたのは、直近で謝罪をしつこく求められたからかもしれない。
 そのときのやりとりを思い出して、はうんざりした気持ちになる。
 ラキオはおそらく、グノーシアではない。だからこそ協力を願い出たのだが、やっぱり前言撤回しようかな、とすら思う。唖然とラキオを見つめてから、は再び足元へと視線を落とした。
 
 悩んだ末に、は繰り返すループの中でも数えるほどしか経験したことのない、沙明仕込みの土下座を披露した。

「あははははっ、やればできるじゃないか」

 ひとしきり上機嫌に笑ったのち、ラキオがを立ち上がらせた。

は愚かなのは明白だけど、救いようがないほどではないみたいだね」
「つまり?」
「手を組んでやってもいい、ってことさ」

 ラキオの言葉に、はほっと小さく息を吐く。ここまでやってなお、切り捨てられる可能性だって十分にあった。

「ほら、行くよ」

 握られたままの手を引っぱられて、はよろめく。ラキオがこちらを気にかけるわけもなく、は転びそうになりながらも後に続いた。
 それにしても、メインコンソールに向かうには、まだすこし早い。
 の考えなどお見通しとばかりに、ラキオが呆れた顔で口を開いた。

「どうせ、何も食べてないンだろう? イートフェチの君に合わせて、食堂に行ってあげるンだから感謝するんだね」
「え? あ、ありがとうございます」

 言われてみれば、たしかにお腹が空いている。は空いている手でお腹を押さえた。

「…………君さぁ」
「は、はい」
「……いや、何でもない。まったく、議論から離れるとどうしてこうも──
「ラキオ?」

 ラキオの足がいつの間にか止まっていた。不思議に思って顔を覗き込めば、ため息が返ってくる。ぎゅむ、と手を握られては顔をしかめた。

「ら、ラキオ、手が痛いです」
「フン、知らないね」

 む、と唇を尖らせるを見て「振り解けば? できるならね」と、ラキオがせせら笑った。結局、食堂につくまで手は繋がったままだった。

蛍火

(美しくて儚い、守るべきあなた)