がそれを知ったのは、事件からもうずいぶんと時間が経ってからだった。「さんも、雄英出身じゃなかったっけ? 怖いよねぇ」と知人に声をかけられ、雄英高校を卒業したわけではないと否定するよりも先に、首を傾げるに至った。
 の不思議そうな顔に対して、相手もまた不思議そうに目を丸くした。

「もしかして、ニュース見てない?」

 そうして見せられたスマホの画面に、は言葉を失った。
 雄英高校襲撃事件──
 目の前が暗くなるような感覚がして、は思わずふらりとよろめく。見出しだけが目に飛び込んできて、仔細な内容までは見ることができなかった。ただ、襲撃されたという1ーAは、相澤が担任をしているクラスであるということはおぼろげに認識できた。

「わ、大丈夫? 顔、真っ青だよ……」

 知人にはかぶりを振って「大丈夫」と、何とか笑みを返したが、指先の震えは治まりそうになかった。
 それからできるだけ早く、は雄英高校に向かった。


 相澤が自宅に帰らない、ということは、よくあることだった。合鍵を渡されていたけれど、がそれを使ったことはまだない。恋人という関係になったとはいえ、はいまだ相澤を先生と呼んでいたし、そこには年齢以上の上下関係ができあがってしまっていて、には遠慮や躊躇があった。
 それは相澤にも言えることかもしれない。元教え子に手を出してしまったことを、本当は後悔しているのではないか、とはたまに考えては自己嫌悪してしまうのだ。

 連絡ひとつ入れることすら──
 はぎゅっとスマホを握りしめる。単純に仕事が忙しいのだと思って、からは連絡を控えていた。自宅へ帰ったときには、来るか? と相澤から誘いのメールが来るから、それに甘えてばかりいた。

 毎日ニュースは目にしていたはずだった。は雄英高校ヒーロー科を除籍になってからというもの、ヒーローとは無縁の生活を送って来たし、むしろ関わることを避けてきた。それ故に、雄英に関する情報を無意識に遮断してしまっていたらしい。思えば、毎年馬鹿みたいに盛り上がる体育祭も、自分が参加して以来は目にしていない。
 雄英高校の門まで来ると、ちらほらと記者らしき姿が見えた。は彼らと同じように門の中を覗き込み、辺りをうろうろと右往左往する。ヴィラン襲撃事件があったとなれば、セキュリティがより強化されているはずだ。

 相澤に電話は繋がらなかったし、メールの返信もない。

「先生……」

 不安ばかりが募る。
 あまりに恐ろしくて、ニュースの詳細を知る勇気が出なかった。

 こんなふうに怯えてばかりの自分は、一時期とはいえヒーロー科に所属していたことすら信じがたい。「Hey!」とふいに、うつむくの肩を抱く腕が現れて、そのまま雄英の敷地内へと引き寄せた。
 は悲鳴をあげそうになった口元を指先で押さえて、顔を上げる。

「マイク先生?」
「見覚えのある顔がうろついてんなぁと思ったら! じゃん?」

 教師というものは、生徒のことを忘れないものなのだろうか。担任でもなかったし、在学していた期間もそう長くはなかったし、とそこまで考えて、は目を伏せた。もしくは、あまりに劣等生だったから印象に残っているだけかもしれない。
 の心内など知らぬプレゼントマイクがからりと笑う。

「で、いきなり訪ねてきてどうした? が学校に来るなんて、何年ぶりだよってな」

 除籍処分になってから、一度だってここに近づいたことなんてなかった。
 除籍になったとき、どこかほっとしたような気持ちになってしまって、後ろめたい気持ちがあった。それに、相澤に見限られてしまったということが、何より一番堪えることだったから──

「あ、あの、……」
「もじもじしちゃうとこ、変わってねー! いいぜいいぜ、リスナーの気持ち、言っちゃって!?」
「あ、う、その、相澤先生に」

 色付き眼鏡の奥で、プレゼントマイクが目を丸くする。

「イレイザーヘッドに会いに来た? フンフン、なるほどねぇ~」

 にやにやと笑われて、はなおさら身を小さくさせる。「HAHAHA!」と笑い声をあげて、プレゼントマイクがの背をポンと叩いた。

「付いてきな」




 ぐるぐる巻きの包帯の下では、はっきりとした相澤の表情はわからなかった。
 相澤の包帯姿を目にした途端、押しとどめていた不安が爆発するように、ぶわっと涙が湧いた。無事だったことに対する安堵と、怪我を負っているショック、そして今この瞬間までそれすら知らずにいた自分への憤りや情けなさが混ざり合って、言い表せない感情が胸中を渦巻く。

「ご、ごめんなさい、わたし」

 慌てて手の甲で涙を拭うが、まったく止まる気配はなくて、はうつむいた。すぐ傍にいるプレゼントマイクから困惑する気配を感じる。相澤がどう思っているのかはちっともわからないが、おもむろにこちらに近づいてくるのがわかった。
 動いても大丈夫なのか気がかりだが、退院して仕事に復帰しているのならば、見た目よりも軽傷なのかもしれない。その考えは、のただの願望だ。

 相澤が無言でプレゼントマイクを閉め出した。は泣いているばかりで、相澤に会わせてくれたことに対する礼も、会釈をすることすらできなかった。
 自宅には帰らずに、宿直室で寝泊まりしているのだろう。プレゼントマイクがいなくなり、二人きりになったが、は扉の前から動けない。

「……、顔を上げろ」

 口元まで包帯で覆われているせいで、その声は少しばかりくぐもっていた。
 はゆっくりと顔を上げる。相澤の顔を見ると、涙は止まるばかりかさらに増して溢れてくる。

「あー……黙ってて悪かったよ。心配かけたな」
「わたしは、先生がこんな目に遭ったなんて知らないで、ただお仕事が忙しいんだって呑気に」

 相澤が雄英高校の教師であり、プロヒーローであることは、よく理解しているつもりだった。けれど、プロヒーローの一端でもないの感覚は、どこまでも平和ぼけした一般人なのだ。

「ごめんなさい、ごめん、なさっ……」

 ひくっ、としゃくりあげて、はぎゅっと目を瞑った。

「相澤先生を困らせてばかりで、わたし、こんな子どもみたいに」

 まるで、いつまでも出来の悪い生徒のようだ。
 ただでさえ年が離れているのに、これでは恋人というよりもやはり教師と生徒の関係と言ったほうが、相応しいような気がしてしまう。

「手が使えないってのは不便だな」

 ぽつり、と相澤がこぼす。
 は閉じていた目を相澤へと向けた。これだけ近づいても、相澤の表情を知ることができなかった。

「涙を拭いてやることも、抱きしめることもできない」

 相澤がさらに距離を詰めてくる。幾重にも巻かれた腕が吊り下げられて固定されているので、それ以上は近づくことができないところまで来ると、相澤が背をかがめた。
 摺り寄せられた包帯越しの口元が、の涙を食む。

「口のとこ、ずらして」

 はそっと包帯に指をかける。露わになった唇が、の唇に触れた。少しだけ、涙のしょっぱい味がした。

「お前はそれでいいんだよ。言っただろう、お前はヒーローになんてならなくていい」

 相澤の瞳がじっとを見つめる。ほとんど見えない目元だが、それでもやわらかく細められ、唇は笑みを描く。は相澤に見限られたと思っていたが、彼の心内はそうではないのかもしれない。
 でも、と言いかけた唇を結んで、は自分から相澤の唇に重ねる。

「……無事で、よかったです」

 相澤が目を逸らして「くそ、ばあさんめ、大袈裟に巻きやがって」と悪態をついた。そして、もどかしそうに噛みつくようなキスをくれた。

(それを解すのは、いつだってあなたです)